おまえのつまらない人生は順調か |
あちゃこちゃ忙しくやっている間に2月が終わろうとしている!
いや、忙しいといっても「24時間勤務」「一週間出張」とかはないんですけどね。どうやら考える時間に異常なエネルギーを使っているらしい。って、それは会社員だった時とあまり変わらないんだけど。
話はいきなり変わりますが、先日、二村さんが出演なすったTBSラジオの「ライフ」という番組を聴きました。 http://www.tbsradio.jp/life/2009/02/2009222part_1.html ↑ここからポッドキャストで聴けます。いや、是非聴いてください!頼むから!
わしの家は都内なのになぜか雑音ザーザーで、かなり聴き辛かったがなんとか最後まで聴きましたよ。 テーマは「草食系男子」。要するにおしゃれで内向的ギターバンドなんかが好きで、それなりにモテそうなのに、あくまで「無害」のスタンスに留まり続ける男性について、男性の方々がいろいろ討論されてました。 「自分からは女性を誘わない」「常に受身の姿勢」という点に、女性たちが怒っている!、肉食系男子(ガンガン女誘ってヤリまくる男たち)は女という「肉」を自分から狩りに行き、食っているわけだが、草食系男子たちの食う「草」って何?という話題が中心で、 最後の最後、どなたかが
「草とは、自己愛だと思います。草食系男子は傷つくことが怖いのです」
と言っておりました。
二村さんが
「セックスや恋というのは、自分じゃない誰か、他者と関わることであって、他者と関わることで自分というのは変容していくものなのだ」
と言ってて、それはまさにその通りだと思います。 私がセックスや恋をして傷ついたりするのは、「自分じゃない誰かから変容をもたらされる」ことにまつわる痛みなのですから。 で、傷つく、痛む、というと、じゃあそんな行為するなよ、という意見があるわけだけど、それでもするのは何故か。 その人になら、傷つけられてもいい、という思いがあるからだ。 あと、傷ついても、得られるもの(それは経験でもあり、愛おしさでもあり、己の弱さや脆さを知ることでもあり、結果的には強さだったりもする)があるからだ。変化を恐れていては、前に進むことができないからだ。 だから、痛みなんて受けて当たり前、と思っている。 苦しむこともしょうがないのだ。
とは言ったものの、私がかつて恋愛の渦中にあったとき、「なんで私ばかりこんなに苦しい思いをするのか」「なんで私はこんなにやきもきさせられたりするのに、あなたは涼しい顔をしているのか。ひょうひょうとしているのか」と、恋愛の対象の方につらさをぶちまけた事がありました。 そしたらその人はひょうひょうと「俺のことが好きだからじゃないの」と言ったわけで、ああ、その通りだよ、そんなことわかってらあ!となったわけですが、 その後どうなったかというと「あんたのせいで自分が自分じゃなくなるのが辛い」と言われ(ああ!その時わしも「好きだからでしょ」と軽く言えるスキルがあればよかったのに!)、最後は切り捨てられました。 理由はいろいろ思いつくし、それは自分のためだったのか、私のためだったのか、そんなことはもうわからない。 前まではホワイ何故に!?と四六時中考え続けて、頭も身も押しつぶされてましたが(未だに一日二時間くらい考えてるが)、おそらく「他者による変容」にまつわることが、この出来事の中心にあると思っています。
もちろんスタンスによって、その変容をどう捉えるか、というのがあるので、断定はできないのだけど、「こいつのせいで」というのもあるだろうし「自分のせいで」というのもあることだろう。それは対象者だけでなく、私にもある。当時、私は己の実像をちゃんと見つめていなかった。自分なんてどうでもいい、と思っている部分が大いにあった。 そんな私が頼りなく、また、痛々しく見えたことだろう。また、こんな痛々しい女に変容させられる自分がみじめにも思えたことだろう。そして、この女を変容することが自分にはできないとも思ったのだろう。すべて推測だけど。もっとほかにもあるだろうけど。 とにかく、「このままでは何もない」「ノーフューチャー」という烙印だけが、残った。 そして私は文字通り、未来のないどん底に落ちた。
が、どんなに未来がない、という場所に残されても、朝は来るし夜も来るわけで、来る日も来る日も自分に対する失望と疑問、悲しみ、後悔に明け暮れておっても腹は減るし眠くなったりするのである。 その場に留まり続けているわけにはいかないのであった。というわけで、私は己を見つめた。穿り返せるだけ穿り返した。そして脆弱な自分と、自分にないがしろにされていた自分を発見した。(じゃなくて、今まで見ないようにしていたけれど、やっと直視したのだった) で、会社を辞めた。文章を書き始めた。雇われながらバーのママをやっている、現在に至る。 当たり前だけど、未来はあった。 自分を真正面から見つめるという行為、そして、相手を責めたり、切り捨てることなく想うという行為を通して、少しだけ寛容な自分に変容したと自負しております。少なくとも当時の私とは違う。
変わったのは自分だが、変わることのきっかけとなったのは恋愛対象という「他者」のおかげだ。感謝の念が絶えません。 かつての私であれば、憎んだり切り捨てることで、その負のパワーを燃料とし、前に進んでいたことだろう。(もっと正確に言うと、負のパワーを持つことで、前に進んだのではなくその場に留まり続けたのだけど) いや、それまでの恋愛は、他者なき恋愛だったのかもしれん。肉体では関わっていたし、精神的にもちょっとは関わっていたかもしれないが、心の内側に他者を取り込んでいなかったのだろう。 そういえば昔「俺の体を使ってオナニーしないでくれ!」と怒られたことがあったが、まさにそういう感じだった気がする。恋ではなく自己愛オナニーだったのだろう。そして、それがセックスに変わることを恐れて、自分から取りやめたりしていたのだろう。
恋やセックスで得られるのは、快楽だけじゃない。むしろ、快楽の後にやってくるこういう苦しみというか試練のほうが、ずっと多い気がする。 それを「自分を阻害する害悪」として、切り捨てるのもよかろう。つらかったら止めてもいいのだ。誰もそれは責めやしないよ。あなた自身が決めることだから。あなたが決めてもいいんだよ。他人に決めてもらうことなんかない。
でも恋やセックスをして、それに伴う苦しみや試練も受けた後に、得られるものも必ずある。たぶん、そこで得られるのが「愛」なんじゃなかろうか。 そうか、愛というのは他者からもたらされるものなのね。そして愛は脱皮をするものなのだ。(最初は親から、そして次に他者から) だから愛というものは「見返りを求めないもの」と言ったりするのでしょう。
快楽や気持ちよさだけでも生きていける。他者と関わらなくても生きていける。 でも、その先をどれほど身をもって知っているかが、人間のおもしろさや、奥深さにつながっていくのじゃないのかな。そこに留まるのか、傷ついてでもその先に向かうのか、それを決めるのもあなた次第だ。 何を選んだって構わない。愛を知る相手が、誰だって構わないのだ。 あなたの人生が、あなたの思うとおり順調に進むことだけを切に祈る。心から祈る。
ただ、私には、自分で決めた以上はその道をちゃんと進めよ、誰のせいにもするんじゃねえぞう、引き返したりするんじゃねえぞう、と思ってしまう部分がまだあるのだった。そこはまだ、心が寛容ではないところだよなー。 引き返してもいいとも思うけどね。ほんと、何やってもいいんだよ。私の思うことは私という「他者」のものであって、あなたが思うことが、あなた自身の人生の指標なのだから。こんな意見、聞かんでもいい。(でもラジオは是非聴いてくれ)
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2009年02月27日(金)
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