2001年05月23日(水)
スナックジョーカー 去年シルクロードを旅行した時、同行者がかなり知的レベルの高い人達であった。旅行中非常に厳しい環境の中で、いつも軽いジョークを飛ばしていた。それがいやみも無く気持ちを和らげてくれた。その経験から軽いジョークは厳しい人生で軽い安定剤になるものだと、つくずく考えさせられた。そのとき日本に帰ったら必ずそのセンスをつけてやろう心に決めた。そして数ヶ月間ジョークと駄洒落の本10冊以上を買い求めた。初心者のジョーク収集家になってしまった。一人手帳に書いて楽しんでいたが、公開も面白いとこのコーナーを開設することにした。笑いはその人により 千差万別経験により違う。可笑しかったら笑ってください。 いつものとうり以前書いた文章をコピーしておきます。 −H1209"笑い"について ー 笑いというと人生におけるアクセサリーのように考えられるが、実際は人間として生きるうえで、もっと根本的な問題を含んでいる。苦悩は人間の本質的一大問題である。仏様は、それを"四苦八苦"に分解してみせ、その根本的解決策を八正道とした。しかし人間はそのずっと以前に"笑い"を発見していた。そして苦悩をやわらげていた。人生は本来、思い通りにいかない、馬鹿げている、いやな事が多い。本来あるべき姿との闘争といってよい。これが苦悩となって負担となる!そこでユーモア・ジョークを創りあげ、笑いで中和していた。苦悩より生ずる精神のこわばり、このこわばりにおかしさが出てくる。これをスピーディーに指摘する。人間はスピーディーに不一致を指摘されると、おかしく笑い出す。笑いは笑う側から言えば優越感、笑われる側からいえば、その価値の下落、及至無化と関係している。われわれは優者に同一化する事により敗者を笑う。これが皮肉、悪口による嘲笑でもある。しかしこれは品性の最も低レベルの露出になる。皮肉は孤高な笑いでもある。皮肉屋は自らを高くして、自らを神の立場にして、愚者を笑う。反対にこの人間の弱さ愚かさに直面しても、これを憎まず受け入れる態度をユーモアという。笑われる対照が実はわれわれ自身でもある。ユーモアが与える心あたたまる連帯性の源は、この共犯性にある。すべって、ころんで怪我をして泣いているのが悲劇であり、その姿を第三者が可笑しくみえ、笑ってしまうのが喜劇である。同じ局面でもその立場で全く違ってくる。しかし喜劇的側面は少なくとも客観的であり、ロングショットの視点である。悲劇的視点はその苦しみしか見えなくなっている。という事は苦悩を逆に自ら笑ってしまう事のほうがプラスになる。"いつか笑える日がくるさ"とつぶやく事を忘れないなら、その日は駆け足でやってくる。笑うから楽しいのである。泣くから悲しいのである。笑いは自ら創りあげるものである。この三ヶ月間でジョークを一〇〇、駄洒落を二〇〇、頭の中にセットした。しかし、これで相手を笑わせるとなると話が違ってくる。難しいのである。当然の事ながら一つの話でも一人の人にとって可笑しいが、もう一人には全く馬鹿げている事が多い。その為にはTPOSでネタを変えなくてはならないし、それと失敗した時のフォローも考えておかなくてはならない。一つのジョークでも一つの"生き物"として自らの中で手入れをしておかなければ相手は笑ってはくれない。ユーモアは笑いを目的とせず、雰囲気を良くする事を目指し、ジョークは最後の一ひねりに、吹き出し笑いを目指す。駄洒落は聞き手に優越感の笑い(話し手を少し馬鹿にさせる)を目指すという。この違いだけでもわかっていると笑いに対する知識が全く違ってくるはずだ。
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