堀井On-Line



3007,誰が電気自動車を殺したか?

2009年06月29日(月)


 昨日の午前、何気なくWOWOWに回すと、「誰が電気自動車を殺したか?」という
ドキュメント映画を放映していたが、時が時だけに、その内容に引き込まれてしまった。
GMの倒産を暗示している内容で、映画の題名が良い。
19年前に画期的な電気自動車をGMが発表し、レンタルで貸し出した。 
しかし電力モーターの普及に不利になる多くの業界の圧力の中で、何時の間にか消えていった。 
その犯人を追及する内容。 犯人を自動車メーカーGM、石油メジャー、アメリカ政府、
消費者、マスコミ、州環境保存局、などと設定して、具体的に探っていく。 
 ーその映画内容の紹介のHPからー
  「誰が電気自動車を殺したか?」(クリス・ペイン監督)。2006年
 舞台はロスを中心としたカリフォルニア州。米自動車大手のGMが1990年に発表した
画期的な電気自動車「EV1」がさまざまな理由で、この世から葬り去られるまでを克明に描いている。
当初、高性能で環境にも優しいEV1は羨望の的だった。 
「とにかくスピードが速いから、反則切符切られるよ!」(俳優トム・ハンクス)も大絶賛。
ところが石油業界から「石炭火力発電だって大気汚染の原因」との声が上がってから風向きが変わってくる。
低公害車の販売を義務づける法律も骨抜きに。トラブルも重なり、GMはリース中のEV1を回収し始める。
もともと販売はなくリースだけで市場に出回ったEV1は2005年3月、同州から完全に姿を消した。
そのころGMが大々的に販売していた車の一つが大排気量の装甲車のハマーというのが皮肉だ。
ちなみに、そのハマーで環境問題を訴える催しに颯爽と登場するのがシュワルツェネッガー同州知事。
まるで笑い。 そのEV1自体にもトラブルがあったり、技術的に未熟な面があったが、
作品は地球温暖化の恐ろしさを訴えた「不都合な真実」(2006年)に勝るとも劣らぬ衝撃的な内容。
 ―
 現在のアメリカの恐慌の原因を、その事例として、急遽つくられた錯覚するような、
アメリカの社会の歪みを炙りだした内容で、三年前に作られていたというのが救い。
現在、車一台あたりの部品が3万だが、電気自動車になると一万で済むという。
ということは、部品メーカーが半分から3分の一に減り、組み立ても同じことになる。
既存のメーカーは規模が大きいところほど、今後の転換が難しくなるのである。

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2643, 戦略+夢・ノート
2008年06月29日(日)

大学ノートサイズのノートを、文庫本版と、バイブル版のサイズに変えた。
文庫版に統一するのが本当なのだろうが、あと一月で結論を出すつもりだ。
サイズを小さくすることで、携帯に便利ということで、これだけ変えるとは思わなかった。
文庫版の薄いものなら常に持ち運びが出来る。 常に携帯できるのが、私にとってのポイントだった。
早速、日常の思いを書く「随想日記」「哲学ノート」と、5年?10年先を考える「戦略+夢ノート」を作った。
特に「戦略+夢ノート」が面白い。 5年を基点とした中期長期ノートとしたら、どんどん書きこめるのである。
そこに「7つの習慣」の「ベストの敵はベターである」を、副題として書き込んでみた。
5年後(?10年後)を考えるということは、5年前(?10年前)を振り返ることになる。
ノートを開き5年先を想定することは、「潮流とは何か」を考えることになる。
長期の装置投資を事業するものにとって、この程度の専用ノートを書き続けるべきであった。
一度気がつくと、前から、こういうノートを専用に作っておかなかったことが悔やまれる。
ただし、これが何時まで続くか自分でも楽しみである。(数ヶ月で自然消滅の可能性もある)
「モーニングページ」(毎日思いのまま書き込むノート)は、会社にきてからの「ランチページ」
として続いている。朝はこの随想日記を完成し、アップすることと、ウォーキングを優先している。
昨日、書き込んだことといえば、
「金の価格は5年前は現在の半額である。金より大きく跳ねる金鉱山関係の株は3分の一であった。
これは金が上がったのではなく、ドルと円の価値が下がったのである。アメリカと日本の双子の赤字と、
サブプライムローンの破綻を考えれば当然の成り行き。そして、その崩壊が表面化した深刻な世界経済を考えると、
これからの5年間のドルと円の崩壊は拡大する。ということは金の価格は更に上がる」 と、書き込んだ。 
更に、スタグフレーションが深刻な国内外の経済と社会をもたらしているだろうから・・・・
少しテーマから離れたが、夢とか、明るい素材を加えていかないと。この辺がミソだろうが。

