|
2007年05月06日(日)
(p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪ヽ (★>з<)o○[ォハヨ]○o(>ε<☆)ノ 昔から、どの世界に行っても「自分の居場所のつくり方」は上手い方であった。 八人兄弟の末っ子と、商家の生活環境もあって、大所帯の中で独りで 自分の居場所を何時もつくっていたためである。 その条件が、誰とも就かず離れずの間隔を幼児時期から身に着けさせていた。
人間は、両親との人間関係の相性が人間性のベースとなる。 両親の愛情をたっぷり受ければ愛情に満たされた人間性になる。 両親の不仲の中で愛情が空回りになった子供は愛情不足になる。 その不足を友人や恋愛相手に求めてしまい、バランスが崩れてしまい、 自己嫌悪になるケースが多い。 その根本が、親への愛情に対する不平不満である。 愛情不足の人は、何時も自分の居場所に不安を感じとり、何処かに母の存在を 求めて居場所の確保追われることになる。(これは当人は気づいてない) その確保を探し求めても、所詮は虚構を求めているだけでしかない。
その解決は自分でしか出来ないが、 「まあ、しょうがない!居場所は居直る心の状態しかない!」と、 自分の心の奥で悟るしかない。 その心の在りかたが、解決になる。 それは「あるがままの自分を受け入れるしかない」開き直りである。 自分がつくり上げてきた自分の過去の決断・行動を全て受容することになる。 その気持ちが、「自分の居場所にいる心のあり方」と同じ心理状態となる。
たったこれだけのことが解るのに、何十年の人生の旅が必要であった。 反対に親に自分をからみ取られて、母親というウバンマに一生を犠牲になる ケースは、その辺のマザコン息子や娘がザラにいるだろう。 60歳過ぎたら、自分の人生は無かった?という虚無感である。 私の4人の姉は、両親の強烈な影響の下から抜け出ることが出来なかった。 そういう私も似たようなものだが、私の場合積極的にその影響を受容した?から、 後悔はないが・・・。 ---------- ところで、上記は深い意味の自分の居場所について論じたが、 いままで具体的に?居場所づくりとして何をしてきたかというと、 ・まずは飲み屋か、酒飲み友達を探す。 (見るところ、それが異性であったり、喫茶店だったり、人によりそれぞれ違う。) ・次に座り机と座布団と、本棚と愛読書、蛍光電灯である。 その時どきによって違うが、宗教書などの心のよりどころになる愛読書を置く。 現在でも通勤の往き帰りの鞄の中に、4冊以上の本を携える。 座った席がそれだけで、自分の居場所になってしまう。 ・そしてコーヒーのセット。 ・次に探すのが、昼飯の行きつけの店と本屋の確保である。 意識しようがしまいが、誰もが多かれ少なかれ同じようなことをする。 私は群れるが嫌いなので「会」は極力出ない。 その反面、一対一か、3人まで会には出るようにしている。 地方で、特に新潟で一対一で話せる価値観を共有できる人との出会いは少ない。 ところで、ブログ、これネット上の居場所である。 面白いものが出来たものである。 これは、また違う機会に・・・・ ☆^(*・ω・)ノ~~~βyё βyё♪ ・・・・・・・・・ 2006年05月06日(土) 1859, 体罰は教育? 才八∋ウ_〆(∀`●)
昨日のモーニングショーで、最近釈放されたばかりの 戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏と タレント系?のヤンキー先生の討論をしていた。 ミスマッチといえるほど戸塚氏の方が一方的な内容で、 老教授が若い学生を教えているようであった。 (ヤンキー先生=ヤンキー上りが売りで生徒をみちびく教育をしている)
「目的は、体罰そのものではない! 体罰は本人の行動を導く為の一つの手段でしかない。 親がとことん力を尽くして、それでも無理な子供を作り直している」等々、 聞いていて一言一言が深い経験を通して得た理論だけに、説得力のあるものだ。
ヤンキー先生の彼なりの手法もあるのだろうが、 二人の経験の量と質の差は致し方ない。 戸塚氏の「自分のところに入れて鍛え直して、親を超えさせて家に帰すことだ」 という言葉もよい。親そのものに問題があるのだから親を超えさせないと、 一時しのぎになってしまうからだ。
最近の若い人は、親から怒鳴られたことがないのが多い。 研修期間で、少し厳しいことを言うと荷物を持って帰りかける。 社会教育は本来家庭で親がするものだが、最近では会社がせざるを得ない。 以下は毎月の4月初めに産経新聞の連載の石原慎太郎の 『日本よ』で掲載されたものである。 同感である! ーー 2006年4月3日発売の産経新聞より転載 産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/ まあ茶でも!~~旦_(。-_-。) ー 日本よ − 石原慎太郎 「失われようとしている子供たちのために」
生徒の死亡事故の責任を問われ服役していた戸塚宏氏がこの四月に刑期を終えて出所してくる。 戸塚氏は服役中保釈を申請することなく、あくまで刑期を満了した上で悪びれることなく 以前と全く同じ所信で、歪んでしまった子供たちの救済再生のためのヨットスクールを 再開運営していくつもりでいるという。 私は彼の支援の会の会長をしているが、事件への冷静な分析と反省も踏まえて 彼が再開するヨットスクールで、多くの子供たちを救い蘇らせていくことを期待している。
