堀井On-Line



3026,清水次郎長の顔がなくなった

2009年07月18日(土)

「生の科学、死の科学」 −養老孟司 対談集ー 3
  【生きる哲学との出会い】 ー橋口譲二(写真家)ー
 
 *清水次郎長や殿山泰司の顔がなくなった

養老 いまの日本に「清水次郎長の顔がなくなった」と、TVに写真が出たときに‘あっ’と思った。
   ちょうどブータンに行ってかえってきて、向こうにはよくある顔だったんですね。
   人生やることは大体やってきて、修羅場も踏み、この辺で落ちついたという『まあ、こんなものだ』
   という顔。 そういう顔が日本人からなくなった。 ブータンの顔は日本人によく似ている。
   モンゴロイドがゴチャゴチャの混ざった顔。・・・そこで思い出したのが、黒澤明「七人の侍」です。
   あの役者の顔が、幾らでもいるのです。
橋口 侍のような顔がなくなったのはのは、何でだと思います?
養老 「都会になったから」です。 都会人の顔になった、役人の顔になった。一種つくられた顔です。
橋口 何時ごろだと思います。
養老 気がついたのは15〜20年前からです。「面構え」「面魂」という言葉が死語になった。
橋口 僕が新宿の街角で少年達の顔を撮りはじめたのが1981年で、その頃からと今とでは変わりました。
   それはバブルの影響が大きい。バブルは人をとにかく豊かにして、しかし努力をして得たものでないので、
   落ちていったと思います。 文化の享受の仕方が一面的になったというか、何か平たくなった印象です。
   以前に新宿にいたのは、いわゆる不良で、彼らは、自分を取り繕っていないし、自分を隠していない。
   不器用で、去勢されてない。 ブータンの役人の顔が日本人に似ているのは、ある種、器用で要領のいい
   日本人の顔が浮かび上がってくる。
   ーー
 情報化の影響もあるのだろうが、世界が情報で溢れかえって、地区地区の土着の味が無くなりつつある。
 日本の地方の辻浦々まで、情報が行き渡って、その地区の特有の人間性とか祖先から受け継いできた
 風習が損なわれてきているからである。 意識の全国総都会化で、地方のブロックが希薄になってしまった。
 また時代のエネルギーが消沈している時は、脂ぎった者同士が塀の上で争う場面が少ないということか。
 
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2661, 読書の価値について
2008年07月18日(金)