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2007年06月29日(金)
2278, あと半年の命!と告げられた人の言葉  ?2
            才ノヽ∋?_φ(゚▽゚*)♪
   
 ガン告知と、末期がんの死期の告知とは違う。 その辺が曖昧になっているから、
医療現場では残酷な問題が生じる。「あと半年!」と言われて、果たして抗しきるというのだろうか。
この女性は、正直にその辺の気持ちを吐露している。その瞬間から、砂漠の真っ只中の炎天の中に
置かれたようになるという。それまで生きてきた分の人生を、その期間の僅かの間に生きるのである。
だから死ぬ時は、その人が生きてきたように死んでいくのである。
 ー以下は昨日の、続きー
  ーーー
我がことながら、いまもってその行為(祈り)の意味、内容を言葉で説くことはできません。
最初は確かにわかりやすかった。「助けて」「治して」といった懇願でした。
が、いつの間にか意味不明、質、量もつかめぬままあいまいな時間に変わってしまいます。
いわば、からっぽ。・・・・中略  私の住む京都は数え切れぬほどの宗派が密集しています。
そこで多くの宗教的なる行事、儀式に参集し、指導されるまま念じたり、動いたりしてきた。
そこで何となしにつかめたのが、炎、音、匂い、金銀極彩色、像、言葉、
残酷な修行のいずれも、からっぽになる為の巧みな装置であるということでした。
それらを駆使して何処かに導くのが、僧侶、宗派の教祖であるようで、彼らは演出家といっていい。
人の祈りにさらされ、磨かれた回数、機会が多い宗派ほど、その演出、導きの巧みさが際立っているのは
言うまでもありません。それを理解してなお、告知されて後の恐怖のリアルをとりあえず騙す、
目くらまし剤は今考えても、どうさぐってもあの、からっぽへと導く行為の蓄積以外にはなかったと思います。
それにしてもテレビなどで紹介されると必ず数十通の手紙が局に届き、数人がわが家を訪れます。
ほとんどが健康食品と宗派への勧誘です。そこで語られ、展開される論旨、勧誘の説得法、術はどれもきわめて似ています。
訪間者の全員が確信を瞳に浮かべ、強引に部屋に進入し、笑顔を湛えています。
これで貴女は救われますと断じます。彼らの確信する「やさしさと善良さ」を如何拒めばよいのか? 
形も効果もない空っぽだけが私を支えうる、と善男善女に伝える術を今だ見つけられず、戸惑うばかりです。 
                      ーおわり
・・・・
ー死は誰にとっても永遠なる闇の空洞。その空洞はその大きさ、質感、彩など具体的に知るうる
 捉えきれないゆえに言いしれぬ恐怖を誘います。想像力のなかに位置するブラックホール。
 何ひとつ手がかりのない闇といささかなる音、気配のない空洞を方向も理解できず誰も傍らにいないまま歩む旅路。
ーこの言葉の中の何と恐ろしい、虚空を独り彷徨ってきた彼女の咆哮が言葉に裂けている。
 その救いの装置が、結局、神社仏閣の長年つくりあげてきた神と仏に祈る行為の積み重ねの中から、
 その時その時の目くらましをするしかない!という。それほど人間は弱い存在でしかないのを自ら告白している。
 私は末期ガンは告げるべきでないと思っていた。この告白を読んでますます、そう確信を持つようになった。
 家内とは互いに末期の場合は、絶対に隠すようにと、話がついている。
 父の末期を一年間、自宅で一緒に過ごした経験からして、その灼熱地獄のような死の恐怖との闘いを目の当たりにした。
 その時、エピクロスの「死は存在しない。死んだ瞬間、自分は無いんだから。在るのは他人の死だけ。
 しかしその当人にとっては既に自分で無いから死はない、とある本に書いてあったよ」と、何気なく言った時、
 ハッとした父の顔を覚えている。「死の意味が、この歳になって初めて解った」と、正直に答えてくれた。
 父の口癖は「死んでしまえば、それまでよ!」だった。傍観者の言葉でしかないことを、その時に理解したのだろか?           
                                 さいなら!(゚▽゚*)♪ノ
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2006年06月29日(木)
1913, くちなしの花
    \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/

