2009年04月18日(土)
一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は 小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。 彼にとっての終戦日は、昭和20年8月15日ではなく、その29年後であった。 その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。 終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、彼等は信用しなかった。 そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の鈴木と遭遇した時も、フィリッピンの掃討兵と 思い殺害しようと接近したが、思いとどまり、話をしているうちに、 「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」と、ボールを投げた。 それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除と投降命令を受けた。 その瞬間「なぁんだ」と思ったという。・・・・・ 投降ということは、それは死を覚悟したもの。・・・ところが、フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、 捧げ銃の敬礼で迎えられた。捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。 さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを拒否しました。 そして翌日、マラカニアン宮殿で会見したマルコス大統領がこう話したのです。 「我われは、それぞれの目的で戦った。しかし戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、 あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地はありません。 昭和49年3月11日のその瞬間に私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。 帰国のためにマニラ空港を出発する私に、フィリッピン空軍の軍楽隊が日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」 を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から解放されたのだと、心から生きる喜びを噛みしめました。 ーー 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。 これほどの最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の三十数年があればこそである。 こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと思い知らされる。 彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。 そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が心に残るのは如何いうことなのだろうか? 「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、 「嫌なことも多くあったが、良いことも多くあったな?!」と、言葉を言い換えるだけで全く違ってくる。 私は、後者を口癖にしているが、悲観と楽観の差だろう。 喜怒哀楽を、それぞれに「わが人生で一番嬉しかった瞬間」「わが人生で一番怒りを感じた瞬間」 「わが人生で一番哀しかった瞬間」「わが人生で一番楽しかった瞬間」を、思い尽きるまで書き出した時に その人の人生が浮き出ることになる。 怒り、哀しみ、喜び、楽しみ、どれもこれも、あまりに多い。 やはり人生をタップリと生きてきたということか。
・・・・・・・・・ 2571, ドル覇権の崩壊 ー4 2008年04月18日(金) ー読書日記 2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって理想的な事件であった。 そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。 アラブ民族、イスラム諸国にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。 価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。 私は、少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、意識的にお金を使うことにしていた。 といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。 貯めたところで、それが通帳の数字以外の何ものでもないことを父親の死に様から、学んだ。 この程度は使ったうちではないが、普段の生活は節約をしていたから、年2?3回の海外旅行など、 割り切って使うべきことができた。この本、読めば読むほど心が寒々としてくる。 ーー 第三章 かくしてドル覇権は崩壊していく P-155 今や処刑されたサダム・フセインは、2000年11月にイラクの石油輸出をユーロ建てにすることを要求した。 彼の公然たるアメリカへの挑戦とその傲慢さは、ドルへの直接の脅威であった。彼がもっていた イラクの軍事力は既に相当に疲弊して欠乏しており、アメリカにとってはたいした脅威ではなかった。 当時のポール・オニール財務長官(任期2001?2002)の発言で後にわかったことは、 「2001年の1月のブッシュ新政権の初回の閣僚会議の主要な議題は、 どの様にしてサダム.フセインを国際社会から追放するか」であった。 サダムフセインが米国に脅威を与えた直接の証拠は何も無かった。 大量破壊兵器、すなわち・核兵器や毒ガス兵器の開発計画の施設は遂に発見されなかった。 ブッシュ政権での、比較的温厚で、善良な閣僚であったオニールには、このことが驚きであった。 9・11事件後にブッシュ政権は、中東地域に計画通りアメリカ軍を進駐させる計画を即座に実行開始した。 そのための自己正当化の理論として、「テロリストたちからの攻撃から、アメリカ本土を防衛するために 先制攻撃(プリエンプティブ.アタック)はどうしても必要なことである」とアメリヵ国民を説得して 戦争への支持を呼びかけた。アメリカ国民はこれを承認して、積極的にブッシュ政権を支持した。 政権への支持率は80%を超えた。国民と言うものは、指導者たちが煽動すると、このように易々と戦争に 動員されてゆくものである。人類の歴史は、このように愛国心と民族主義という考え方を鼓舞(インスパイア) する。いとも容易炊きつけられて、無謀な対外戦争への道を歩まされる。その数年後には、必ず大きな失望と 幻滅が襲い掛かってくるというのに。戟争と言うものは、古来、だいたい3年から4年で、それを支える 国民の熱狂と支持が消えうせるものなのである。剥き出しの報復感情と、メディアを使って操られた国民が 幻滅し、国民に自覚を促すのには、それなりの時間がかかるのである。 アメリカの軍事行動を故意に正当化するために、どうやってイラクの独裁者サダム・フセインを、 9.11事件と結びつけるかという、事実の捏造にブッシュ政権が遭進したことは今では良く知られている。 9.11事件とイラク政府との関連性の証拠は全く見つからなかったし、更には大量破壊兵器の開発の証拠も 全く見つからなかった。それにもかかわらず、歪曲や猛烈な勢いの偽りの政府答弁と陳述によって、 世論や議会の支持が作り出され、サダム・フセイン政権の体制転覆(レジーム・チェンジ)が正当化された。 サダム.フセインが「イラクの自国の原油を、ドル建てではなく、ユーロ建てで販売し、ヨーロッパ諸国との 資金を決済する」という決断をして、実際にこれを実行に移した。このことで、基軸通貨(キー.カレンシー) であり、世界銀行が公認する準備通貨(リザーブ・マネー)としてのドルの完全性を攻撃した。 サダム・フセインは、オイル・メジャーを支配するロックフェラー家の逆鱗にふれたのである。 だから、彼を国際社会から追放し、更には、ヒトラーや東条英機の閣僚たちと同じように縛り首にして、 世界中に「アメリカ帝国への反抗者はこのような目に遭うそ」という見せしめの像にされた。 ーー 続刊が出たので、早速買って帰りの新幹線の中で読み始めたが、 「自分のいったとおりだろう!」という自慢と、同時に更に過激な内容になっていた。 それは来週に書くつもりだが、5?10年はアメリカ発の大恐慌に世界は混乱する! 娑婆の混乱もおつなものか?
・・・・・・・・・ 2007年04月18日(水) 2206, 反時代的毒虫 ?3 b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪ 「反時代的毒虫」ー中村うさぎとの対談「覚悟の文学、命がけの浪費」ーより
浪費癖で借金してでもブランド品を買いまくりを売りにしている 「ショッピングの女王」こと、あの中村うさぎ、との対談である。 彼女は自らを「自分を売る職業・・・それが風俗や水商売なら、私の仕事だって同じことだ。 私には、『自分を切り売りしている』という意識が常にある。」 「そんなふうに自分を切り売りしている人々は、必ずそのことに復讐される。魂が壊れていくのだ。」と語っている 本を書くため身を削り、シリアスなキャラが売りで、まさに「覚悟の文学」である。 最初の結婚は、大失敗に終わり、2度目の結婚相手の現在の夫はゲイ。 「毎日一緒のベッドで寝ているが、互いの裸を見たことがない」という。 彼女の両親はゲイの夫に大きなショックを受ける。一人のホストにいれあげて、 出版社には前借りの借金を繰り返し、時には税金未納で銀行口座を差し押さえられながらも、 1本100万円のヘネシーをオーダーするまで「命がけの浪費」をする。 (字数の関係でカット2,008年4月18日) バイ! UvU/? ・・・・・・・・ 2006年04月18日(火) 1841, 理解する技術ー情報の本質がわかる?2 +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨ ー 読書日記 □第3章ー文章から情報を読み取る基本テクニック (字数の関係でカット2,008年04月18日) ー つづく ヾ(。・ω・)ノバイ! ・・・・・・・ 2005年04月18日 (月) 1476, 24歳の日記 ここで22歳・23歳の日記に続いて「24歳に日記」が始まる。 数回だが。
