あれから1年が経ちました
1年前の今日は、そう、坊の3ヶ月検診で 集団検診の会場がものすごく不便な所で、両親に一緒に来てもらっていました そのためにチャイルドシートまでレンタルして
検診を受け、「首すわりはもうちょっとだね〜」なんて言われ、 BCGの予防接種を打って、裸ん坊のままハンコ注射を乾かして、 そろそろ洋服着て帰ろうか、なんて瞬間にあの大地震が起きたのでした
服を着せようとベビーベッドに寝かしていたので、ワタシはとっさに覆いかぶさり、 足元では母がしゃがみ込んでうずくまってた 100人位いるかという赤ちゃんが全員一斉に号泣 パニック起こしたお母さんたちに 「ここは役所だから、頑丈だから大丈夫だよ!」なんて言ったりした 建築基準法的に耐震基準が厳しいはず 保健所の職員たちも飛び出してきて「建物内は安全ですから落ち着いて!!」なんて叫んでいた
でも実感として、とてもそうは思えないほどの長い長い揺れだった 揺れているさなか、外に車停めていた父が「だいじょぶか!!」と飛び込んできた ワタシは冷静を装いつつも、足がガクガク震えながら坊に必死に服を着せていた ベビー服はボタンが多くてうまく着せられない 途中からワケが分からなくなり、とにかくバスタオルにくるんで抱えて建物を飛び出した つながらないケータイと、目の前の公衆電話で必死に夫に連絡を取った 10分ほどで無事を確認し、浜松のお義母さんにもみんなの無事を伝え、家に向かった
道中また大きな余震があった ちょうど246の陸橋の上で、もんのすごい揺れた 坊はおっぱいから離れなくて、ずっと必死であむあむしていた ワタシの精神安定にもすごく助かった
家についても、中の様子を見るのが怖くて入れなかった 父に見に行ってもらうと、予想外に何一つ壊れていなく、傘が1本倒れていた位だった 耐震対策は出来る限り尽くしていたのが功を奏したようだった
TVをつけると、津波が押し寄せている映像が飛び込んできた 怖くて怖くてとても見ていられない ほどなく夫が帰ってきてくれた たまたま家の近くに外出していたらしい 会社に向かおうとするのを必死に引き止め、頼み込んで家にいてもらった
その後連日余震が続く中、原発がやばくなってきて、 ものすごく悩んだ上、両親と坊と4人で3月15日に浜松へ避難した 夫は仕事上震災対応で不眠不休の日々だったし、ワタシの心細さもピークだった 浜松に来て、ホントに精神的に落ち着いた 夫も仕事に専念でき、お互いにとってベストの選択だったと思う
あれから1年 今でも夫と別の暮らしをしていることに、時々これでいいのかと自問する もうトーキョーに帰ったほうがいいんじゃないかとか 夫の健康も気になるし、父子の関係も気がかりだし
でも坊はこちらで伸び伸びと遊び、お義母さんも楽しそうで元気になった 演歌を聴きながら踊ったり、同い年の親戚や友達もたくさん トーキョーでは友達どころか遊ぶところもままならない 子育て環境は雲泥の差
この1年で、ワタシ自身価値観がものすごく代わり、 もう今まで通りの思考が全然できなくなってしまった おかげで、以前と同じテンションでこの日記も書けないし、 友人関係とかも、なんだかな、うまくつきあうのが難しくなってしまった
困ったなあ 困ってるんだよ いちおう 例えば釣魚を食べるか、なんてことひとつ取ったって、 もう以前のように気軽に話題にできないようになってしまった そういうのって山ほどあると思う 正直に言い過ぎると傷つく人がいる、と思うと、もう本音なんかどこにも言えないんだよ これは多かれ少なかれ、被災者みんなの共通した状況だよね どうやって乗り越えたらいいんだろう 時間が解決するのを待つしかないんだろうか
ただ、今ワタシができることは、自分と家族をひたすら守ること 情報が異常に信用出来ない状況であることをふまえ、自分の感覚を研ぎ澄ませ、その信念を貫くこと これに特化するしかない
-------------------
過去の今日の日記
2010年03月11日(木) 2009年03月11日(水) 日カメさん 2008年03月11日(火) はまりんへの処方 2007年03月11日(日) 水槽撤去 2006年03月11日(土) 花栓 2005年03月11日(金) ありえん 2004年03月11日(木) 就活中
|