 読書について、ある哲学書に、その意味=価値が丁寧に説明してあった。
学生時代に、読書の必要性を感じ取った。そして、卒業まじかになって、その絶対量の少なさに唖然とした。
そこで社会に出てから毎日、最低二時間は読書をすると、自分に誓ったことを憶えている。
高等教育で一般教養を教える目的は、「学校教育が終わった後でも学び続ける人間をつくること」というから、
一応、その成果は少しはあった???ようだ。 考え、問いかけ、答えを自分で得る方向に努力する素養である。
 以下は、哲学講義書「考える快楽ーグレイリング先生の哲学講義」の《読書》についての中の一節である。
 ーP251
《読書》*一冊の本を読むことから、いったい何度、人は新たな人生を歩みはじめたことだろう
・・・読者は多少経験をつめば、読書を通じて、歴史、喜劇、悲劇といった多様な人間の経験を、
あたかも飛翔するワシのように俯瞰することができる、偉大な国へと進むようになる。 そして、
読書に意識を集中できるようになれば、差しだされた豊潤な世界から多くを得ることができるのだ。
読書の鍵は、集中という言葉にある。 どんな教育であれ、後世に遺すことができる最善のものは、
熟考と疑問をもつ習慣だ。 読書は受け身の行為になりうるし、一時の気晴らしに過ぎない娯楽になる場合もある。  
たしかに多くの本は、読者がそれ以上のものを必要としないくらいにたっぷりと技巧をこらして書かれているし、
べつにそのことが悪いわけではない。 しかし、それ以上のものを求めようとすれば、読書は受け身ではなく、
能動的な行動にならねばならない。 よい本をよい本たらしめているものを定義する、とはむずかしい。
ひとくちによい本といっても、さまざまな種類があるからだが、その大半に共通するのは、読者に考えさせ、
感じさせ・元気づけ・当惑させ、その結果、本を読んだあとは世界がすこしちがって見えるという点だ。
端的にいえば、そうした本は積極的な読書活動へと人を誘う。 数冊の本から得られるのは、読書を通して生まれる
自分の思考以外にはほとんどない。 そして偉大な書物には多くの思考をうながす余地があるものだ」と、
ジョゼフ・ジュベールは言っている。読書をしたからといって、自動的に前より賢くなったり、よい人間になったり
するわけではない。読書に効果があるとすれば、それは、印刷されたページに反応し、そこから素材を切りだす
という仕事を、読者が自分でやりとげたからだ。 しかし、人生の最高の家庭教師である実体験をべつにすれば、
素材を切りだせる鉱床として、読書に比肩できるものはほとんどない。
本を読むことは、他人の考え方のなかにはいっていくことであり、自分自身の人生ではけっして理解できない
状況にたいして、見えざる観察者になることだ。 個人が経験するであろうことよりも、数のうえでも
種類のうえでもはるかに多様性に富んだ状況や人々と出会うことだ。
その結果、読書は自己理解をうながすだけでなく、他人にとっては大きな関心事だが自分にはない欲求や関心、
欲望にたいする洞察力を身につけ、やがて他人の関心を理解し、寛容になり、ときには共感できるようになる。
こうして他人とどう接するかを決定する際に必要となる知識の量を増やしていくことは市民共同体と
人類の兄弟愛の基盤にもなる。
 ーーー
そういえば、読書は旅に似ている。心は全く知らない世界に鳥のように飛び込んでいけるし、
違う時間の流れに置くことも可能である。

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2007年07月18日(水)
2297, また地震!どうなってる?まったく! ?2
                             ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…ヨウ!
今月中は、何処に行っても地震の話で持ちきりだろう。前回の災害時から推測すれば大たいこうだ。
「その時、私は〇〇(TVを見ていた)という状態で、ビックリして〇〇をした。
まさかね~、もう絶対無いと思っていたのに、何で、この地域だけ起こるんだろうか。
それでTVを見たところ柏崎沖が震源で、原発の火災に驚いてしまった。
で、〇〇さんのところに電話をしたが、大丈夫というので、ともかく
家の中に散らばったもの後片付けをして、落ち着いたところで外に出てみた・・・」
これを近所とか、友人に面白おかしくオウム返しに話す。それしかないが・・・
考えてみたら、私のHPにも、ほぼ同じことが書いてある。県外からのお見舞いの何本かの電話には、この要約を話している。
前回の中越地震と全く同じパターンである。TVを見れば能登半島の地震と同じ質問と答えが繰り返される。
見るほうからすれば、またか!ぐらいだろう。 と言って、やはり見舞いの電話は嬉しいものである。
日本は世界に冠たる地震の国、その中で特に新潟最北から神戸にかけてのライン上が、更に危ないということが、
最近わかったと報じていた。40数年前の新潟地震に、最近では神戸大地震、能登半島地震と、
直近では三年前の中越地震がライン上にある。今後とも地震が起きる可能性大というから、気が抜けない。
家内の実家が、死者が集中した本町にあり義弟と、近くに嫁いだ義妹がいる。
義妹は箪笥の下敷きになったとか、家内の実家の会社の倉庫の一部が大きな木造で、
内部がグチャグチャとか生々しい話が入ってくるが・・・
柏崎の本町の民家が多く倒壊したのは、海岸線のため海風で積雪は少ないため、民家そのものが頑丈に造られてないのと、
大火災と空襲にあってないため 築100年以上の古い家が多かったのが原因だった。
前回も、今回も、長岡市内の家が倒潰した話は殆ど聞かない。潰れたのは郊外の古い農家。前回の地震では、
新築をした隣にある旧家を物いれに使用していた所が潰れていたのを数軒見たが・・・。普通は積雪のため、
家の構造がしっかり造ってある。それと第二次大戦で、市内が殆ど火災で焼けたこともある。
  今回は、柏崎と、その周辺に被害が限定していたのが、特徴です。
                 グッ。・:*:・゚☆w(´・з・`)バァイ
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2005年07月18日(月)
1567, つれづれに

