2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。 その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」という。 知人の何人かが経験者、聞いてみると「白内障の手術時にレンズを入れたが、出来たらやらない方がよい」 と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、去年の半ばに、春先になったら決断しようかと決めていた。 そして春は過ぎようとしているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、 何と自宅から数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。 三年前ぐらいに出来た(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな医院があったが、 まさか、そこが気にしていたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。 本気にならないと見えてこないものである。 そして、木曜日に予約を入れて、昨日の日曜日の8時半にいってきた。 入ってビックリ、ホテルのようなロビーに次から次へと客が来て、流れ作業のように検査、 診察、瞳孔検査、診察、と流れていく。再診は、そのまま診察だが、初診が多いのに驚く。 結局は検査もあったことで、一時間半もかかってしまった。
そして私の結果といえば「できたらレーシック手術などしない方が良い。ブッチャケタ話し、貴方の場合は、 まだ、その時ではない。少し白内障になっているが、手術するほどではない。白内障の手術に、近い将来になる。 矯正手術は、その時のほうがよい。眼鏡が嫌でたまらないなら、話しは別。幾つかのコースがあるが、 それは貴方の判断です」という結論。 姉が三人、知人が三人が手術をし、その一人は秋葉原の三井記念病院の 眼科の一人者、赤星先生から手術を受けた等を話したのも、〈ブッチャケタ話し〉を引き出したのだろう。 私も眼は、盲目の危険も伴なうので真剣になる。 それより、自分の初期の白内障の写真を見せられたのは 少しショックであったが、仕方がないのだろう。 白内障の後はどうなるのか聞いたら、緑内障になる!という。 亡くなった義理の母が、そうだった。 あと数年後に白内障になり、メガネから解放される反面、次は緑内障が待っている。 それが老いるということか。 生きていればの話だが。年齢ごとに、それぞれの風景がある。
・・・・・・・ 2573, 「好き」という言葉の重み 2008年04月20日(日)
「好きと嫌いじゃどれほど違う、命ただやるほど違う」という川柳があるが、 これほど人間の本質をあらわしている言葉はない。 私も好みの激しい人間だが、この感情は、何に由来するのだろうか。 「あの男は好かん」とか、「あの女性は私のタイプだ」とか、思うにつけて、その意味を考えたことがない? 育ってきた環境が似ているとか、教養レベルが同程度とか、趣味が一緒だとか。 反対に「俺は堀井が嫌いだ」と何人から言われたことか。でも、相手が相手だけに心の底では?? 私の経験上からみて「嫌い」いう言葉は禁句である。 いわれた方が、それで一生恨まれるからである。 犬でも猫でも、相性があるから、これだけは如何にもならないことと割り切るしかないのか。 私の好き、嫌いの基準は娑婆経験の中からハッキリ自覚している。 女性は長女、血液型A型、教養と品性があり、少し抜けていて、顔はノッペリ。 他人には概ね無関心で、優しい雰囲気があり、明るい人である。 大体、好きなタイプは概ね、これを満たしていた人。興味のないタイプは、冷たいタイプで、 神経質な近寄りがたい正統派美人と、個性的な自意識の強いタイプ。 殆どいないが!コンプレックスの強い人。 犬でいうと、宅上犬タイプが好きで、シェパード、コリーのような人は苦手。 同性は、品性と教養のない人と、社会的な肩書きだけで人を判断する人とか、チャラチャラした人は苦手。 商工会議所、ロータリー、ライオンズとかの人間関係に没頭している人種。それと女性関係に派手な人。 軽薄な二代目。 もう一度品性のない人!。 そんなことをいっていたら、地方では誰も相手に出来ないのでは? とはいうが、それはそれでよい。そういう御前さん、どうなの?といわれるが、他人に厳しく自分には甘い? ところで好き嫌いということは、如何いうことか? 相性ということ? それとも持って産まれた先天的な本質。これだけは、どうにもならないこと? 好きなことを選んで、それを一生を通して追求することが、幸せと不幸の分かれ目になる。 好き嫌いが、先天的なものとすれば、この道理は正しいことになる。 神=自然が与えた本質的素養だからである。 