堀井On-Line



3027,アキバ・オタク文化

2009年07月19日(日)

 現在、秋葉原が注目を浴びているが、秋葉原は昔から時代の10年先を行っていたという。
現在は秋葉と、中野ブロードウェイは「お宅」だけでなく、外国観光客のスポットになっている。
引きこもりのオタク文化は、新自由主義の変化が引き起こした歪みの側面がある。
しかし電器商品や、萌えとか、コスプレなどのファッションは面白い独自の世界を形成している。
 ーウィキペディアによると
・まず戦後、闇市から出発。 
・1960年代に入り、家電の街になって、 
・70年代になってオーディオの街に、
・そして80年代がマイクロコンピューターの街になり、
・90年代でマルチメディアの街に、
・2000年代になってオタクの街になった。
 それが時代が過ぎても、それぞれが生き残こりながら重層化をした奥行きの深い独自の文化圏をつくりあげている。 
先週に上京した時に二泊したが、二日目の午前中の空白時間に、秋葉原を三時間位をぶらつくつもりでいた。 
ところが大阪から上京してきた友人と東京の友人の二人に「時間つぶしに、何処かに行こう」と誘われた。
その時に、「秋葉に行くつもり」というと、好奇な目で「秋葉に行くの?」と言われてしまった。 
友人の誘いの方が面白そうなので、そちらを選択した。(結局、腰痛でホテルで時間ギリギリまで寝ていたが)
それほど、引きこもりの集まる場所という偏見があるようだ。 80年代のパソコン趣味の人が集まっていた時は、
彼らは怪しい目でみられていたが、今は多くの人が買いにくる。そうすると現在の萌えなどとメイド喫茶に集まる青年達の嗜好も、
世界の最先端を行っているのかもしれない。 バーチャルと現実の混合を売りとする劇場型飲食店が
世界の潮流になるということ? インターネットなどの影響で、その世界が主流になっても不思議ではない。
 世界恐慌の中で、中産階級が消滅し大多数が貧困層になるなら、全体が秋葉系になるのも解らないでもない。
< 秋葉が世界の最先端? 個々人が尊重されるが、貧しくなる。そして情報だけは極大化していく。>
 世界は果てしない情報化で、「相対化」「総体化」そして「普遍化」していく。 それに「個別化」「自由化」も。
  ということは、地球全体が都会化していくということだ。  良いのか悪いのか!
   そういえば、自分が歳とともに、どんどんオタク化している現実がある。 
  読書嗜好の人を何ゆえにオタクと言わないのだろう。 認可されているからでしかない。
   いや、それが、行為としてベストのことだからである。 その辺を間違わないことである。

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2662, 閑話小題
2008年07月19日(土)

 *図書館の、ある光景
もう三月になるだろうか、昼休みに図書館の、あるコーナーに行くと、その二メートル先の
立ち席の机に三十冊ほどの本を積み上げ、腕まくりをしてノートに書き写している40歳位の男の人がいる。
週に一度は、そのコーナーに行くので互いに意識?をする。 座り机が幾らでもあるのに、立って調べている。
その方が気持ちを集中出来るからである。 研究者なのだろうが、ただ者ではない雰囲気を漂わせている。 
 何事かと、思うのは当然だろう。
  ーー
 *地球儀
私の事務所の机の前に地球儀がある。二人の息子が使い、その後ゴミ箱に捨てられいるのを見つけて、
会社に持ってきたもの。 表面は茶色になり、割れてボロボロでみるに耐えない。
そこで新しいのを買おうと決心して「ツタヤ」で特価品を見つけ買おうとしたが、留まった。
そして汚い地球儀をジッと見たところ、表面の割れているセルロイドは実はカバーで、二重構造に気づいた。
そこでハサミで剥いでいったら、内側の新品同様の地球儀が顕れたのである。
25年前の地球儀で、ロシアはソ連であるが、何となく地球を俯瞰するのが目的で大よその位置が解れば十分。
  ーー
 *喉ぼと過ぎれば熱さを忘れる
先日の地元紙に、柏崎沖震災の被災者300人アンケートで「原発再開が6割容認、2割が反対」とあった。
震災から一年しか経ってないのに、驚きである。無知?としかいえない。
たまたま、大爆発が起きなかっただけというのが解らないのである。それより、もし東電が撤退したら
柏崎は「死」の街になる。ドッチの「死」を選択するかという皮肉な選択を迫っているということか。
  ーー
 *神様に信じられる人間か?
新聞の本の見出しに「神様を信じなくて良い、神様に信じられる人になれ」という
言葉が目に入った。神様に信じられる人間?とは如何いう人間だろうか?
果たして、そんな人間などいるのだろうか。 マザー・テレサ? 
それより神様とは、何だ? この宇宙の外の何かで、この宇宙を創造した存在?
人間が自分のサイズに合わせて都合よく創った存在? それに気に入られる人間?など、薄気味悪い?
いや、現に、それらしき人がいる? 解りません!

