てらさき雄介の日記
DiaryINDEX|past|will
今日は広島に原子爆弾が投下された日。3日後には長崎の日がやってくる。犠牲者を謹んでお悔やみするとともに、政治家として、戦争の根絶と世界平和の実現を改めて決意する。
先週研修会で沖縄に行った際、その合間をぬって訪問した‘旧海軍司令部壕跡’について書きたい。ここは沖縄県豊見城市に所在し、那覇市内から車で20分ほどで着く。
強く印象に残った点がふたつあった。ひとつが部屋だ。当時のままトンネル状の壕があり、そこに掘った穴の部屋がある。幕僚室に行くとその壁には、手榴弾の破片痕がはっきり残っている。幕僚の自決によるもの。
もうひとつは司令官大田實少将が、壕内で自決する数日前に本土あて打った電報だ。その現代文訳が壕内で配布されていたので、全文をここにご披露したい。
「次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍指令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵が既に出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。
さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやって来て以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、ついに(原文不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の現状は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。」
以上
この文章に論評は必要あるまい。沖縄と本土との関係。かつての戦争の実態。政治家の責任。在日米軍基地。他キリがない位多くのことを思うが、既に長くなったのでやめよう。
しかしひとつだけ。末尾にある「後世特別のご配慮」すら、その思いは既に忘れられている。沖縄本島は小さい。ここで数十万規模の戦闘があったとは、想像をこえて悲劇であったとしか言えない。
以前ある人が言った。「人は過去を忘れるから生きていける」。なるほどと思った。しかしそれは個人の話。社会や国を考えるとき、辛くとも過去に向き合うことを避けてはいけない。
●今日一日 【午後】 相模原ライオンズクラブ例会/市民会館 同有志懇親会/中央
|