 ー二ヶ月に一度ぐらい、全く随想日記のネタが無くなる時がある。今がそうだ。面倒になるのと、馬鹿馬鹿しくなる。
随想日記は毎日「独り言」をいっているようなものだ。独り言に起承転結をつけていることになる。
思考には非常に有効なことが解っているし、止めたら張り合いが無くなるのも解っている。
このお陰で目の前の人たちへの、言葉の攻撃が少なくなった。しかし、そうそうネタが思いつかない。
ネタが無くなった後に、以前より多くのテーマが出てくるから不思議である。
全く違う分野に視点を向けざるを得なくなるからだろう。
  〜〜
 ー昨日の「サンデープロジェクト」を見ていて呆れてしまった。
ゼネコンから送り込まれた代議士の「犯罪を犯して何が悪い!」という開き直りの言葉には空いた口が塞がらない。
この程度の連中が日本の中枢にいて、そしてTVに出てきて堂々と、犯罪肯定をしているのだから何をかいわんやである。
談合を止めると多くのゼネコンが倒産するという論法である。談合という犯罪で生き延びている方がおかしい。
泥棒を認めないと餓死者が出るというのと同じ論法だ。奴らは犯罪者なのだ、それもマフィアなのだ。この国は、
犯罪組織が牛耳っている。ゼネコンと、官僚と、政治家が犯罪システムを組んでいる汚職システムが長年かけて
つくられているのだ。それが、情報化で抑えきれなくなった事態が現状である。
  〜〜
 ー昨日、ダイエーに行ってみた。
閉店前の店というのは、もの悲しい何かがある。ここが閉鎖されると、一挙に駅裏は寂れた雰囲気になる。
これに反して、信濃川をはさんだ川西地区には、来年二つの大型SCがオープン予定である。
  〜〜
 ー梅雨が明けたようだ。
 雪と梅雨は日本の農業にとって大きな恵みとなる。これから2ヶ月熱暑がつづく。
  〜〜
 ー今日明日中に、旅行先を決めないと。不景気ためか?気合が入らない。
 といって、そろそろガス抜きも必要だ。

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2004年07月18日(日)
1202, 実存哲学(1) 
   ー哲学について-17

実存の哲学とは[真理」ではなく[実存」を出発点とした哲学である。
最初に実存の哲学を語ったのはキエルケゴールである。実存とは[この私がここにいる]であり、
キエルケゴールは「真理」を語る伝統的な哲学者を批判し、ニーチェなどに大きな影響を与えた。
哲学上の近代から現代への大テーマの転換は、認識論から存在論への転換です。
「本質」から、「存在」への転換といってもよい。
実存という言葉は、中世スコラ哲学が本質存在と対比させた事実存在という概念に由来する。
「?である」に対応する概念が「本質存在」であり、「いる・ある」に対応するのが「事実存在」である。
すなわち実存とは、事実をして存在していることが重要だという考えを含んだ
概念であり、サルトルはそれを「実存は本質にせんこうする」と表現した。
キエルケゴールは以前にも書いたが、不安や孤独や絶望を真正面からとらえた。
それは、人間が精神を持ち、自由であることの証であると。 主体の哲学である。
人間が人間であることの特性や意味を哲学の対象としたことで、それまでの哲学とは違った実存哲学が
注目されるようになった。 それまでの古典哲学の代表者であるヘーゲルと基本的なキーワードで比較すると
  ヘーゲル    ー普遍性ー客観性ー抽象的
  キエルケゴール ー単独社ー主体性ー実存的 となる。
このキエルケゴールに対して、サルトルが彼の絶対者ー神を前提とすることを根底から否定して
「実存が本質に先立つ」と主張をはじめた。
 サルトルはー
ーわれわれを取り巻く根本状況は、本質を持った「何ものかである前に、すでに事実存在としてある、実存している。
この根本状況はわたしたちが自ら選択したものではない。それでは流されていてよいのかというと、そうではない。
受動的に決定されているだけの「何ものでない」わたしが、「何ものか」になるべく自己を投企して、状況に主体的に
関わっていくことこそ、真の実存のあり方である。と主張した。自分の「本質」を自ら生み出すような「決断」を
自分に課して生きる必要がある、といっているのだ。 サルトルは、人間は自分が生きるべき「理念」を想定し、
それを実現するために自由に決断する「自己投企」をする能力をもっているといっている。