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2007年07月19日(木)
2298, とどまりたまへ旅人よ

 わきめをふらで急ぎ行く  君の行衛(ゆくえ)はいづこぞや
 琴花酒(ことはなさけ)のあるものを  とどまりたまへ旅人よ
 ーー
藤村の、この言葉を若いときの自分を振り返って、投げかけてやりたい言葉である。
「わきめをふらで」何を目指していたというのか?‘お前、何を焦っているのか、もっと今・そこをみたら!’と。
時は戻らない、しかし、しかし!・・である。それが青春なのだろう。ただ、精一杯生きればよい!ということではない。
といって、精一杯生きなければならない時節もある。誠実に生きることだ、自分自身に。そして、その時、そのことに。
しかし、とどまっていては駄目な時もある。 わきめをふらないで歩む時も! 
  まっすぐに、歩かなければならない時もある。 とどまることも、必要ならとどまることだ、琴花酒とともに。
楽しんだら、酔いがさめたら、立ち去ることだ、それが人生だから。
  ーー
 島崎藤村 「若菜集」ー『酔歌』より
 
旅と旅との君や我     君と我とのなかなれば    
酔ふて袂の歌草を     醒めての君に見せばやな
               
若き命も過ぎぬ間に    楽しき春は老いやすし
誰が身にもてる宝ぞや   君くれなゐのかほばせは
 
君がまなこに涙あり    君が眉には憂愁あり
堅く結べるその口に    それ声も無きなげきあり
 
名もなき道を説くなかれ   名もなき旅を行くなかれ
甲斐なきことをなげくより  来りて美き酒に泣け
 
光もあらぬ春の日の    独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に   老いにけらしな旅人よ
         
心の春の燭火に      若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば  哀しからずや君が身は
              
わきめもふらで急ぎ行く  君の行衛はいづこぞや
琴花酒のあるものを    とゞまりたまへ旅人よ
ーーー
最近、こういう歌に惹かれるようになってきた。 振り返るようになったからである、人生を! 
少なくとも、人生に大きな悔いが無かったことが、すくいである。

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2006年07月19日(水)
1933, 霊界からの訪問者-2
   (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ? ヨウ  ユーレイイホー ♯♭
ー四四太郎の霊日記?3

宗親よ、御前の命も10年か20年、早ければあと5年だろう。 そんなものだ。それじゃ~、本当に解っている
というと解ってないだろう。こちら側の殆んどの連中は「まさか自分が死ぬなんて思ってもいなかった」
と言っているよ。死ぬ意味がわからなかったようだ。それは生きる意味がわかってないことと同じことなんだよ。
死ぬとね完全に無になって数十年か数百年の休みを貰って娑婆世界に戻される、と思ってりゃ良いんだよ。
実際は、??・・ ただ、誰もが死に際に後悔をするんだ。 あれもこれも、何故しなかったのだろう?と。
「人生は二度とない」は、お前の口ぐせだったろう。ワシがこうして出てきたからには、これから死ぬまでの間、
生き方を指導してやるよ。それとも、お前の脳に光を当ててやるよ。
前にも言ったとおり、人生の60年や80年など一瞬でしかない。   そして、ある日、一瞬に終わりになるんじゃ。
                    \(+×+)/バタンキュー
それでいいんだが、その日まで 光り輝いて生きるべきだといっているのじゃ。
といって、それほど深刻になることも無い!ただ、せっかく短い人生、何時までもあると思うな!ということさ。
御前の好きな言葉に「正中心一点無」という言葉があるだろう。 常に物事の中心を見つめ求めること、
そうすると中心点の無からエネルギーがでてくるのじゃ。その正中心一点無がワシであるのだ。
だからワシの声は真実なのじゃ。                   つづく     
              ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪   
ーーーーー
四四太郎の霊日記ー4