  一昨日の日経新聞の「私の履歴書」ー遠藤実ー の中にあった詩である。
  深い純粋な思いが直接伝わってきて、思わず息を呑んでしまった。
   俺の言葉に泣いた奴が一人
   俺を恨んでいる奴が一人
   それでも本當に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
   俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
   みんな併せてたった一人
  私が20代後半に流行った、渡哲也の「くちなしの花」(遠藤実・作曲)の元になった詩。
  カラオケでよく唄う歌である。慶応大学出身の十三期飛行予備学生・宅嶋徳光少尉の遺稿集
 「くちなしの花」の一節が背後にあったと初めて知った。
   「たった一人」とは出征に当たり「手向けの花にくちなしを」と約束した恋人。
    戦時中のこと、好きだと直接言えないので(くちなし)と言わざるをえなかった。
    それ故に、若い兵士の深い気持ちがもの悲しい。
ーー
インターネットで調べたら、
HP-「戦争と日記」の第十章 戦争で死んだ若者たちの日記の中のー「きけわだつみのこえ」の世代 ー
に取り上げてあった。 彼の死は、戦死ではく、事故死だったという。
    ??
   宅嶋徳光(1921?1945)の出征以降の日記は、恋人の津村八重子と後に見せ合うことを約束した交換日記であり、
(以下、字数の関係でカット2008年6月29日)  
         (。・ω・)ノ☆゚+.バイ! 
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2005年06月29日(水)
1548, 私の酒中日記?11  金沢ー7
                  1972年7月20日
明日で、金沢を去る。 一番上の姉・正子さんから電話があり、京都に行く途中に金沢に寄るという。
そのため今夜、金沢で酒を飲むことになった。片町から少し歩いた犀川大橋の先にある、ごり料理の有名店に行く。

