股・戯れ言
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この世でいちばん欲しいもの

神社やお寺、道端のお稲荷さんとかお地蔵さんを見ると、極力手を合わせてお参りするように心がけておるのですが、
ここ最近は
「神様!わしに自信をください!」とか
「わしが自信を持てるように見守っていてください!」とか
を念じております。
自信というのは内側からあふれてくるものなので、神頼みしたところで出てくるわけじゃないのだけど、とにもかくにも自信が欲しい。
何回か前の日記に「自分は何が欲しいかわからない」と書いたばかりだけど、
欲しいものをちゃんとわかってるんだな。
自分に対する信頼。信用。そいつが喉から手が出るほど欲しい。
半年前に比べて、自分に対する信用はだいぶ持てたと自負できるのだけど、それでも「何かをした時、きっと自分は思い通りの結果を得られなくてがっかりしてしまうだろう→だから行動しないで我慢だ我慢」なんてのを思ってしまうということは、やっぱり自信が足りないのだと思う。

いや、でもそれって本当に自信の問題なのだろうか?
がっかりしてしまうことに耐えうる精神力って、自信とは違う気がする。
私が欲しいのは自信じゃなくて、何事にも動じない精神力なのか。

いやいや、がっかりしてもいいのだ。
胸をギュウっと締め付けられてもいい。
ハラハラしてもいい。あまりの辛さに涙を流してもいい。
そんな私も受け入れる覚悟はあるから。
思いっきり自分を解放してあげることはちゃんとできるから。


そうではなくて、私が今一番欲しいのは、人を信用する心なのだと思う。
前回の日記でどうせどうでもいい人間って思われてるしねー、まーいいけどねー、などと書きましたが、本当はそう思われていたくないと思っていますよ。
私が好いた人はそんなことを思う人じゃない、と信じたい気持ちでいっぱいだ。相手はそんな風に他人を思う人じゃないって、わかっているよ。
誰よりもよーくよーくわかっている。

でも、わからなくなってきてるのだ。
じゃあ今なんでこうなっているの?って思ってしまう。
そしてそれは、もう、一生わからないまんまなのだ。
あまりにも遠い隔たりができてしまったがゆえに、もしかしたら私は、相手のことは何もわかっていなかったのかな、と不安に駆られてしまうのだ。(と、いうことはやっぱり自信がないということか)


あと、信じてしまうと、期待してしまうのだよな。
信じることと期待することがセットになってしまっている。
これは長い間の習性だろう。信じているけど、期待しない、という作業は本当に難しい。エレクトーンで右手と左手と足を同時に動かすくらい難しい。(エレクトーン実は15年くらい習ってました)
難しいけど、練習すればできることだから(このわしにもエレクトーン弾けたくらいだからな!)、期待しないで信じるということを続けてみようかと。
今はそう思っております。
とてつもなく広い心を持つことが大事なのでしょうけれど。
想像を超える忍耐力を要求されるのでしょうけれど。
そして、途方もなく長い時間が待ち構えているのでしょうけれど。
神様、どうか見守っててくださいまし!


2008年11月04日(火)

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