霊のことを、結局はお主の頭で考えた範囲のことでしかないと思うだろうが、
ワシの口を通すと全く違う視点になるのじゃ。「無への窓としてのワシがいる」と言っただろう。
だからワシが話している時は、一種の瞑想の状態と同じ。
御前はワシが付いた時は、全く違った人間になっているのじゃ。ワシは気まぐれで、扱いにくいのだ。
この宗親氏の道具でも使用人ではないからの~。 さて今日は何を言おうか考えてなかったが、
最近、癒しとかいう言葉があるじゃろう?    ( ̄ω ̄;)!!
あれはワシの目から見たらおかしいと思うのじゃ。人間は生きていく上で、傷つき血だらけになるものじゃ。
その根本を変えないで、結果としての心の傷の対処をしようとするだろう。
まともな癒しは、その根本対処をするもので、傷口だけを治そうとする癒しは何の対処にならない。
ただ爛れるよりよいから、緊急処置も必要だがね。人間世界では、何かおかしな風潮があるのが不思議でたまらない。
傷つくのを異様に恐れたり、嫌ったりするが、それと同じくらい、その傷は人生の深さを教えてくれるものじゃ。
親鸞とかいう坊様もいっているだろう、悟りとかは深い心の傷を乗り越えてこそえられるもの。
アチラから見ているとそれがよく解るのじゃ。 それにしてもワシの言っていることは胡散臭いの~  (^_^)v
まあまあ、もういっぱい  (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?

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2005年07月19日(火)
1568, 退屈について

退屈な時間を誰もが当然経験をしている。 
しかし一部の哲学者を除いて退屈に対して真正面から考えようとしなかった。
退屈といえばトマス・マンの「魔の山」を思い出す。隔離された療養所の中で延々と議論がつづくのだ。
過去の人生を振り返ってみると、暇で退屈な時ほど一番効果的な何かをしていた。
何かをやろうとする時は、意図的に空白時間を置く。ABC分析のAのことだけに直面できるが、多くの手持ち時間を持て余す。
それが、良いのだ。 般若心境の[[空即是色]である。その退屈な時間に多くのことを考えることができる。
忙しくて仕方がないときは、ロボット的仕事ばかりをしていた。暇な時間、いや退屈な時間という現象を
もっと深く考えてもよいだろう。携帯電話は考えてみたら、暇や退屈な時間を無くしてしまったのかもしれない。
「小人閑居して不善をなす」という言葉もあるように、退屈な時間に何をするかである。
退屈とは意味の欠如からくることが多い。何もすることに意味を見出せない状態が退屈の状態であろうか。
フランクルの「意味への意志」の欠如ということである。反面、そんなことに全く関係ない、退屈の気晴らしの
人生もよいのかもしれない。いや実際、それが人生だろう。所詮人生は何の意味の無いことの上で成り立っているのか?
もし、そうだとしても、それで良いのではないか?
子育てに、家事に忙殺されている主婦に退屈はないだろう。また女性にとって子育ては最も意味あることである。
子育ても終わり、家事もマンネリになった時に退屈がでてくる。そこで、次に意味を探すことになる。
それを見出せないと、退屈が覆いかぶさってくる。そして欝になる。欝はだいたい10?の人がかかるという。
欝体質の人はもっと多いだろう。まあ退屈紛れに、退屈について書いたが意味は深い。「退屈の小さな哲学」という本を、
図書館で借りてきた。まだ読んでないが、この本の中に多くのヒントがありそうだ。

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2004年07月19日(月)
1203,実存哲学(2) 
 ー哲学についてー18

ーマルクス?1
実存哲学が「主体」(自己)をテーマにしたのに対して、マルクスが「存在の哲学」を主張した。
包括的な主体の哲学である。マルクスの哲学上の最大の発見は、資本主義生産システム分析を通して、
・この社会は合理的に統御不能な存在である、
・人間の「主観」から独自な「主体」(意志)を持つことを見出したことである。
「資本主義社会を根本的に動かしている力は、生命力を無制限発動している無意識である」ということを明らかにした。
マルクス主義がみごとな思想体系をそなえている理由は、ドイツ哲学、フランス政治理念、イギリスの経済学という
三つの知的伝統を融合させたものであったからだ。したがって、マスクス主義は哲学には分類できない。
マルクス主義は、そのほとんどがヘーゲルから受け継いだものでしかない。 ある本に、ヘーゲル哲学と
マルクス主義の共通する考え方を10に要約していた。非常に解りやすくまとめてあったので書き出してみた。
1、現実はものごとの状態ではなく、つねに進行中の歴史的プロセスである
2、現実を理解するには、歴史的変化とは何かを理解する必要がある
3、歴史的変化は、無作為におきるのでなく、発見可能な法則にのっとっている
4、この発見可能な変化の法則は弁証法的であり、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの運動を繰り返している。
5、この法則を繰りかえす原動力は疎外といわれ、その疎外によって、どのような
  状態になっても内部に矛盾を生じ、それは終わりを迎える
6、このプロセスは人間にはコントロールできず、それ自体が内部にもつ法則によって前進させられる
7、このプロセスは、内部にある矛盾が解決されるまで反復され、矛盾が解決されると
  疎外も解決される。変化をうながす原動力もなくなる
8、このような対立のない状態に達すると、人間は自分で制御できない力によって
  流されることもなくなり、自分で自分をコントロールし、自分自身が変化の決定者になる
9、こうなってはじめて人間は、自由と自己実現を達成できるようになる
10、最後には、自由が謳歌され、自己実現が可能な社会が到来するこの社会は、自由主義者が理想とする、
  個々人がバラバラに活動する分断した社会ではなく、それ々人の人生とは比べものにならないほど
  大きく充実した全体の中に個人が吸収される有機的な社会になる