シカゴ大学の心理学者ミハイリ・チクセントミハイによると、人間には“フローの状態" と呼んでいる精神状態がある。遊びの過程で我を忘れて熱中する状態をいいう。 これは遊びだけではなく、仕事や勉強にも当てはまる。フローの時は精神が完全に集中していて、 心の底から楽しい感覚が湧きあがってくる。だから好きなことをするのが一番いいことになる。 「ありがとう」と同じぐらい重要な言葉は「好き」と、この文章を書いていて気づいた。 「何々+好き」を、もっともっと使うべきではないだろうか。 特に人に対して使ってよいのでは。 この言葉は、その意味で魔力のある言葉になる。 誰も好きと思われて、言われて悪い気はしないもの。 次の機会にハイリ・チクセントミハイ著「フロー体験 喜びの現象学」について書いてみる。
・・・・・・・・・ 2007年04月20日(金) 2208, 下流志向 おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ 一週間前の毎日新聞・文化欄「本の現場」のコーナーに、 「下流思考」著者の内田樹氏へのインタビューをまとめた、 { 若者はなぜ学ばず、働かないのか<「下流志向」内田樹著 講談社> }という記事があった。 本屋では平積みであったが、数回立ち読みをしていた。面白そうだが、買うほどでもない本と判断していた。 この記事と書評で八割は把握できたようだ。言わんとしているエキスを著者から引き出している。
ー毎日新聞のHPに記事があったので、コピーして置きますー ーーー ◇固まった頭をぐちゃぐちゃに フランス現代思想の研究者にして武道家が「学力低下」「ニート」という若者をめぐる二大問題を論じた。 約2カ月で10万部と、この手の本としてはかなりの売れ行きだ。 丘の上に南欧の修道院を模した校舎が建ち並ぶ、神戸女学院大(兵庫県西宮市) で話を聞いた。「ここより美しいキャンパスは見たことがありません」という。 「ずっと考えていたけれど、背後にある巨大な地殻変動の正体がわからなかった。 『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著)を読んで、腑(ふ)に落ちたんです。 『それってグローバリゼーションだったのね』と」
■過剰な「消費主体」 「オレ様」を元に話を広げていった。商品経済は世界の隅々にまで行き渡った。 日本人は過剰に適応し、子どものころから「消費主体」として振る舞うようになったという。 消費主体とは、商品を買うように「今の自分に損か得か」によって、物事との関係を判断するあり方。 学校や仕事にもそれを持ち込み、すぐ役立たないことを学んだり、簡単に稼げない仕事をやるのは、 高くて不必要な買い物と同じと考える。学ばず働かずとも、とりあえず何とかなる。 だから学力は低下し、ニートが生まれる。
「消費主体化が進んだのは、日本人みんながすぐ『右へならえ』になるから。 国策が成功しすぎたんです。グローバリゼーションへの過剰適応は、 子どもを規格化するような教育政策が大成功した結果でしょう」 問題解決には、かつての地域社会や大家族、学生寮といった損得ではない 人間関係を持てる場が必要だ。自身は将来、<寺子屋のような、道場のような、 コミュニティの拠点を作りたい>と思っている。 「子どもに武道や哲学を教え、書生を住まわせ、宴会やマージャンをしたり…」
■忍耐強く聞こう 普通の人にもできそうなことはないだろうか。 「商品のように流通している出来合いの言葉しか知らない子どもたちに、 『オリジナルな言葉を聞かせてよ』と言うこと。たとえ言語の体をなさなくとも、 大人は忍耐強く聞くことです。楽しいですよ、決まり文句しか言わなかった子が、 初めて生の言葉を発する瞬間に立ち会えるのは」
これは、キャンパスで日々実践していることでもある。 「18歳までに固まった学生の頭の中を、ぐちゃぐちゃにして社会へ送り出す、 それが私の仕事なんじゃないかなあ」 校舎の中庭に出た。抜けるような青空にクリーム色の外壁が映える。 「昔は全寮制だったそうです。今の寮も定員を増やしたいのですが」 「ぐちゃぐちゃにする仕事」への思いを新たにしているようだった。 【鈴木英生】 ==== ■人物略歴 ◇うちだ・たつる 神戸女学院大教授(フランス現代思想)。 「『おじさん』的思考」「先生はえらい」ほか。 毎日新聞 2007年4月13日 ーー なるほど、と納得する。 学生時代は寮生活、ゼミ、クラブ、世界一周旅行と当時としては恵まれた経験を多くした。 その中で一度、「固まった頭がぐちゃぐちゃ」になった経験があるから、その重要性が深く理解できる。 馬鹿の壁を一つずつ叩き壊す経験をしたが、振り返ってみてどこまで壊してきたのか?疑問である。 何も壊していなかったのか、いや壊した!の、自問自答である。 その時に生の言葉を発していたかどうか分らないが、傷口から出る血のような言葉であったことは間違いない。