・・・・・・
2003年07月18日(金)
835, 丁度よい

 お前はお前で 丁度よい
 顔も 身体も 名前も 姓も   お前にそれは 丁度よい  
 貧も 富みも 親も 子も 息子の嫁も その孫も それは お前に丁度よい  
 幸も 不幸も 喜びも  悲しみさえも 丁度よい  
 歩いたお前の人生は  悪くなければ 良くもない  お前にとって丁度よい  
 地獄へ行こうと  極楽へ行こうと 行ったところが丁度よい      
 うぬぼれる要(よう)もなく 卑下する要もない 上もなければ 下もない  死ぬ月日さえも丁度よい  
 仏さまと二人連れの人生 丁度よくない はずがない    
  南無阿弥陀仏          
                浄土真宗の篤信家ー藤場美津路  
 ある会社の専務に「ありがとうの言葉」について話していたら、
そういえば、似た言葉で印象的な言葉があるとのこと。「丁度よい」という言葉だそうだ。
ある会社の応接間に飾ってあった額縁の中の言葉で、
それから彼は何かにつけて「丁度いよい」をつけて自己納得していたとか。
・うちの母ちゃん丁度よい  ・今の仕事丁度よい
・今の悩み丁度よい     ・今日の夕飯丁度よい  ・リストラされて丁度よい?
等々、なるほどと感心をしてしまった。考えてみたら、その人に神様は丁度よい環境と条件を与えている。
まあ若いうちから、現状肯定ばかりしていたら成長がないが。
 早速、インターネットで検索をしたら、上記の内容が出てきた。この詩は、はじめ良寛の作と思われていたそうだ。
「丁度よい」と思うことができれば、悲しみや喜びの感情の起伏が少なくなる。諦観ということだろう。
『ありがとう』にしても、『丁度良い』にしても、何か納得してしまうのは、年齢のせいだろうか。

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2002年07月18日(木)
460,スリにあう

海外旅行のトラブルでは「盗難と下痢」が一番問題となる。今回の旅行で初めてスリにあった。
といっても家内の話である。 ユングフラウヨッホに登山列車でのぼった時にスラレタ。
頂上の売店で日本へ出す葉書の切手を買った。その時らしいが、帰りの列車に乗ったとき気づいた。
その時はまだ落としたと思っていた。雨と霧の為ハイキングは中止で、降りた駅で2時間ほど時間ができてしまった。
そこで国際電話でカードの中止の手続きをした後、売店に入った。目の鋭い30歳ぐらいの白人女が、
日本人のバッグを見ているのが目に付いた。その時は、店の人が万引きの監視でもしているのだろうと思った。
そして店の外に出ると、グループの女性が2人騒いでいた。店内でバッグの蓋が開けられていたという。
何かバッグのあたりがモゾモゾするので、手で触ると空いていたので慌てて出てきたという。
違うもう一人の女性も、全く同じ状況で飛び出してきたという。家内がその時やっと自分もすられた事にはじめて気づいた。
そういえばユウグフラウの売店で買ったあとトイレに行った時、バッグが空いているのに気づき不思議に思ったという。
その時はまだすられた事に気づかなかった。万引きに気をつけてと添乗員に言われていたが、まさか自分たちとは
思ってもいなかった。雑踏をしていて、気圧の関係で少し頭がボーッとしているその場は万引きの絶好の稼ぎ場である。
そして二度と顔を合わせない観光客ならさらに都合がよい。カードの実損はなかったが3000円ぐらいの金が被害だった。

・・・・・・・・
 2001年07月18日
 旅行中

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