2009年07月13日(月)
「大学卒業40周年記念の集い」に参加してきた。 20周年、30周年記念の集いにも参加をしたが、非常に良いメルクマールになっている。 (10周年は、20数年前から企画されたので、『集い』そのものが無かった) ところが数日前から腰痛が出て、上京など無理の事態だったが、「這ってでも行く」と決めた瞬間から、 痛みが少なくなったには驚いた。 「前日の金曜日に銀座でクラブの仲間が集まろうよ」という誘いを断り、 当日の土曜日だけを出席すれば何とかなるのではと考えた。 しかし出席するとしたら、むしろ前日に東京に行って、 クラブ仲間の会の出席は一度ホテルで休んだ後で、腰と相談すればよい。 また当日に上京するよりも、 前日に行って翌日のギリギリまでホテルで待機して集いに参加すれば何とかなるはず。 ということで、 何とか二日間を乗り切ることができた。 最後は覚悟である。 しかし本当に重症だったら無理だったが。 10年ぶりの会は、前回と同じ位の盛況の賑わいで、400人位が集まった。 2500人のうち1700人に連絡がついて400人が出席。 総長の挨拶で、「この厳しい大学経営の中で 非常に人気があり、経営も非常に良好、長期的に改革を地道に続けてきた成果」と語っていた。 この10年ぶりの再会で、各人とも人相も体系も老化がハッキリ見てとれた。 仕方がないのだろう。 あと10年後は、もっと激しくなるのだろう。 気持ちとしては、これが最後の参加の集いと割り切っていた。 そのため一人ひとりの語らいが熱くなった。 我われは良い時代に青春時代を過ごしていたのである。 この集いに参加する人たちは現状がある程度、余裕のあるのだろう。 何か気持ちがリッチに気持ちになれる。 そこでは、まずは受付でチェックをして胸札と名簿を貰い。参加費は8千円、そこで何人かの知人と再会。 10人位が集まると、若い女性が、構内ツアーで新しい施設などの案内。 そして、学部ごとの写真撮影。 その後、チャペルで集合ミサ。 総長の挨拶など・・・。 その後、学食で大立食パーティー。 その後、学校サイドが用意した二次会がある。 しかし前回同様の1~2年の同級会が東武百貨店の14Fに用意してあり、参加する。参加28名(途中で帰った人3名) その後はクラスで親しかった男と、居酒屋に移動し語らい、22時過ぎにホテルに戻った。 姿、形は変わっても気持ちだけは変わらないのが同期の会での良いところ。 総括として、今回も満点。 ・・・・・・・・ 2656, コミュニケーション力とは? 2008年07月13日(日)
中島義道の「コミュニケーション力」についての一考察が、面白い。 これによると、あくまで家内と私の関係だが、私がコミュニケーション強者で、家内はコミュニケーション弱者になる。 しかし、如何みても家内の方が強者で、私の方が弱者に思えてしかたがない。 外国に行って、観光地や飛行場で隣の人に平気で話しかけ英語の勉強をしたり、宮城県の医師会会長婦人と仲良くなり、 ブランド店で見えの張り合いをしたり、ディナーで周囲の人と瞬間芸のようにハイソサエティー婦人に変身をしてしまう。 私など何時も微笑をたたえて無言である。 たまに酔って、その場を目茶目茶にすることもある。 中島のいう「コミュニケーション力」とは、私がいう「対話力」のことのようだ。 対話をするには、自分の主張を相手に理解させ、相手の言っていることを理解し、できれば互いに一人では 思いもよらない一段上の内容まで内容を止揚することである。それは対「本」の著者ともである。 ーそれよりまずは、中島の、面白い部分を抜粋してみよう。 ーーー 今回のテーマは、斉藤孝の造語のコミュニケーション力についてである。 私は電通大の人間コミュニケーション学科で、「コミュニケーション論」とか「ディスコミュニケーション論特論」 という名の講義を受け持っているが、多分一般の大学のコミュニケーション論とは随分毛色の変わった授業をしている。 普通、コミュニケーション論の目的は、コミュニケーションカをつけることにより、他人に正確に自分の意思を伝え、 他人の言語的・非言語的メッセージを正確に受け取り、他人との円滑なコミュニケーションを目指すことであろう。 面接にうまく合格するとか、上司に気に入られるとか、部下がついてくるとか、職場の人間関係がうまくいくとか、 恋愛においても勝ち組に入るとか……、つまりこのせち辛い現代日本で「得する」ことを学ぶのである。 これを一概に否定するわけではないが、私が目指すコミュニケーションカとは、似ていて非なるものである。 (字数の関係でカット09年07月13日) ・・・・・・・・ 2007年07月13日(金) 2292, 男ってバカなんじゃないか? (★>з<)。o○[ォハヨ]○o。 ある本の中に、「男ってバカなんじゃないか?」というのがあった。 - - 【女は、小学校、中学校、高校、大学と、男の色いろな側面、人間の才能の様々な 魅力を見出していく成長過程は、動物から人間への進化の過程に違いない。 子供の頃は、強い子。そして、スポーツの強い子。成績の良い子。 そして高校から大學になると、成績だけでなく、アートのセンスのある人。 そして、それらを加味した個性的な人を求めるようになる。 男性の好みの変転という契機から、人間における精神的側面に目覚めていく。 しかし、男にとって女が体育ができるからとか、成績が飛びぬけているとか、 突出したアートの才能があるのは、決定的の要因にはならない。 それに対し、男は生まれてから死ぬまでどうであれ、まず第一は可愛くて奇麗の人だろう。 ほぼ、これだけは死ぬまで一貫している。バカというか、芸がないというか。】 ー そう言われてみれば、その通りである。逆にいえば女性に対して、それほど求めてない。 反対に女性は、その時々の男の価値観を見極めているということになる。 男は節目の度に価値観を変え、自ら変身していかないと社会に適応できない。 だから男は同性に対しては、相手を一瞬に見抜く。 しかし女性に対しては「美しさと教養と優しさ」を第一の要素にする。 それ以外、もともと求めてはいないのである。男なら明石屋さんまなどのお笑いタレントは持てるが?、 女となると、泉ピン子などお笑い系はもてはしない。 この歳になってやっと、可愛いや奇麗など第二・第三の要素になってきたが、数年前では、そのとおりである。 いや、姉が多かったので、知性と人柄を同列においていた!性格が良く、知性的で、その上に可愛い人で、相性の合う人。 ほぼどれか欠けているが、もし満たしていたとしても、そう思っただけ? ところで考えてみたら私は、全て欠けている!(拍手!・・・) 女じゃないから、いいか! 笑っている、あなたも、そうだろう! ホンジャ? ´・ω・]ノ ヂャァ ネッ ・・・・・・・・ 2006年07月13日(木) 1927, 閑話小題 Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
ー北朝鮮・ミサイル問題と、日本の軍事力ー (字数の関係でカット2008年7月13日) ー社会主義についてー 社会主義、共産主義と、最近は誰もいわなくなった。ソ連邦と共産主義国家群が崩壊、中国も社会主義経済を放棄した。 ソ連邦の崩壊には、のソ連共産党同士諸君は驚いただろう!ある日突然、「建前としていた計画経済は全く間違ってました。 全員が公務員という経済体制は、権力を握った高級官僚が権力を握って私服だけを肥やすだけ。 マトモな経済計画を作れないので放棄することになりました」と、認めてしまったから一大事! まあ、それまで悪事を重ねて私財を溜め込んでいただろうが。 現在も、それに近いことが日本の霞ヶ関の役人どもと、自民党の一部に残存しているようだが。 この前の選挙で殆んどの、これらゴミを廃棄したが!亀とかいうのが、ゴミダメコーナーでウロウロしているのが哀れ。 あれは何だったというのか? バブルの崩壊とともに終わってしまったシステムの残存ーゴミである。 最近は、共産対資本主義の対立軸がアッラーとキリストに転嫁されてしまった。 アッラーは、茶色ーアラブの神、キリストは、白ー白人系の女子供に比重をおいた神ユダヤは、白人の拝金の男を 中心とした神でしかないか! 仏教は、黄色か? 白、黒、茶色、黄色の混ざったインドは、 有難いことに3千年にアーリア人が階級をつけたヒンズー教の神じゃないか。 神は偉大なりか?! 般若心教でも唱えておこうか! (。・ω・)ノ☆゚+.バイ! ・・・・・・・・ 2005年07月13日(水) 1562, わたしの酒中日記ー14 ー岐阜の夜ー2 1976年 7月某日
夜行で岐阜に来て、今日は丸一日市内を駈けずりまわる。肉体的には、緊張しているせいか疲れはない。 日曜日の店の売れ具合をみて、一度帰宅のあと3時間ばかり休んで、夜行列車の「佐渡」に飛び乗った。 夜行列車にやっと慣れてきた。枕木の音を眠るためのリズムとして聴くように努めてから寝れるようになった。 2歳年下の大森さんと一緒である。彼も私にしごかれて8ヶ月、やっと戦力になってきた。 朝の7時に岐阜駅に着く。駅ビルの地下の喫茶店で、モーニングサービスを食べて時間を過ごす。 そして、9時過ぎから問屋街を駆け回る。 仕入れのコツも9ヶ月も経てば解ってくる。 とにかく多くの問屋を回って情報を仕入れることだ。 それと大手の問屋とメーカーも大きな情報源である。 小野、岡庭嬢が今朝長岡を出発、東京から名古屋の問屋をまわって夕方にホテルのロビーでいきあった。 チェックインを一度して、何時もの「千成寿司」に行く。 彼女達も意欲的に仕事をする。 千成寿司は高校の時に、父の仕入れ見学の鞄持ちで来て、食事をした店である。 12~3坪の店に職人だけで5人もいて、いつも行列待ちをしている超繁盛店だ。 とにかくネタが大きくて新鮮で安い。