あまり書きたくないのが本音であるが、自分を見つめ返すためには、目をそむけてはいけない足跡である。 途中から、日記をカード式に切り替えたが、そのカード式の日記帳は全て捨てた。 今から考えてみたら残しておけばよかった。残っている日記帳には十数日分は書いてあるが、大まかにしか書いてない。 まず、生活信条が書いてあった。 真面目に書いたものである。 それが若さであろう。 35年経っても、ほとんど変わってない自分がそこにいる。 それでは24歳の日記ー十数日分だが、開始である。直視したくないので、数回で終えるが。 中原中也の詩の中に、当時の私の気持ちがそのまま書いてあった。当時、ある姉に勤めたら薄れ汚れて しまった感じといわれたが、当時の悲しみが直に伝わってくるものだ。 それと中原中也の心も。 それと当時の両親の温もりと愛情もそのまま自分の中に残っている。 人は愛情の中で生かされていることを実感する。全ての人に感謝をしなくては。特に両親に対して。
昨夜、独身時代の自分の夢をみた。 ーーー 1970年3月 ー私の生活信条
誠実であることー動機においても結果においても常に清潔であること
愛情を基本とすること ー常に相手の意思・立場を理解をして、それを持って自己の満足とする 毅然たる態度でー何があっても自分を見失わないで、自分の善に従うこと 善悪を明確にしておくこと ー他人(自分以外の人)に対して、自分と等しく愛するように勤める善悪の基準は他人に対して、いかに 自分と同様に満足せしめるかにおく打算においても、同じ扱いをする動機において不純はさけることとする (最後に拠るべきは純粋な動機のみである) 人間関係ー常に相手側と同じ立場におく ただし、能力レベルが同等に対してであるが 不言実行(無言実行)ー 有言不実行の矛盾に陥らないこと 経験を振り返ると無言実行が一番実効があった 言葉が先に立ったときは、自信のないときと自覚すること 自己投資をすること 人生とは、投資である。 自分に対して、そして創造行為もである 与えられた時間、物、金、チャンスを投資に向けること 克己ー 自立性と自主性を持って,他人志向的個人主義を目指す そのために己に打ち勝つこと ーー 1970年3月21日
現在、自分を見直すために会社を辞めた。そして、現在は長岡の自宅にいる。 会社には丁度1年在社したことになるが、いざ辞めてみて解ったいたことだが、動揺があまりにも大きい。 今も夢の中にいるようだ。辞表を出して、2?3週間大きな揺れがあった。 色いろのことがあったこともあるが、自分も人間だったのだ。 これからは決心をしてしまったからには、1年ジックリ勉強のやりなおしである。 コンピューター関連は、技能職でしかないので私には向いていない。 マーケッテングのほうも面白そうだ。義兄に西村さんに聞いてみようと思っているが。 この一年間どうすれば一番効果のある時間を過ごせるか考えてみなくてはならない。 それより、この一年で一生の自己設計をつくるのがポイントになるだろう。そのために 如何するかを考えるべきである。日記を考えると、即自と対自の会話である。 また自分自身である時間。 反省と焦りが交差するところである。
・・・・・・・・・・ 2004年04月18日(日) 1111, 「今時の若いものは!」
エジプトの遺跡にも「今時の若いものは・・・」と書いてあったという。 数年前から、数人の知人が会社の後輩に対して「今時の若いものは!」と、批判的にいっている言葉が気になった。 年寄り臭い嫌な響きがあった。若い人にも個々それぞれある。この言葉は自分の価値観が 若い人の変化を受け入れられない心理から出ている。「それにしても、今の若いものは!」という言葉が出てきそうだが。 一年前、アメリカがイラクへの侵攻から、若ものの間でイラクが究極の旅行先としてのターゲットになっているという。 今回のイラクの人質騒ぎも、その類の範疇でしかない。ボラティアの女性だけが救いであったはずが、 ??を吸いにいく丁度よい名目?で、NPOを利用してだけ? という疑惑も浮かびでてきた。18歳の坊やも、共産党一家のパフォーマンスでしかなかったのか。 といって、彼らには彼らの正義があったはずである。 インターネットの検索で調べたら、私が書いた文章より、内容の濃いものでてくるから困ったものだ? しかし、このテーマを考えたらこそ、より深く見えてきたこともあるが。
・・・ 演題:「近頃の若者」 養老猛
この講演は平成10年6月に鎌倉芸術館小ホールにて行われました。 その時の講演の録音テープをおこして原稿を作成し、 養老 孟司先生に御了解を得て、このホームページに掲載しています。