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2003年07月19日(土)
836, 私のクレートジャーニー

ー<グレート・ジャーニーとは>
「人類は、400 万年前、東アフリカに誕生し、アジア、極北の地を経て、ついに 1万年前には、南米大陸最南端の
パタゴニアへ到った。 この 5万キロの大遠征をアメリカの考古学者フェイガンは'GREAT JOURNEY 'と呼んでいる。
関野吉晴氏が大遠征の道筋を、自らの脚力を頼りに、逆ルートで踏査をした旅をTVで、
数年間ドキュメントで放送した。私はツアーだが、今回のアラスカ旅行で(シベリアの地をを除いて)
点線で、グレート・ジャーニーをしたことになる。ー少し強引な理屈付けになるが。
・ケニア・タンザニアから下は南アフリカ、西アフリカからモロッコ、スペインを経て西ヨーロッパから
 北欧、ロシアのルート。・シルクロードのコースはエジプトからトルコ、イスラエル、ヨルダン、シリア、
 レバノンを経て、インド、ネパール、パキスタン、ウイグル地区、桂林、北京を得てシベリアへ。
・香港より南下するコースはベトナム、タイ、フィリッピン、そしてフィジーからニュージーランドへ。
 ーまだ行ってないが、オーストラリアとイースター島に行けば南米へ行くコースも完成することになる。
・シベリアからのコースはアラスカ、カナダを通ってアメリカ、メキシコ。
 テーブルマウンテンのあるベネゼイラ、そしてインカのペルーへ。
 ブラジルのイグアスの滝を見ながら、サンパウロを通って、リオへ。
 アルゼンチンのブエノスアイレスを通り、ペルーへ南下をして最南の地パタゴニアに到着。
 一応コースは出来上がることになる。そうすると、残された地は東欧、カザフ、モンゴル、シベリア、
 オーストラリア、イースター島ということになる。しかし今回のアラスカで一応完成した感がする。

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2002年07月19日(金)
461,海外旅行のもう一つの難関

今は殆ど気にならなくなったが、下痢である。 何とかなるものだが、初めの慣れてない
一回目の一ヶ月の欧州旅行ではあわやということが数回あった。やはり経験不足で、
食事制限とかポイントが解らないことからくる。大事なのはワンフライト(10~12時間)の機内食である。
飲み物はアルコールを含め飲み放題。時差も含め次々と食事はこちらの体調に関係なく出てくる。
それが美味しいときているから自制がきかなくなる。さらに気圧の関係で着陸後の2時間目あたりに、
お腹がおかしくなる。丁度煎餅などを入れておく真空パックが機上でパンパンになるのと同じ。
お腹もパンパンに張っていたのが、元に戻って腸を刺激する。それに疲れと時差の関係で、2~3日はおかしくなって当然。
それを前提にして、機内食を制限したりして体調を整える。一般的には、現地で出発の最低2~3時間前に起きてトイレにいき、
朝食後の出発前に更に行く。9割がたの人はそのようだ。そして到着後2~3日は、昼食後もいく。
これは時差の為身体が慣れてない対策だ。それとワンフライト目の食事、いや機内食は3ぶん1しか腹に入れない。
更に梅干を一日3個を食べる。これで大体大丈夫だ。迷ったら人の目を気にせずドンドントイレに行くことだ。
私の場合、お城の牢獄に入るとどういうわけかオカシクなる。
インドは9割以上の人が、かなりひどい下痢になる。日本の薬では全く効かない。
それと今回のスイスのように高度のところも危ない。高山病は下痢と頭痛と倦怠が同時に襲ってくる。

・・・・・・・
2001年07月19日(木)

先ほど無事帰る。変化の激しい旅行だったが、満足の行く旅行であった。新潟の会社へ直接よる。
修理に出したパソコンを自宅に持ち帰るためだ。あまり国内は変わったことはないようだ。
おりおり旅行内容な書いていくつもりだ。

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