くるぶしニッキ

2015年10月23日(金) 2012〜13年にあったこと(4)

2013/10月中旬

「突然歩けなくなりました(涙)」と母さんからメール。何事かと電話してみると、右の足裏が地面に少しでも触れると激痛が走ると(汗)今までの関節系の症状とは明らかに違う痛みらしく大変そう。もちろん父さんの具合はよくないし、実家がとんでもないことになってきた…。帰ってあげたい……けど、今後のことを考えると……(苦悩)


2013/11/15

母さんあの後色々あって(足の主治医がすっとこどっこいで担当医変更してもらったりとか・苦笑)手術も決まり入院。1週間から10日くらいで退院できるよ、と言われたものの…傷の治りが悪い母さんだしな、と娘懐疑的。


2013/11/18

母さん手術日。
父さんは体力も落ちてるし感染症も心配なので自宅待機。トシオ伯父夫妻、ミエコ伯母が立ち会ってくれた。手術は予定時間を大幅に過ぎて終了。なぜ時間がかかったかと言うと、麻酔がなかなか効かなかったから(苦笑)
待ってる人間達は気をもんだけど。特に父さんは無事終わったと時間が過ぎても連絡がこなくて心配した挙句あちこちに電話をかけ、自宅の電話の設定をおかしな風に変えてしまい、伯母達からの電話を着信拒否設定にしてしまっていた(笑)


2013/11中旬〜下旬

母さんが入院中、父さんがお見舞いにきてもヨタヨタフラフラしていて、同室の患者さんや病棟の看護師さん達にも「大丈夫なの?」と凄く心配されていたらしい。母さんも見ていて辛いから「こなくていいよ」と言っても最初のころは毎日きてた、と。でも、その後は家から出ずに(出られずに、かな)母さんの退院を待っていたみたいです。(当然娘は心配で頻繁に電話をしたりメールをしたりしていましたが……。)


さてその頃の私は。
父さんの具合がかなりまずい状態になってきているのをひしひしと感じていたので、いつでも帰省できるようにしていました。

が。
たちの悪い風邪をダンナにうつされ、かかりつけ医に「肺炎になってるかも」とあれこれ検査されるくらい酷い気管支炎に苦しむ羽目に(涙)
こんな状態で帰省したら、私が父さんにまずい感染症をうつしてしまうー…。げほげほごほがほ。


2013/12/2

父さん入院。入院したくないとゴネてゴネて先週の金曜日、病院で母さんと大喧嘩しかけていたけれど(遠い目)トシオ伯父夫妻が実家へ父さんを迎えに行ってくれて、(病院についた後は)もうほとんど歩けない状態だったから車椅子に乗せて入院させてくれたようだ。
病室に入った後、母さん(当然歩けないので車椅子)が様子を見に行くとお気に入りのシャツにスラックスの姿でベッドに腰掛けていたから「早く(患者用のパジャマに)着替えないと」と急かすと「(手に力が入らなくて)シャツのボタンがはずせないし、立ち上がれないから着替えるの手伝ってくれないか」…と。気力・体力の限界だったんだね…。


12/4

「父さん、オムツになりました」と母さんからメール。予想以上に衰弱が早い…。私の気管支炎が治るのはもう待てないので週末帰省することを勝手に決定。(相変わらず一日中たちの悪い咳をしてる状態)

凄い勢いで荷造り(ダンボール3箱分。……ダンナと私の喪服(涙)一式込)をしたり、あれこれ準備。ダンナの仕事が忙しいのでお犬様は私が連れて実家で面倒をみることになりました。


12/5

入院中だった母さんの姉(私には伯母)が死去。と言っても88歳だったので大往生かな。「おばちゃん」と言いつつ「おばあちゃん」くらい歳の離れた伯母さんでしたが、子供の頃から随分可愛がってもらいました。
……だがしかし、父さんや母さんのことで頭が一杯だ(汗)


12/7

移動日。

当然私の具合はまだ全然駄目な状態なので処方された薬で色々無理やり抑えつつ、ふらふらしながら飛行機乗り継ぎ。(機内では毛布3枚使って蓑虫状態になりながら寝ていました)地元空港には昨日の夜遅く帰省していた弟が迎えにきてくれた。ありがとう、凄く助かるよ。

実家に犬を置いてから、すぐ病院へ。父さんの病室は詰め所の目の前に位置する「重篤患者の部屋」。子供達が帰ってくるのを楽しみに待っていたようですが、自力では起き上がれない状態で、夏に帰省した時よりもさらに痩せこけ話し声もか細くて聞き取りにくく、「ああ、本当に父さんはもうすぐ死んでしまうんだ」というのを実感できる姿でした。
覚悟はしていましたが、あの姿を見るのは凄く辛かったです。


