村上春樹 「海辺のカフカ」を読んで考える |
2005年06月17日(金) |
村上春樹の「海辺のカフカ」を読み終わった。 比較的本を読むのは早いし、一日目の夜と、二日目の夜で読み終わった。 (といっても彼の作品は深いため他の小説より時間がかかったのだが) 日中はなにかとまとまった時間が取れないし、夜になってじっくりと読む。
ここ最近、彼の作品をまとめて読んでいた。 もちろん「ノルウェイの森」なんて代表作なのにも関わらず 高校時代半分読んだまま、そのままにされていたし。 「羊をめぐる冒険」を読み終わって「1973年のピンボール」に手をつけると それが続きであると気づき、今は「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいるのだけれど これもまた話が繋がっている。こうなればきっと「風の歌を聴け」 までも読まなければ終わらないのだろう(これが始まりなのに) そこで気づいたのが「自分は本当に村上春樹の作品が好きだったのか」 ということ。自分が本当に彼の書く小説が好きだったのだろうか、 と自信がなくなってきた。特に「ノルウェイの森」なんて有名なのに そこまで強く惹きつけられるものがなかったのが自分で少し驚いた。 (だから半分読んだままにされていたのかもしれない)
他にも似たようなことを言っていた人がいたけど、 私にとって一番残念なことは、一番最初に読んだ春樹作品が 「ねじまき鳥クロニクル」であり、「ねじまき鳥クロニクル」が 自分にとって大きすぎるのだ。存在感をもって、ありありと。 いろいろ読んでみたけど(といってもまだ全部は読みきれてないけど) やはり自分の中で「ねじまき鳥クロニクル」が最高傑作であるのに変わりない。 長くて、深くて、途中欠落した部分もあったかもしれないけれど、 小説が作者の手を離れて、独立して、勝手に話を進めて、越えてる感じ。 最初に読んだときは、本当に衝撃を受けた。そんな作品だった。
ああ、そうだ。カフカの感想の話だったのに、ずいぶん前置きが長くなってしまった。 というわけでここからは「海辺のカフカ」を読んで感じたこと。 最初読み始めたときは、そこまででもなかった。まあまあかな、と思った。 でも下巻になるころには話にひきこまれて、途中休憩するのも躊躇われる感じ。 全く違うと思っていた二つの話が交錯して、一つになっていく。 相変わらずの謎と哲学に満ちた春樹ワールドは健在であり、 その不思議な感じに惹きつけられる。止まらない。深く思考する、世界。 文章が上手いから話もテンポ良く進むし、他と比べ比較的読みやすかった。 そう、後半になるにつれ難解な部分が易しくなった気がする。 それはきっとナカタさんとホシノさんのおかげかもしれない。 そして最後の一行で、鳥肌が立った。少し感動した。 頭の中でその一文を何度も繰り返して、味わって、飲み込んだ。 「アルジャーノンに花束を」のことを思い出した。 その一行に込められた意味と重さが、まさにあの時と似ていたから。 「海辺のカフカ」を読んで、やはり村上春樹の作品が好きなんだろうなぁ、私は。 と再確認することができたのかも。うん、悪くなかった。 彼の作品の空気や雰囲気は、独特で、私の心を惹きつけてやまない。
その後すぐ綿矢りさの「インストール」を読んだのだけれど、失敗だった。 (これは短いし読み終わるのに30分もかからなかったのだが) 村上春樹の深い抽象的で哲学的な話を読んだ後だったので、 どうも一枚の紙のように薄っぺらく感じたのだ。うん、これは失敗だった。
大学に入って、本を読まなくなった。 参考書とか研究書の類はもちろん読むけど、小説とかは全然読まなくなった。 最近はテストやレポートからも開放されたせいか、 本を読む時間も昔よりは増えたし、若いうちに読むべき本も多いし、 空いた時間があったらなるべくたくさんのものを読むようにしている。 「戦争と平和」とか「罪と罰」とか「車輪の下」とか「異邦人」とか 「若きウェルテルの悩み」とか、こんな有名な文学作品でさえ読んでない。 こういった本は教養として、学生時代に読んでおくべきであると思うのに。 「ライ麦畑でつかまえて」は読むにはもう遅すぎるに違いない。 ああ、10代のうちに読むべきだったと思う本が山ほどある。 夏目漱石も悪くないしなかなか良いと思ってる。「こころ」なんか特にね。 海辺のカフカに触発された今はやはり「坑夫」を読むべきだろう。
|
| |
| |