「ごり」とは金沢を流れる浅野川などに生息するハゼのような川魚だが、昔から金沢料理に使われる名物である。
川のほとりに建ち、「ごり」を中心にした加賀料理の店である。二階の一室に通されるが、なかなか趣がある。
ワラビのヌタや、ごりの佃煮と揚げ物が出た。夕景の中での料亭も風情があってよいものだ。
ごりは、小さな川魚でゴツゴツした形である。金沢で初めて食したが、良い思いでになった。
その後、金沢の郊外にある「ホワイト・ハウス」という有名レストランに案内をする。
金沢市内を一望できる有名店だ。同僚と一度いったことことを思い出して案内した。その後、都ホテルに姉を送る。
金沢の夜も今日で最終になった。一年半近くいたが、五年もいたような気分であった。
会社が揺れていたこともあるが、中味の凝縮された日々である。気分的には屈辱の日々であった。
金沢は見方によれば、露骨な差別社会で、そと者の社員は人間扱いはされない。
金沢で特に感じたことは、加賀百万石の文化の深さである。
自分の故郷も元長岡藩だが、その歴史の深さがまるで違う。金沢は、派手なのだ。
背後には能登半島、福井、富山、高山を控えた観光地である。
対極にある長岡は、それに対して地味の世界である。比べること自体が問題であるが。
幕末に長岡藩家老の河井継之助が「贅沢禁止令」を出した文化が、今でも脈々と続いている世界である。
それと江戸末期に官軍に敗れたことが、どこか卑屈になっている。金沢に住んで、このことがよくわかった。
長岡は、金持ちが「めかけー愛人」を持つことは悪口の対象になる。金沢では、それは羨望であり、ほめ言葉である。
男女の?も非常に大らかで、自由な雰囲気が満ちていた。日本の中のスウェーデンと内々で自認している世界。
また、男は今でも自分のことを「わし」という。相手を呼ぶ時は「お前」か、「貴様」という。
店では、男は絶対に掃除はさせないのだ。箒を持ったら誰か女性がきて、取り上げられてしまう。
とにかく、加賀百万石の異様な?世界であった。外者にとって、長くは住みたいとも思わない世界である。
でも三年住むと、それも無くなるという。
                        さらば!金沢。
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2004年06月29日(火)
1183, ショーペンハウエルー哲学について-12

 ショーペンハウエルは、カントの思想を修正して完成をさせたドイツの哲学者で、
主著は「意志と表象としての世界」である。 (一七八八?一八六〇)に生き、
その思想はカント・ショウペンハウエルというものをつくりあげた。
彼はあくまでカントを自分の理論の前提条件とした。その意味で彼の哲学の出発点は「カント哲学批判」だった。
「真の実在は盲目的な生存意志であるとし、個々の人間の中に意志として現れ、
盲目的意志の衝突が相継ぐ結果、苦痛に満ちた人生を送らざるを得ないという厭世哲学」を主張した。
 
 この苦痛から解脱する道は、
・芸術活動に専心して個体の意志を克服するか、
・個体はすべて同一の形而上学的本質をもつ意志であると自覚し、
 他人の苦痛への同情を根拠として倫理的に解脱するか、のどちらかであると論じた。
絶え間ない望みと恐怖を伴う欲望の渦に身をゆだねるかぎり、永遠の幸福と平和は手に入らない、と説いた。
 
 カントは、物自体の世界にやどる意志の働きによって、人間の体は「自由」な運動をすることができると主張した。
それに対して、ショーペンハウエルは、それは不可能でとして、意志の働きとそれに関する体の働きは、
本当は同じ一つの出来事が二つの側面からとれえられているいるだけと考えた。
一つは内側から経験されているもの、もう一つは外から経験されているものだ。
このことを、彼は「動機とは内側から経験される原因である」という有名な言葉でいいあらわしている。
人の倫理観の源になっているのは「同情心」であってカントが信じている理性ではないと論じた。
彼によればこの同情心こそ愛と倫理が生まれてくる基盤と考えた。
彼まで、西洋では東洋哲学は全く知られてなかった。
その東洋哲学はこの時期に西洋哲学と同じ結論に達していたのだ。これを知った彼は、この発見を書にあらわした。 
 ショーペンハウエルは、人間が閉じ込められているこの世界の地下牢からのつかの間の
解放される方法を一つだけ示している。それが芸術であった。
人は絵、劇、彫刻、とくに音楽を聴いているとき、一生逃れることができない欲望から自分を解き放つことができるといった。
その瞬間、経験世界の外にある、異なる次元の存在に触れることができると。
 学生時代にショーウペンハウエルを知った時に何ともいえない神秘的なイメージを持った記憶が生々しい。
ワーグナーやフロイトやトルストイの人生の大きな影響を与えた哲学者として読んでおきたい人という想いがあった。
多くの偉大な芸術家や作家の若き日の人生の転機のきっかけをつくったのだ。その36年後の今になって再会した
神秘的な哲学者、というのが正直な気持ちである。そのショーペンハウエルを深く知るためには、カントを
いま一度読みなおす必要がある。彼の後に登場した哲学者のニーチェも、
彼の本を読んで哲学者になる決意をしたというから、よほどの文章力があったのだろう。
 彼が幅広い分野にわたって影響があった理由として「人のおかれた状況を見通す、
 たぐいまれなる洞察力と文章家としての才能を合わせ持っていた」 からだ。
 