12/8

「次は2週間後に3連休あるからその時に帰ってくるね」と父さんに声をかけて弟は帰宅。
父さんは顔色がいいけれど、ぼんやりしている。薬(痛み止めの麻薬)が効いてるみたい。


12/9

数日前亡くなった伯母は晩年娘が住んでいる街に引っ越し(私の地元からは120キロほどの距離)葬儀はそこの街で執り行われたので、伯父伯母達は数日そちらに行っていました。
実は仙台に住んでいる母さんの妹のセツコ叔母夫妻も今回きていて、伯母の葬儀が終わった後、父さんと母さんのお見舞いにきてくれました。
叔母夫妻が父さんに話しかけてる最中、起き上がれないからベッドに横たわったままの父さんがぽつりと呟いた言葉が

「俺の釣ったアブラコ(魚の名前)、食べさせてやりたかったな」


叔父も叔母も、その言葉を自分の病室で聞いた母さんも泣いていました。セツコ叔母と「今度は楽しいことの時に会いたいね」と言い合ってお別れ。


12/10

この日、地元は暴風雨。この時期の雨は路面が凍結して危なくなるからやめてくれーと思いつつ大荷物で病院へ。
右手にバスタオルやタオルケットが入った大きいバッグ、左手は父さんの紙オムツのパック(寝たきりになったので種類を変えることになり買ってきた)などを持ち、車から降りて歩き始めたら風に煽られて吹っ飛びそうになった(苦笑)



父さん母さんの看病をしながら、色々なこともしていました。
確実に近づいてきている父さんの葬儀をどのようにするか。葬儀を執り行うために必要なお金のこと。多額のお金を引き出すための準備。
そして父さんの釣り仲間や仲のいい近所の人がお歳暮を持ってきてくれたりしたのでそれらの対応など。
さらに、自宅から実家へ連れてこられ長時間の留守番をしているわんこがすっかり「暴れ犬」になってしまい私の疲れも倍増(苦笑)


12/12

父さん、ずっと寝ている。それはそれはもう、いびきをかきながらぐっすりと。母さんが単独で会いに行った時は起きていたようだけど。


12/13

痰が絡み始めて苦しそうな父さん。痰を切るのが得意だったのに(…変な特技だが)。もう自力で痰を吐くこともできなくなってきたようなので(痰の)吸引をお願いしたんだけど、一回目(喉から)だけでは取りきれなくて二回目(鼻から)をやった後、余程苦しく痛かったのかここ最近では一番大きな声ではっきりと「もうたくさんだ!」と涙ながらに怒っていました。でもね、痰がつまって呼吸困難になったら…もっと苦しいからさ…。(そしてこの日は雪が凄い勢いで降っていて、帰る時病院の平面駐車場に停めていた車を動かせるようになるまでかなり時間がかかった…。疲れてるのにー)


12/15

日曜だからかお見舞い客が多かった日。テツオ伯父夫妻、トシオ伯父夫妻とその娘の(私には従姉)ミドリお姉ちゃん。父さんの釣り仲間のフジイさん。父さんはたまに目を開けるものの、ほとんど寝てる状態。

12/17

父さんにモニター(ドラマとかでよくあるアレ)がついた。これで詰め所に父さんの容態がすぐわかる状態になったから安心……だけど、いよいよ近付いてきたかとも。父さんの病室にいる時はできるだけ明るく母さんと話していたけれど(父さん本人は寝ているからわからないのに)母さんの病室に戻ってくるとお互い暗い顔をしていたなぁ…。


12/18

父さん、酸素チューブも装着。ついにフル装備(苦笑)
そして主治医と面談。余命は1ヵ月。それは覚悟してたからいいとして、「この状態が長引くようだったら転院してください」と。入院してからあっという間に容態が悪化して、もう意識もほとんどない末期癌チューブ関係フル装備状態の患者を転院…?ふーん…と娘は思っていたのですが、母さんはすっかり思いつめてしまった様子。
夕方トシオ伯父夫妻が来て、転院話をした結果…。

12/19

次の日には親戚一同(横浜、東京、仙台など遠方含む)に話が回っていた(笑)
特に激怒り状態だったのがテツオ伯父夫妻。母さんに「私達が全力で転院を阻止するから心配しないで!」と電話してきたようだ。