かつて戸塚ヨットスクールにおいて救済再生させられた子供たちの確率は瞠目すべきものだった。 スクールに送りこまれてくる子供たちの急速な再生を見取ってきた地元の警察の認識は、 署長が関わり深い有力者から頼みこまれて密かに入校の順番繰り上げの便宜を図った例が 多々あったほどだった。 事件発生当時の署長の痛恨の談話もそれを証していた。
戸塚ヨットスクールの子供救済再生の原理は極めて端的なものだった。 それは動物行動学の権威コンラッド・ローレンツの唱えた脳幹論にのっとったものだ。 つまり子供たちのひ弱な脳幹を鍛えなおすことで子供のこらえ性を培う。 演習のために特別にデザインされた、極めて乗りにくい小型のヨットに子供を一人で乗せて、 こらえきれずに転覆した船を自力で元に戻し船にはい上がってはまた帆走させる作業の反復だ。 それによって自力での努力の末の達成感を味わわせ、その満足が不思議なほど早く子供たちに 自ら一人前としての充実感を与え彼等をタフな人間に変えてしまう。
ローレンツは 『幼い時期になんらかの肉体的苦痛を味わうことのなかった子供は 成長しても不幸な人間になりやすい』といっているが、 それは人間が他者との摩擦に 晒される社会の中で生き抜いていくために不可欠な健全な脳幹の必要性を意味している。 脳幹はその名のごとく脳の中で致命的に重要な部分であって、人は大脳の一部を失っても 生き続けることは出来るが、脳幹が少しでも損なわれると生きることは出来ない。 人間の喜怒哀楽の感情、寒さ暑さへの反応、発奮、意欲、我慢といった内的な反応を伴った 行動はすべて脳幹から発信して示される。
現代の特性として子供たちの脳幹そのものがひ弱なものになってしまっているのだ。 原因は現代社会の豊穣さと平和がもたらした安逸であって、貧困と欠乏は人間に我慢を、 強い不安は緊張をもたらすが、それが淘汰されてしまうと、人間は安逸の内に自堕落となり こらえ性を失い安易な衝動に容易に身をまかせてしまう。
暑いといえば冷房、寒いといえば暖房、お腹が空いたと訴えれば容易に間食をあてがわれる 子育てでは子供の脳幹は安易に放置されるまま動物としての耐性を備えることが出来はしない。 それは同じような環境で育てられてきて耐性を欠いた当節の大人、若い親たちにしても同じ事だ。
私が勾留中の戸塚氏を激励に訪れた折、集まったかつてのヨットスクールの生徒と その親たちを眺めてその対照的な印象に驚かされたものだった。 救済再生された少年たちのタフでしゃんとした態度に比べて彼等にただまとわりついている だけの母親、父親たちの様子はどちらが親でどちらが子供なのか見間違うほどのものだった。 ああした親たちには子供以上の脳幹の衰弱欠陥があるのではないかと思わされたものだ。 ーーーー 以下、字数の関係でカットしました。 ヾ(^ω^*) バイ ・・・・・・・ 2005年05月06日(金) 1494, いま・現在について−2 「どうせ死んでしまう」−1 ー読書日記ー ー私は哲学病ー
究極の、刹那的な言葉といえば[どうせ死んでしまう]である。 「これを言っちゃーお終いよ」という言葉である。 しかし、尽きるところ、それである。
「いま」を考える時、キーワードとして「永遠」がある。 しかし、「どうせ死んでしまう」という言葉を考えると 「永遠」と「いま」という言葉に行当たる。
生は限られている。所詮はどうせ死んでしまうのである。 それがハッキリしているから、いろいろな問題が発生するのだ。
個々人にとって、自分の死が基点になる。 自分にとって自分の死が大ごとで、全てといってよい。 目前に死を覚悟した時、「いま」という瞬間に気持ちが集中する。 そして、その一瞬一瞬に永遠を感じる。 最後と覚悟した花火や花見の中に永遠を見るのである。 その死にたいして誰もが根本的に不安がある。 その不安はどこまでも付きまとうものである。
その不安に対して、宗教が昔から死の向こうに来世を設定をして 人々の心に秩序を与えようとしてきた。 しかし、来世だけでは理屈に合わない。 現世にも秩序ある生と死の意味をつくらなければならなくなった。 哲学は、それを言葉で徹底的に追求しなくてはならない。 この人(中島)の哲学視点はリアルで露悪的であるが、その辺が私は好きなのだ。
以下は、面白そうなところを抜粋してみた。 この連休の暇つぶしに、パソコンに打ち込むのに丁度良い。
ーーーーーーーーー ・・・学問や芸術に専念しているものたちよ、 あるいは社会的に有益なことをしていると自覚している人々よ、 なかでもその仕事が世間的にわずかでも評価されて幸せを感じている輩よ、 いちどすべてを無理にでも反省してみたらいかがであろう。 そのために費やした膨大な時間(青春)は、 はたして無駄ではなかったのか。 あなたがそれをする必要があったのか。 あなたがしなければ、何か困ることでもあったのか。 あなたがしなければ、 ほかの誰かが(ずっとうまく)し遂げたのではあるまいか。 つまり、その仕事は、あなたにとってのみ、 あなたの生き甲斐としてのみ重要だったのではあるまいか。 ー字数の関係でカットしました!