ー著者の次の指摘も、ずばり急所をついているー 「ずっと考えていたけれど、背後にある巨大な地殻変動の正体がわからなかった。 『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著)を読んで、腑(ふ)に落ちたんです。 『それってグローバリゼーションだったのね』と」・・・ ・・ グローバルぜーションの上に共産圏が一挙に資本主義社会に組み入れられ、 更に「ゆとり教育」の失敗が、無気力の若者を造成していまった。 また、アメリカの実質占領政策が、この国民を無気力にしてしまった。 団塊世代ジュニア以下の年代の人たちは、明らかに自ら下流を目指しているのでは? と思うことが度々である。 彼らは、お消費様なのだ。 逆の立場は数パーセントの人たちが確実に占拠してしまっているのである。 この時代の変化に、やはり一度、グチャグチャにして、己を変えるしかない! 変わり方によるが、少なくとも、アメリカ型の消費社会を見据える知識は持たねば! (℃゛)/ また、明日! ・・・・・・・・ 2006年04月20日(木) 1843, 桜の話 才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*) 近くの福島江の桜は昨日・今日が満開である。「花」と言えば桜を意味するくらい 桜は日本人にとって特別な花である。今年の花便りだと桜の当たり年のようだ。 私のHPに投稿してくれる井上さんのHPも、桜の花が多い。 長岡にも幾つかの桜の名所がある。自宅から数分のところにある、福島江の桜と、悠久山の桜だ。 毎年、開花を楽しみにしている。5年に一度は大当たりの年になるが、今年はその年か如何か? 桜をぬきにして日本人の自然観や人生観を語ることは出来ない。 文学・能・歌舞伎・絵画のどれをとっても、桜は大事な役割を果たしている。 日本人の考え方や生き方を表しているとも言える。 春になると「桜前線」が天気予報のように(今どこが満開かと)放送される位だ。 十数年前の話になるが、私の近くに住んでいた従兄弟が、桜の散り際を待っていたように「自死」をした。 その納棺の儀式の時、桜吹雪が部屋の中に吹き込んできた。ゾクッとするような不思議な体験であった。 5月3日に、その法事に行くことになっている。 (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが? ー幾つかの花に関する和歌・俳句を HPからコピーしてみた。 世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平 ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なり 細川ガラシャ 人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂いける 紀 貫之 こえぬ間は 吉野の山のさくら花 人ずてにのみ ききわたるかな 紀 貫之 みよしのの 山辺に咲けるさくら花 雪かとのぞみあやまたれける 紀 友則 色見えでうつろうものは世の中の人の心の花ぞありける 古今和歌集 願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ 西行 (以下、字数の関係でカット2009年4月20日)
ー 桜は死の匂いがする。 一瞬にして咲いて散るからである。 それが、また良い! 今朝は強風が吹いている。 こういう日の強風は、何か腹立たしくなるものだ。 ε(´',_c')зβyё☆βyё ・・・・・・・ 2005年04月20日(水) 1478, 居酒屋放浪記
土曜日は家内と至近にあるサエゼリアか、歩いて十数分の駅周辺の全国チェーンの居酒屋に行っているが、 もうソロソロ飽きた。そこで、昔からの居酒屋をあらためて見直すことにして三週続けて行った。 今更の感もあるが、年齢もあるのだろう。家内はもう行きたくないというが。 最近、BSi・6で「吉田類の居酒屋放浪記」を放映している。 平日の19時半に放送しているが、毎日これを見るのを楽しみになっている。 全国のレトロな居酒屋を訪ね歩く内容だが、吉田類と現場で酒を飲んでいるような カメラ目線がよい。先々には、何十年も積み上がられた味と雰囲気が漂っている。 店と料理と親父・女将とお客の醸しだす暖かさがよい。それと、その地域の日本酒の紹介も時々ある。 以前に「居酒屋の親父」のミニ小説?を書いたことがあったが。 男の楽しみは酒と女と博打であるというが、軸は一つという。間違いなく私は酒である。 そういえば32年前に初めての創業で貸しビルつくった時に、その中に「養老の滝」を立ち上げて経営したことがある。 二年間だったが、忘れられない経験だった。酔っ払いの恐ろしさ、嫌らしさ、そして面白さをジックリ味わった。 居酒屋は客としてはよいが、自分がやるものではない。 カウンターの外と内側は全く違う世界である。