テツオ伯父、実は長年ここの病院で働いていたバリバリの外科医で元院長。現院長も元部下。前院長も元部下。(前院長の前がテツオ伯父)今働いてる各科一番上の医師達は全員テツオ伯父のことを知っているし、お忍びで月イチ現院長に呼ばれては色々悩み相談されているらしい(笑)テツオ伯父の奥さんのミエコ伯母も有名らしく、コーヒーを買いに伯母と2人でロビーを歩いていたら総合案内の職員さんがすくっと立ち上がり「奥様お久しぶりです。お元気でしたか?」と挨拶していて度肝を抜かれました。
そんなテツオ伯父はとにかく目立つのが嫌な人なので、ここの病院には土日祝の職員が少ない日を狙ってきていたけど、すっかり「激怒りモード」状態になってしまったからこの先どうなるのやら…。本当に「全力で転院を阻止しそうで怖い(苦笑)

そして今日は父さん73歳の誕生日。病室に置いても邪魔にならない小さめのプリザーブドフラワーをネットで購入し数日前に届いていたのでバースデーカードを一緒に持っていきました。「父さん誕生日おめでとう!」と耳元で言ったら少しだけ目を開けてくれましたよ。

転院問題でナーバスになってしまった母さん。胃の具合が悪くなって食べてもすぐ吐いてしまう状態になってしまいました。ご飯は食べたくないけど、低血糖になったら困るから少しでも何か食べなきゃ!と母さん選んだのが隣のベッドにいるヒロミさんから貰ったシュークリーム。クリームなら甘いし、少しの量で大丈夫…という判断だったらしい(笑)その結果は当然クリームの油脂分にやられて夜中嘔吐する羽目に。

12/20

「そんなこんなで昨日の夜中吐いてしまったんだけど、今日は朝ごはんも少し食べられたし元気になってきたよ」と。そして「もちろんシュークリームは全部食べられなかったからあんた食べるかい?」と言いながら差し出したものが…「かじりかけのシュー生地」「スプーンでほぼ全部掘り出されたクリーム」「なぜか物体に刺さったままのプラスチックスプーン」……「母さん、これはね、シュークリームじゃないよ。元シュークリームだよ。もっとわかりやすく言えば残飯だ!!!」
朝から娘に怒られる母(笑)

夕方わんこをシャンプーへ。夕方と言ってもこっちはこの時期午後4時前には真っ暗になるけど。

そして父さんは……話しかけても手足をさすっても、もう目を開けてくれなくなりました。
所謂昏睡状態です。痛くないなら、苦しくないならこれでいいんだと、いびきをかいている父さんを見ながら思っていました。いや、思うように努力していた、か。
「俺は苦しみたくない」。丁度10年前、同じ肺癌で壮絶な闘病の末死んだ一番下の弟を見ていた父さんの願いだったから。


12/21

今日から世間は3連休…と言うことで弟が夕方帰省予定。姉は正直ヘロヘロだけど、数日前にカツコ伯母が差し入れしてくれたカレーがあるし付け合せにポテトサラダだけ作ればいいかなと。あ、弟よ、姉は忙しいんで駅まで迎えにいけません。自力で帰ってくるように(笑)
この日は急遽主治医と面談がありました。父さん、黄疸も出てきてるし容態はかなりよくないとのこと。
夕方テツオ伯父夫妻がお見舞いにきてくれて「さて帰ろうか」と病室を出たところで父さんの主治医とばったり鉢合わせ。いつもなら伯父のことを知らない医師には会釈程度で自分のことを絶対に明かさないのですが、今回はしっかり苗字を名乗り、呼吸器科を始めそこらの科の上の医師達が知り合い(というか後輩)であるような内容の話をさらーっとして帰っていきました。ああ、伯父さん怒ってるんだね、とんでもないプレッシャーかけていったなぁ…。その場に残された私と主治医は何とも微妙な空気(笑)まさか「あの人、元院長なんです」とも言えず。多分あの後すぐ調べてバレただろうけど。

夜、実家に帰省してきていた弟と今後の話をしてから就寝。

12/22

弟と病院へ。2週間ぶりに父さんに会った弟、意識がない状態の父さんに衝撃を受けた様子。
昼前にトシオ伯父夫妻が「父さんが予約していたクリスマスケーキ」を受け取って来院。デイルームで伯父夫婦、弟、母さん、私の5人でケーキを食べながら「去年も(ここで)ケーキを食べたけど父さんもいたのにね…」と。(私と弟はいませんでした)

夕方帰宅中の車内で弟に「姉ちゃんごめん。あんな状態の父さんと母さんに一人で向き合わせて」と言われました。「いいんだよ、あんたは仕事があるんだから」と運転しながら答えるのが精一杯でした。明日自宅に戻るけど、それまで僕が父さん母さんにつくから姉ちゃんは少し休みなよ…と言ってくれたのですが次の日はそれどころではなかった…。