・・・・・・・・ 2004年05月06日(木) 1129, 「一生のうちにすべきこと、しなくていいこと」−2 谷沢永一 2000/10/19『PHP研究所』
二年前に書いた文章の続編である。 図書館で借りてきて、返してしまったために中断をしていた。 先日おなじ本を借りてきて、以前書いたことを思い出し、検索をかけたところ、 二年前に書いてあった。
『しなくてよいこと』は、『すべきこと』より知っておくべきことと、 前の文章(あとでコピー)を読み返して、つくづく思った。 知っていれば、しないでよい苦労を避けることができる。 こういう知識に対して無知の人があまりに多い。 他人事でないが。 『すべきこと』も、まったくそのとおりである。 ー以下は 「すべきこと、しなくてよいこと、してはいけないこと」の抜粋である。
ーすべきこと(抜粋) ・真の友をもつ ・人生設計を立てる ・生きるためのお金を得る ・本を読む ・夢をもつ ・感動 ・人生のブレーンをもつ ・結婚 ・趣味を持つ ・前向きに生きる ・一人旅 ・音楽を聴く ・失敗を経験する and etc. ーしなくていいこと(抜粋) ・分相応 ・世間体をつくろう ・他人と比べる ・出世競争 ・嫉妬 ・功績を誇る ・不正をただす ・自分の過去をクヨクヨ思う and etc.
ーしてはいけないこと(全項目) ・言行不一致 ・頼み事 ・金を借りる ・子供を私物化する ・自分がされたくないことを人にする ・運のない人とつきあう ・卑屈な生き方 ・自分の欠点をかなしむ ・マイナス条件を数え上げる ・知識を誇る ・嘘をつく
ー後記 ・お金を、知人から借りることは私の常識外なのだが、 以外と平気で借りにくる人がいる。 そこに甘さが、ありありと出ているのが本人には判らないのだろう。 ・「運のない人とつきあう」これも然りである。 冷たいようだが、絶対に近づけてならない。 必ず酷い目にあう。周辺の人を巻き込んでしまうのだ。 自分が不遇の時は、逆に人に近づかないことだ。 ・「知識を誇る」も、ひとつ間違えばしてしまうことだ。 この随想日記も、それに近い行為なのかもしれない。 自分の知識蔵庫として貯めこんでいるのだが、知らないうちに『誇って』 いるのかもしれない。 「随想なんて、けっきょくは自慢話でしかない」と誰かが看破していたが。 ・・・・・・・・ 2003年05月06日(火) 762, あるホームページ
たまたまネットサーフィンしていたらあるホームページに行き当たった。 先日のこのホームページのサロンで紹介したMainDish である。(これで検索を打ち込めばでてくる) 私がホームページを開いた一昨年の5月から始まっている。 毎晩の夕食は主婦なら誰もがつくるものである。 それを写真に撮り、時にレシピを載せるから素晴らしい。 2年間で20万のアクセスがあったというから、一日300〜400人が 見ていることになる。本人も楽しいだろしやる気も出てくるだろう。 見ていて、あまり興味のない私でも料理を通して気持ちが伝わってくる。 これを上手く分類をすれば「夕飯おかず事典」ができてしまう。 好きな事を楽しんで続ければいろいろの可能性が出てくる見本だろう。 このMainDishのホームページから学んだことは、何げない事の中にある ヒントとその継続の重要性である。
写真の好きな人がホームページをつくって載せたり、「子育て日記」も、 写真入で続ければ、その子供自身のよい記念としての贈り物になる。 それぞれの人が、その立場で自分を表現できる時代になったことが 情報化社会の特徴である。 私の場合は、今まで人に誤解されたしまうのが「言葉」である。 しかしこのように書くことによって、「自分にとっての本当のこと」を 「本当以前のこと」から生み出すことになっている。 自分の中のカオスー混沌から、本当のことをカタチ創っていることだ。
少し難しくなったので料理の話に戻すが、ホームページは生の自分を 曝け出す発信基地であり、曝け出す事によって自分のカオスから 日々新しい自分を対象ー料理・日記・・・を通して創り出す場にもなる。 日々続く何げない日常の夕飯が、視点の変換によって、 毎日のささやかな?社会貢献と生きがいになる。 面白い時代だ! ・・・・・・・・・ 2002年05月06日(月) 398,新潟駅前界隈ー2