・・・・・・・
2003年06月29日(日)
816、『80対20の法則』ー読書日記
 リチャード・コッチ著  仁平和夫訳 

ー私の解説ー 
 数年前になるが、この本を読んだ時はショックであった。
約100年前のイタリアの経済学者パレートは、19世紀のイギリスにおける所得と資産の分布を
調査した結果、所得と資産が一部の人達に集中していることを発見し、2つの奇妙な事実に気が付いた。
「わずか20%の人達に資産総額の80%が集中していた」という数理的事実を発見した。
以前からABC 分析や戦略論などがあったが、この本は非常にわかり易い内容であった。
この法則を知っているかどうかで、数倍も人生を濃く生きる事が可能になる。
7つの法則ー最優先事項ーに、要約すると似ているところがある。
人は無意識的に「如何でもよい方の80」を選択しているように思えて仕方がない。 
どの要因の20%が結果の80%を決定するのかを、つねに自分に問いかけてみる習慣をつけるかだが。 
ー 以下は幾つかのホームページから抜粋したものである。 
■この本の内容
・80対20の法則とは、たとえば、あなたが成し遂げる仕事の80%は、費やした時間の20%から生まれる。
・あるいは、本の価値の80%は、ページ数にして20%以下の中 にみつけることができることなどをいう。
但し、80対20というのは目安にすぎず、 不均衡がもっと大きくなる場合もあれば、小さくなる場合もある。
★目に見えない20%、水面下に隠れている20%をみつけ、求めよ。
★80対20の思考の目的は、行動はひとまず忘れ、しずかに考え、心の闇の中に光を 見いだし、
それから行動を起こすことにある。そして、行動を起こすときは、目標をふ るいにかけ、
いちばん大切なものに的を絞り、必要最小限のエネルギーと資源で最大限 の結果を出すために全力をあげる。
★戦略的ということは、重要なこと、他人にとって以上に自分にとって重要なことに力 を集中し、
計画を立て、断固とした決意で粘り強く、その計画を実行していくことである。
★80対20思考は、経験と思索と想像力に訴えるものなので、線形ロジックの罠から
抜け出すことができる。自分は今不幸だと感じているとしたら、その原因をあれこれ考 えては
いけない。幸せだった日々を思い出し、それと同じような状況をつくり出そうと考えたほうがいい。
   ーーー
   (字数の関係でカット09年06月29日)
・・・・・・・・・
2002年06月29日(土)
452,「まあだだよ」

昨夜TVで見た黒澤明作品である、これで見るのが3回目だ。見れば見るほどその味わいが深くなる。
内田百聞とその門下生だった男達の心あたたまる物語である。 その内容は省くが、見るたびに新しい
味わいを感じる百聞の記念式典で花の贈り物を持ってきた生徒の孫に、思わず説教をする。
もちろん小学生低学年でその意味が解るはずがない。その内容は普段私が本当に実感している事である。
「自分の好きな事を見つけなさい。そして周囲に惑わされる事なくやりなさい!
自分の持っている範囲で最大限やりなさい!」私の見る範囲では90?以上の人がそれができなかった人だ。
黒澤作品で目立たない作品ほど味がある。「夢」という作品もあまり評価は高くなかったが、
私の気に入っている作品だ。黒澤明の隠れテーマは「人間」である事に昨夜見ていて初めて気づいた。
昨夜の百聞の映画の最後の夢がよい、「子供の時の田舎の田圃でのカクレンボで、
ーもういいかいー まあだだよーという思い出の夢」の内容である。
  ー黒澤はやはり世界的映画監督である。

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