【2013/12/23】

お犬様の散歩(外気温−10℃以下…)洗濯や掃除をしつつ早めに病院に顔を出して夕方自宅へ戻る弟を駅へ送って行こうかとしていた所、母さんから「すぐきて!」と電話が。父さんの容態が急変したのか?と弟と2人で急いで行ったものの、あれ…?父さんの病室に母さん@車椅子がいるものの、あまり緊迫した状態ではないぞ。
でも隣のベッドにいた人(まだそこそこ元気)が部屋替えになっていて2人部屋は父さんだけになっていました。そう、空いたスペースには簡易ベッドを置いて親族が付き添える状態に。

そうかー、母さんは入院中だし、弟はもう自宅に戻っちゃうし、私が付き添いするしかないのか…?そんな中、この日の病棟は立て続けに2人の患者さんが亡くなりさらに複雑な気持ちに。(「次はうちか?」と)

あれこれ考えているとトシオ伯父夫妻が「やっぱり心配でなー」と、また来院。すぐにテツオ伯父夫妻、ユウゾウ伯父もやってきて病室大賑わい(苦笑)でも父さんの呼吸状態を見た(「診た」かな)テツオ伯父、「ああ、もう努力呼吸になってるなぁ…」「あんまりもたないかもな…」とも。

結局私一人でずっと付き添いは無理だから、弟が仕事を休んで夜は付き添うことに決定。(幸い年末の休みまであと残り数日だったから無理ができた)

そんな中トシオ伯父の奥さんのキヨミ伯母が「いざという時の為に荷物を片付けておいた方がバタバタしないよ」と。それもそうだね、とバッグに荷物をどんどん詰め込んでいきました。この荷物達は「色々足りないものもあるし、今日のチケットもキャンセルしてくるから暫く出てくるね」と言う弟が実家に持ち帰ってくれました。重いから助かった…。

その後、伯父達も帰り母さんも病棟に戻ると病室は静かに。「フル装備」父さんに付き添いながらぼんやりしていました。

午後6時前、弟が再び来院。付き添いを交代した後、母さんの病室に少し顔を出して病院を出た後、買い物をして帰宅。真っ暗な中散歩に行って、適当に夜ごはんを食べ、お風呂に入って一休み。さすがにいつ呼び出しがくるかわからないから暫く酒は飲めないな、とほうじ茶を飲んでました(笑)

なんだか落ち着かないけれど、とりあえず仮眠を取ろうとベッドに入ってすぐ枕元に置いてた携帯に着信。時刻は午後11時2分。弟からでした。

「姉ちゃん。絶対に慌てず落ち着いてゆっくり運転してきてね。」「了解」

短い会話の後、ダンナに「父さん危篤だから今から病院に行く」と連絡を入れ、すぐ着替えて車へ乗り込み病院へ向かいました。(あらかじめ着替えと財布や免許証を入れたバッグと車の鍵を一箇所に用意していた)
慎重に運転をして病院へ到着。夜間の通用口にはすでに警備員の人がいてドアを開けて待っていてくれました。急いで病室に行くと、「○○(私の名前)がきたよ、父さん」と母さんの声が。看護師さん2人と弟、母さん(もちろん車椅子)が父さんのそばにいました。血圧は昼間よりもずっと低く、脈拍もバラバラ、呼吸も浅く一定していないのでモニターの警告音が鳴り続けていました。
私の後すぐトシオ伯父夫妻も到着。
そして



午後11時36分。父さんは静かに息を引き取りました。






……

この時点で病室にいるメンバーは母さん、弟、私、トシオ伯父夫妻、看護師さん2名。そう、死亡宣告ができる人間がいない(苦笑)昼間2人の患者さんを看取った主治医は自宅に戻っていたようで(こんな時間だし、そもそも今日は天皇誕生日で祝日だ)父さんの臨終には間に合いませんでした。
そんなわけで主治医が到着して死亡宣告した時間は午後11時47分。父さんが死んだ公式タイム(…苦笑)はこの時間になります。

ちなみに父さんの息が止まってすぐトシオ伯父が「11時36分か…」とつぶやいたのですが、私と弟、看護師さんが「それは先生(主治医のこと)が言うから!」とすぐ突っ込みを入れていました(笑)




この後、怒涛の「仮通夜・通夜・葬儀」編がありますが、大変長くなったので一旦ここで区切ろうと思います。暗い内容の長文を最後まで読んでくれてありがとうございます。




……もうすぐあれから2年です。


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