ほとんどの店(飲食店)が瀕死の状態である。 止めるに止められない状態といってよい。 以前から私は個人で飲むときは、一軒目は3500円が最高限度である。 二軒目も4000円か5000円止まりである。 彼らに馬鹿にされたものだ「3500円までの男」とか言われて。
でも今は一般に3000円で9時までどう過ごすかが、 一般の飲む基準になっているという、それも週一度。 店主の役割は「客の視線で店を見なくてはならない」が、 彼らは自分の都合でお客を見ている。 殆どの店が死に瀕しても、その視線を捨てる事が出来ない。 さっさと潰れろといいたい、まさか目の前で言うわけにいかないが。
彼らに聞いた事だが、自分に生命保険をかけて失敗したら死んで 借金を返す世界があるという。 飲食の世界はまだそういう信じられない世界が残っているという? ママつきの店の売り物ー金ずるのオーナーが倒産ー そうすると、そういうオーナー探しをする世界があるという。
一回だが何処かのママに言われたことがある 「あのこオーナー探しているんだって、あんたどう?」 それが金があれば考えてもいいような絶世の美女! 違う世界の話しでしかない。
やり手のママは・実際の彼氏に・オナーに・お客数名の 男を持ち、それを鵜のように使い分けるというが? しかし意外と半数以上は真面目な実直の人が多い。 永くやるにはそうでなくては続ける事が出来ないのだろう。
以前新潟駅前を書いた文章をコピーしておく。 ーーーーーーーーーーーー H0603ゴネ社会のカラス達
ラジオで鳥学者のカラスの習性という話題の中で印象的な話があった。 “牛の出産時に、ただ対象が弱味を見せている、というだけでおそいかかり、 時には牛が出血で死んでしまうケースが多々ある。”
この新潟駅前花園地区近辺は、ゼネコン関係者の間でも鬼門になっている位、 そのカラス的習性人種のたまり場で有名の地区という。 飲食関係者とかミニオーナー達が 「自分達も何かゴネ社会でチャンスがあればタカってやろう」 とうごめいている。全く関係のないところまで出向き、口を出し?をせびる。 その為にそのカラス達は飲食組合や、町内会の役員をまずねらうという。
考えてみれば今の小物代議士(政治業界のたかり屋)と全く同じ手口だ。 今回の工事でもその代表的カラスが何匹かさわぎかけた。 但し今回は比較的うまう納まったが。 第二増築工事の時は、近隣のオーナーに停年退職期のウサを、 すべて工事妨害にたたきつけられてしまった。 (店子にあいさつに行きオーナーになかったという理由で)
隣地の工事等の妨害は相手は数十倍いや数百倍こたえる。 当然その怒りは形を変えて数倍も攻撃する事となった。 隣地の攻撃は後ほど有利になるのだ。 これがわかってないから目前の相手を攻撃してしまうのだ。
“隣地境界は絶対に攻撃してはならない” あたり前の事がどうしてわからないのか。 人間の心の中にサド的なものが、 悪魔が秘んでいると工事の度に思いしらされる。
・・・・・・・・ 2001年05月06日(日) ホームページの可能性
ホームページを開設して感じた事は自身の大きな変化の予感である。 貧しい?内面と過去の公開といってよい。 特に日記の公開のこのコーナーは恐くおもしろそうだ。 もしHP−ホームページの改良を重ねていくと、数年後はおそらく最後にコピーした 久垣啓一氏の実感に近ずくのではなかろうか。 個人の発信というのがこれからのキーワードなってくるだろう。 これに映像が加われば今の常識で考えられない世界が広がってくるだろう。 どうなっていくか楽しみだ。 −>−>−> ホームページとは (久垣啓一) ホームページは、重層的な関係の中に浮かぶ開かれた自分そのものである。 ホームページは、情報への感度を飛躍的に高める。 ホームページは、豊かな時間を演出してくれる。 ホームページは、コミュニケーション能力を高めてくれる。 ホームページは、出会いと感動の宝庫である。 ホームページは、巨大なデータベースである。 ホームページは、巨大な渦巻きの中心である。 ホームページは、どらえもんの「どこでもドア」である。 ホームページは、生きる喜びを与えてくれる。 ホームページは、家族の関係を豊かにする。
|
|
|