モリゾープレイバック90 |
モリゾーさんが生まれたのは1914年のこと。
1914年というのは第一次世界大戦が勃発した年らしいが、この頃は第一次なんて頭文字はついていない。その時代の人は第二次世界大戦が起こった時はきっと、「第二次かよ!」と突っ込んだことだろう。知らないけど。 上野では東京大正博覧会なんてものが開かれ、日本初のエスカレーターがお目見え。東京駅も開業し、明治に花咲いた文明開化もたけなわの時代であったことだろう。カチューシャかわいやわかれのつらさ〜、という「復活」の歌がかつて日本で流行ったらしいというのは私も「復活 文庫版」の解説で読んだことはあったが、ちょうどこの年のことであったようだ。 なんて感じの1914年、すなわち大正3年。モリゾーさんは7人兄弟の末っ子として埼玉の奥地に生まれたわけである。 兄弟が7人もいるわけだから、モリゾーさんが生まれた時には大分年上の兄さんや姉さんがいたんだろう。 モリゾーさんが9歳の時、おそらく小学校に通っていたんだろうけども、大きな大きな地震が起こった。東京のほうの山を見ると、山の向こうが真っ赤に燃えていたらしい。モリゾーさんの家は埼玉の奥地だったから火災などの難は逃れたようだ。
その後、小金井に出ていった兄弟を頼って東京に出てきた。昭和の初めのことである。 時代は戦前の日本。軍国主義もたけなわな時だったのだろうが、そんなことよりも東京に出たくてたまらなかった。モダンなものに対する憧れが相当強かったらしい。 兄さんの一人が建築事務所を開いていたようで、そこを手伝いながら夜学で大学に通い、建築をおぼえた。そんな技術の腕を買われたのか、志願したのかはわからないのだが、軍の技師助手として中国へ。 上海や満州を5年ばかり転々とする。 技師だったので徴集されずに済んだという強運の持ち主でもあった。 単に身長が足りなかったのかもしれないが。 終戦前に帰国し、小金井から高円寺に移り住んでいた兄さん達を頼って高円寺に住む。 この時、高円寺の下宿の向かい側の家に住んでいた娘さんと出会って、お見合いをして結婚。 モリゾーさんが30歳の時だった。当時にしては遅い結婚だったかもしれない。
兄さん達の家の近くに土地を買い、建築事務所を開こうかとも思ったが、ほかの兄さんの食料品を買い付ける仕事(ヤミ市とかのために買ってたんだろうか?不明)を手伝うことになってしまい、建築事務所の話はオジャン。 毎日、高円寺からチャリンコで築地まで出かけ(!)食料品を仕入れるのに精を出していた。 この買いだしの間に腰を悪くしたようだ。 モリゾーさんは末っ子だけど、兄さん達思いだったのだな。そして人一倍シャイで口数も多いほうではなかったので、一人だけ大学に行っちゃったことなどで態度をでかくしたりはしなかった。 自分の土地に掘っ立て小屋を立てて食料品屋を営んでいたが、区画整理で区に土地を持ってかれちゃったりする。 そして、やっぱり建築士の免許も持っていたし、それなりに自分の建築したものを残したかったのかもしれない。いや、単に建築費を浮かせるためだったのかもしれない。とにかくそんなわけで新しい家を設計して、見事に建てたのだった。 新しく建てた家で再び店を開く。乾物屋であった。
モリゾーさんは新しいモノ好きだった。 だから、自転車にしてもカメラにしても8mmにしても手に入るようになったらすぐに購入してたしなんだ。 中国滞在中はギターも弾いた。「モダンだなぁ」というのが口癖だった。 機械いじりが好きでギターが好きでカメラが好きで、そのうえ自己主張控えめだったというのは、かなり男子度が高い人だったのだろう。結婚も遅かったし、ヘタすりゃ今で言うD.Tの域だったのかもしれないな。
若いうちに戦争だの外国生活だの食料買いだしだのいろいろ経験したからだろうか、60を過ぎたあたりから乾物屋もいつのまにか駄菓子屋に転身。 そしてモリゾーさんは店先でひなたぼっこを楽しむ身分となった。 店先にはビニ本販売機が置いてあったり、スタンドで普通にエロ本を売るというかなり教育によろしくない駄菓子屋だったが、モリゾーさんはそんなことおかまいなしに毎日、毛糸の帽子をかぶりながらニコニコと店番をやっていたのだった。
駄菓子屋のおじいちゃんになってから、階段から落ちて何度か入院。 リハビリのためになぜかバイオリンを始めた。 「おじいちゃんはもうボケちゃってるから」と言われていたが、話しかければ普通に受け答えをしていた。ぼけちゃっていたのではない。元々口数が少なかったのだ。 もう危ないかも・・・と言われ続けてから10年以上平穏に暮らしていた。 モリゾーさんの人生は前半スパートをかけていたけど、後半はクールダウンだったから長く続いていたのだろう。
そんな具合に2005年。モリゾーさんは90歳になっていた。
日本は懲りもせずにまた戦争に兵を派遣したりしていたので、昔の戦争を知っている人だったら「まだやってんのかよ!」と突っ込んだとこだろう。
今年の冬は寒くて、モリゾーさんはちゃんちゃんこと毛糸の帽子がなかなか手放せなかったけれど、3月も中頃になり、外が陽気になってくると散歩に出かけたりもするようになった。 もう少ししたらもっと外に出ようとも思っていたのだけれど。
ある日の晩ご飯に、マグロのぶつ切りを食べたのだった。 マグロは堅くなかったけれど、90歳のモリゾーさんには堅い食べ物だったらしい。 あっという間に喉に詰まってしまって、コロッと逝ってしまった。 あんまり苦しまないで逝けたようだ。 自分の作った家で天寿を全うできたようだ。
それが私の祖父、モリゾーさんの一生。
私はじいちゃんに何もしてあげられなかったな。ごめんな。 うちのターミネーターこと妹は、じいちゃんの写真好きの血を隔世遺伝で継いだみたいだけど。(って私もいちおう腐れエンジニアなので、技師という点では受け継いだのかもしれないが) ああ、私はじいちゃんの行った場所に行ってみるとしよう。 その人生を旅してみよう。
と思っていた矢先に、会社から日帰り出張が命じられる。 場所はなんと、じいちゃんの生まれ故郷である埼玉の奥地。ちょうどじいちゃんが逝っちゃってから一週間後のことだった。こういうことってあるんだな。 というわけで作業の合間を縫って、じいちゃんが見た山々などを見てみました。 あっちの山の向こうが真っ赤だったのかもしれんな、などと勝手に想像してみる。 幼い頃のモリゾーさんもおおむらさきを追ったりしたんだろうか。 私は遠出をすると、いつも頭の中に「遠くへ行きたい」を流れさせるのだけれど、この時ばかりは頭の中を「ふるさと」が流れたのであった。
♪ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
ああ、この曲が流行ったのもちょうど1914年のことらしい。
それじゃあ次は上海に行くかな、私は。
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2005年04月08日(金)
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