「近頃の若者」という題をいただきましたが、私ももう相当な年になったのでこの題が ちょうどいいのではないかと思われたのではないかと思います。 「今時の若い者は…」というのは一番古くは、エジプトのパピルスに書いてあるといいます。 ですから紀元前の頃から年寄りは若者のことを「近頃の若い者は…」という習慣というか癖があったようです。 自己紹介いたしますと、私は1年だけをのぞき、小学校からずっと学校におりまして 卒業してからは教師になり、東京大学に57歳までおり、58歳からは北里大学におります。 ですから仕事では若い方とお付き会いするというのがほとんどでございました。 戦後50年を過ぎましたけれども、この半世紀で世の中が相当変わりました。 その間に若い方もずいぶん変わってきたというのは当然でございます。私が小学校に入った時というのは 戦争中でございまして、1年生の時が昭和19年でした。ちょうど東京で空襲が始まった頃です。 その頃病院に入院したことがありましたが、ご存知のように病院の食事というのはひどいものですが、 そのひどいのが戦争中でしたから一層ひどいものでした。その時代、親は食べていくことで精一杯。 子供たちは青天井で、学校が終わると川へ行って魚を捕ったり、空き地で虫取りをしたりの生活でしたので、 学校は大変ありがたいところでした。私がまず最初に「近頃の若者」と違いを感じたのは、団塊の世代でした。 (字数の関係でカット2,009年04月18日) ・・・・・・・・・ 2003年04月18日(金) 744, まずは一日一図から ?2
これを実行して10日が経つ。 三日坊主と思っていたが、今もしっかりと続いている。 始めたら面白いのだ。一番面倒で避けたい思考が面白いのだから、大変な習慣であり収穫である。 この歳で色いろのことが解り始めている、この鈍さも実感する。 ポイントは ・初めに漫画を中央に小さく書き込み、 ・それに、漫画の「声の噴出し」を書いてしまう。 ・そして漫画の上にテーマを書きこむ。 ・「噴出し」に思いついたことを気楽に書き込んでいく。 漫画の人形を書いたケースの場合、自分の分身と思ってしまう為か、頭の中から色いろなことが浮かび上がってくる。 「半分遊び気分で問題の追及」を、結果としてしてしまう。 「左手を上に挙げ、右手を腰に当てている小さな人間の絵を中央に描いて、 左右に三づつ声の噴出しを書き込む」と、どういう訳か難しい問題でも、気楽に考えられるのだ。 読書法で10?100倍の速度が可能という本が多く出版されている。 私の場合、その方法を身につけて10倍以上の読書力になった。それもこの1^2年である。 しかし、「一日一図」を始めてわずか10日で、10倍の思考力が増えた?ようだ。 その程度の頭脳でしかないのが、事実だ。 以前から天才のノート法とかいう本を読んで、 色いろ工夫していたが「毎日一図の習慣と、漫画を中心に描いてから、埋める方法」がよい。 随想日記を書き始めて、文章力と文章量はそれまでの十倍に増えた。 そうすると、「読書力と文章力と思考力」がこの数年で10倍になったことになるが、 集中力がそれだけ増えた事は間違いない。これらの方法は過去からいくらでも在ったのだから、 今になってやっと気づいたに過ぎない。 この随想日記を続けてきたことが、こういうノウハウを身につかせているのだろう!
・・・・・・・ 2002年04月18日(木) 380, 姉正子さん
姉正子が亡くなって2ヶ月すこし経つ。去年の6月に来て,3時間半なにを話したか? 大体がこんな内容であった。 ・自分の生い立ちー声楽のコンクールで、中沢桂に高校時に負けたことが一生の分岐点であった ・高校しかいけなかったハンデキャップが一生ついてまわったこと ・倒産時に私に助けてもらったのが、地獄に仏であった ・今回自分はセンガンでないが、主治医がセンガンと書いてくれた為、保険が全額降りた。 ・いつもこの家に来ると、肩に重い何かが被さるが今回はないのが不思議だ ・両親の思い出、今までの思い出 ・なにがあっても自分は生きぬくーEM 菌を飲んでいるので順調 ・病気の状態ー入院の後先の話 彼女にとって、「もしかしたらこれが最後の実家帰り」という気持ちがあったのだろう。 彼女にとってここは(自宅)やはり実家なのだ この内容から私なりの彼女の心理分析をすると ・この長岡の街で、この世界を出ることができなかった一生であった。 ・やはりやってはいけない事?をしてしまった無念、後悔。 ・両親に対する恨みと、反面後悔。 ・病気の恐怖に対しての自分の気持ちの説得ー自己詭弁 一昨年の手術の前日の20時過ぎか電話が鳴り、「実は自分は肺がんで明日手術。 最後の電話をやはり貴方に電話をしてしまった。これからお風呂に入って 身体を清め、手術に臨む。もしものことがあるかもしれない。いろいろ有難う。」 ー私「もし間違えてあの世に行ったら、両親によろしく。それとうまくやって。」 ー正子「仲良くするし、待ってるからね」 だいたいこんなものだった。 面白い人でもあった。
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