普通の店の三倍のネタの大きさである。 こういう出張は、夜の食事とチョイ一杯をしながら仕入れの戦果の話が楽しみである。 店の仕事の終了後、夜行列車に揺られたあと、朝からの駆け足の仕入先まわりは、激務といえば激務である。 しかし、仕入れは買い手の立場であるから、面白いといえば面白い。 仕入れた商品が売れるか売れないかは博打的要素がある。当たるか外れるかは半々といってよい。それが面白いのだ。 今夏は、ジョーゼットの素材の花柄の婦人服が爆発的に売れている。 しかし、どこを探しても売り切れて商品がない。ところが、諦めかけた直後にやっと一軒見つけだした。 その小さな店の商品一軒分全て買い上げた。これで、今回の仕入れの大きな収穫が完了。 こういう日の酒は特に美味い。明日は、岐阜を終日仕入れをした後に、大阪と名古屋の問屋の予定である。
・・・・・・・・ 2004年07月13日(火) 1197, ユングの臨死体験
臨死体験といえば、立花隆が「文芸春秋」で特集で連載をしたことがあった。 死にかけたときに生じる脳内の異常状態から見る夢か幻想と思うのだが。 ユングの書の中の「臨死体験」を読んでいるうちに、何か今までの世界観が変わってしまった。 ユングが書いた時は、まだ宇宙衛星が地球外に出てない。しかし、ユングが臨死体験で見てしまった 宇宙からの景色と、宇宙船から飛行士が見た景色が全く一緒だったという。何とも不思議な気持になってしまった。 ーその部分を抜粋してみる 1944年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。 意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど 危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。 幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。 後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、 彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。 私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。 とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、 そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかか なたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。 私の視野のなかに地球 全体は入らなったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、 銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。 (中略) どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。 それは、驚いたことに、ほぼ1500キロメートルの高さである。 この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景で、もっとも美しいものであった。
ーこのときユングが見た地球の姿の記述は、立花隆も指摘するようにアポロが撮った地球の写真の姿と合っている。 それをユングはアポロ宇宙船よりも以前、それどころかガガーリン以前に書いているー しばらくその美しい地球を眺めたあと、自分の家ほどもある大きな隕石のような黒い石塊が宇宙空間を ただよっているのを発見する。その石の中央には入口があり、その中はヒンドゥー教の礼拝堂になっていた。 その中に入っていった。 私が岩の入り口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。 つまり私はすべてが脱落していくのを感じた。私が目標としたもののすべて希望したもの、思考したもののすべて、 また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。 この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものはいくらかはあった。 それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったすべてで、それらのすべてが、 まるでいま私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだいえるかもしれない。 いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事から成り立っているということを強く感じた。これこそが私なのだ。 『私は存在したものの、成就したものの束である。』 この経験は私にきわめて貧しい思いをさせたが、 同時に非常に満たされた感情をも抱かせた。もうこれ以上に欲求するものはなにもなかった。 私は客観的に存在し、生活したものであった、という形で存在した。 最初は、なにもかも剥ぎとられ、 奪われてしまったという消滅感が強かったが、しかし突然それはどうでもよいと思えた。 すべては過ぎ去り、過去のものとなった。かつて在った事柄とはなんの関わりも なく、既成事実が残っていた。なにが立ち去り、取り去られても惜しくはなかった。 逆に、私は私であるすべてを所有し、私はそれら以外のなにものでもなかった。 「私が目標としたもののすべて、希望したもの、思考したもののすべて、また地上 に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった」 これに対し、彼に残されたものは何だったか。孤独な宇宙空間にただよいながら、 かつて自分が地上で経験し、行為したことのすべてが自分とともにあるという実感だけは残った。 そのとき残されたぎりぎりの「私」とは、自分がこれまで地上で経験し、行為したもろもろの事実のみであった。 それは要するに、「私」とは私のカルマ(業)にほかならないということなのか。 私に所属する多くが離脱しても、私の行為のすべては、おそらくは死後もカルマとして存続する。 ーー 以上であるが、鈴木秀子の臨死体験に似ている部分がある。現実のとらわれから解放される部分である。
ーあるHPのユングの臨死体験の解説をコピーしておきます。 非常に解りやすい内容であるー (字数の関係でカット2008年7月13日) ・・・・・・・・・・ 2003年07月13日(日) 830, アラスカ旅行記ー5 ーアラスカつれづれにー
アラスカで感じたのは、豊かさである。そして、その対比としての日本の豊かさの底の浅さだ。 ・高校の前を通ったら、大きな駐車場があった。16歳で免許が取れるという。 多くの高校生が車で通学をしているという。16歳以下でも親と一緒であれば運転できる免許もあるという。 ・また地域性もあるが、50人に一人当たり割合で飛行機を持っているという。 飛行機の車輪部分を季節ごとに変えることができるという。冬はスキーを履き、夏は車輪、湖や河では 浮き輪を付け替えるという。 安いので500?600万で買えるという。 夏は釣りや泳ぎに、冬はスキーとかに、色いろの場所に下りて遊ぶという。 それでも、夏の期間が短く、秋はほとんどなく冬が長いために、鬱病になってしまう人が多いとか。 ・アンカレッジの街を歩いていても、豊かさが直に伝わってくる。 ワンフロアーの大きい住宅、そしてこじんまりとした芝生と花のある庭。 ・しかし乞食があちこちで見ることができた。 アルコールでやられるらしく、 彼等を収容するシェルターがあるという。特に地元インディアンに、生活に適応できない人が多いとか。 『地球の歩き方』に面白そうな日本料理店があったので行ってみた。 「やまや」という店で正しく国内の居酒屋そのもの。小さなカウンターが5~6席に、テーブルが16席。 50歳位のマスターと20歳位の男のアルバイトが二人で働いていた。 「何が美味しいか?」と聞いたら、「ユーコン川で獲れたキングサーン の刺身がお勧め」、 とのことで注文したが、もちろん絶品。 鰊の塩焼きと子持ち昆布もなかなかであった。 少しほろ酔いの頃、40歳ぐらいの白人が一人入ってきた。 マスターが「よー!食い逃げのジョー」と 日本語で声をかけると、赤い顔をして「食い逃げのジョーじゃなくて、朝逃げにジョーだよ」と嬉しそうに答えていた。 常連らしいので話しかけると、何と今回の現地日本人ガイドの上司。 三重県の津に2年いたこともあるとかで、飛行機の整備士からガイドにトラバーユしたといっていた。 その時60歳がらみの人品のよい日本人が入ってきた。 そして我々の間に座った。 知り合いらしく急にジョンは大人しくなった。そして英語で二人話し始めた。 後で家内がいうには 今回のジャンボの機長ではないかという観測 私もその時に一瞬そう思ったが、商社関係者ということもありうると それ以上考えなかった。でもTPOSから考えても、ジョンの態度からみて 機長の可能性が強い? 一度店を出たがジョンの写真記念をと、とって返して思わず「ただ乗りのジョン、写真を一枚撮らせて下さい」といった。 本人曰く「ただ乗りのジョンでなく、朝逃げのジョンです!」 ・・・・・・・・・ 2002年07月13日 旅行中 ・・・・・・・ 2001年07月13日 旅行中
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