人間、酒が入ると別人になる。 歪みと誠実さなどの人間性がそのまま露呈する。割り切ってみれば、これほど面白いものはない。 人生の縮図が、そこにある。 書き出したら止まらない。 ーー これからは私の文に戻るが、東京の中野の居酒屋もよかった。 創業以来47年の女将と、それ以来のお客との会話が何とも味があった。 苦しい時の居酒屋の酒の味の何とも心の気休めはなかった。 神戸のガード下の中華料理店の油にまみれたモツの炒め物とか、おでん屋(関西では、たしか関東煮といった) のスジ肉の美味しさ。誰もが、甘じょっぱい酒のつまみの思いでは数知れずあるだろう。 今度、養老の滝の立ち上げの時の話をジックリ書いてみよう。 あまり思い出したくないが、書きたくなったということは、その時のことを 受けいれる余裕が出てきたのだろう。その時の相棒もこのHPを見ているとメールが入った。
・・・・・・ 2004年04月20日(火) 1113, ヘビー級の醍醐味 ?2
ー家内性手工業ー 昨夜、世界ヘビー級ボクシングを見ていたら、アナウンサーが面白い言葉 をいった。IBFの世界チャンピオンのセコンドが何とトレーナーが父親で、 カットマンが母親であった。解説者も長くボクシングを見ているが初めてと言っていた。 その時のアナウンサが「家内性手工業」と言ったから笑ってしまった。 上手いジョークである。大型の選手が小型の選手を、追い回している試合であった。 その内容を称して「コンニャクを押さえつけて包丁で叩き切ろうとしているようだ」 という表現もおもしろい。際どい壮絶な試合だからこそジョーク?が出るのだろう。 大型選手の名前がまた良い「ゴロタ」というポーランドのゴロツキあがりの 柄の悪い選手なのだ。いつも負けそうになると相手の下腹部を叩きつけて、 反則負けになる。 数年前もタイソンに負けたばかりだ。 この試合ではないが、観客席で見ていた母親が、負けそうな息子を助け ようと興奮して「ハイヒール」で、相手の選手に殴りかかったこともあった。 この試合は最後の最後までわからない大接戦でドローであった。 ヘビー級は面白い。 そういえば具志堅というチャンピオンが「あなたの職業はどういう関係?」と聞かれて 「肉体関係」と答えた話しを聞いたことがあるが。 まあ、どうでも良いことだが。
・・・・・・・・・ 2003年04月20日(日) 746, 笑われている自分を笑っている面
数年前の話である。 高校の同級生が、ある会ー精神修養団体の支部ー主催で講演会をやるから、聴講して欲しいと頼まれた。 たまたまその話し手の手記を読んだ事があったので、二つ返事で参加をした。 300人位の講演会で同級生が開会の挨拶をした。 恥ずかしいそうな顔をしての挨拶が何とも可愛らしい味のある顔であった。 それから数ヶ月後に、同級会で顔を会わせた。 何げなく「お前も、やっと面ができてきたな!」 と言うと、本人がすかさず「どういう面か?」と聞いた。 正直にそのまま「笑われている自分を笑っている面になっていたぞ!」 と言葉がでてきた。どうしようも隠せない心の顕れが純粋にでた面であった。 それも他人に良かれという仏心のが表れた表情は何とも良いものだ。本人も何か嬉しそうな顔をしていた。 自分の心の傷を最小にするには、他人に笑われる前に先に自分で笑ってしまう のがコツである。その意味で、この随想日記も赤裸々に心の奥を曝け出して 笑われるのを承知の上で書いているのも「笑われている自分を先に笑っている」ことにになる。 ところで人間の顔というのも面白いものだ。気持ちや品性がそのまま出てしまう。 酔っ払った時の(^。^)y-.。o○?顔を鏡で見てビックリした事がある。 漫画のアトムで小さく出てくるブタの顔そのものの顔であった。実際そういう顔をしているのだろう。 そういう顔をして、総てを忘れたい為飲んでいるのだから、それも仕方がないが。 顔はごまかせない。 バカな女が必至で化粧をするのも解る。
・・・・・・・・ 2002年04月20日(土) 382,能力とは
人間の能力は無限だ。問題は発揮できる環境をどうやって作り上げていくかだ。 それを伸ばす為に、人生設計ーグランドデザインが必要である。 それを前提にして目標の設定を立て、その達成のプロセスとその結果が能力。 したがってグランドデザインが明確でかつ高くなくては伸びない。 まとめると ・高い志を持ち ・ウオームハート&クールヘッドで ・事の本質を見つけ ・自ら常にその時点の最重要の問題を見つけだし ・失敗を恐れず、その重心と中心点に向かい ・全エネルギーを持って ・チャレンジとコンペテションとチェンジをする 知性と愛と力のバランスをとり、それぞれの価値を見つけ 継続してやり続ける。その為には好きな事を見つけそれをやり続けるか、 それを好きになるかだ。 まあこんなところか。
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