2001年05月24日(木)
ホームページを開いて3週の実感 今週末に‘写真日記のコーナー’ができると一応ホームページの骨格が完成だ。 パソコンを何のため使っているのかな?使い切っているのかな?と疑問を持っていた矢先 ホームページの開設を思い立ち、そのプロセスの中で他のホームページの構造とユニット をつかむ事が出来た。 自分のデータベース造り、及びその蓄積になっていくと同時にそれがそのまま外界にリンクしていくサテライトスタジオ機能を持つことと言える。グローバルに対する自己の開放である。ホームページはその表紙を語源とする。ということは大項目のデザインということになる。この数ヶ月かなり追加と変更が予測できる。 今年の新年の誓いはパソコンとインターネットとホームページをものにする事であった。 特にホームページは思ったより収穫になりそうだ。 開設の5月2日以前と以後と言うくらいのそこに大きい段差を感じる。
人生のコツ 末っ子は虐めと言う意味できついが, 反面学ぶ事が多い。 冷静に一人一人を観察しているのだ。 そうしなければすぐ虐めがくるからだ。鷲頭設計ー社長の話で 彼も大人数の末っ子だそうだが、 社長職にその立場は丁度当てはまるそうだ。 それぞれの環境立場がその人の個性をつくる。 秘境の旅行は色々な個性的な人と出会う機会がふえる。 人生の達人である。 初めは旅行に付き物と割り切ってみていたが、 とんでもない‘人生のコツの宝のやま’である。 プラス・マイナス両面である。 ネパール行ったときのある67歳の人の話で、 「身内の殆どが40代で死ぬ家系と言う。 自分も覚悟をしてそれを前提にして、その年まで総てやりたい事の すべてをやり尽くす生き方をしてきた。ところが今もこうして生きている。 それまで(40歳)に国内を総て旅行して回った。 その後世界を殆ど回ったがまだ死なない。 それより学んだことは、何事も前回しやってしまう、 そして時間を切ること」だそうだ。 もう1つのコツは、朝食にキャベツを半分微塵切りにして シソドッレシングをかけて食べる事だそうだ。 夕食も老人食の宅配食を食べてるという。 一期一会、徹して配慮をして生きることと言う事か。 青雲寮(わが青春) 私が学生時代過ごした寮ー青雲寮のことを書いてみよう 。 場所は飯田橋から都電で新宿への中間 、新宿の牛込柳町にあり 早稲田南町のバス停にも近い住宅地であった。 早稲田大学の理事の自宅の庭にあり牛小屋のような造りで、 古くきたないL字型の24〜5室の寮であった。 早稲田の学生が3分の1,あとは各大学の在学生で占められていた。 そこからは代議士(渡部恒三)や県会議員が数人ずつ出ており、 汚い棲家でもけっこう皆プライドはもっていた。 全国からの出身者のため個性的な人間の集まりであった。 今でも年数回、そこに今でも住んでいる夢を見る。 月に数回は10人位集まり酒を買ってきて飲んでいた。 誰か必ず部屋に遊びに来ている状態で、あまり勉強に良い環境とは言えないが 人間勉強という意味で非常に良かった。 自民党の総裁の鳩山一郎系のいきがかかっていた。 思いもよらない先輩がいて、よく赤坂とかあの頃の学生では行けない所に 飲みにつれてもらったりした。音羽の鳩山御殿も数回行った憶えがある。 その関係で軽井沢の友愛山荘に長期の休みにアルバイトに行ったりしていた。 そこで学生時代の大きい財産になった欧州旅行のきっかけもできた。 その寮は一緒に生活をしている事もあってか、とにかく癖が強い人間が多かった。 私生活がお互い丸見え、どうしてもアラが見えてしまう、と同時にサル山と同じ 勢力争いがあって結構それが面白かった。 ホモあり、女狂い有り、哲学専攻でいつも一人ニヤニヤぶつぶつ言っている先輩あり。 クソ真面目のいやみな先輩あり、学生運動の闘士有り、今考えてみてもかなり おもしろい寮であった。 学生時代はこの寮と武澤ゼミと欧州旅行とクラブを除いては考えられないが、 いい経験をした寮であった。私の大学の友人の間でも、この寮の存在― 特に汚い馬小屋風の寮で珍しがられていた。 父がこの寮に卒業の八ヵ月前にきて、翌月から仕送りを二倍に上げてくれた事で、 いかに凄いか想像出来るのでは。 (昭和40〜44年)
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