悲しい奇跡 - 2002年02月25日(月) ある方の掲示板に、ぶつかり合わなくても良いほどに 言語感覚が似ている人と出会える事は、奇跡だと書いた。 それも、悲しい奇跡。 私は一度だけ、そういう人と一緒にいた。 最後の恋人、白さん。 言葉だけじゃなく、言葉の間、いい回し。 その全てが言葉と同じように意味を持つ。 それは、お互いがその「言葉ではない言葉」 に持たせた意味が似通っていたから。 思いと反対の言葉を書く。 いい回しで、反対だよ。と囁く。 奥さんの隣でPCを使う白さんには実質的にも必要だったのかもしれない。 ささやかな行間、文字の間。 二人とも顔文字をつかわなかったから、完全に文字通信。 まーさんと使えば短過ぎたiモードの250文字を 白さんとのメールで短いと思ったことはない。 だけど、その感覚は時に鋭敏過ぎて疲れるときがある。 敏感だからこそ、優しく包んでくれるときもあるけれど。 言葉の鈍さに辟易するとき、 それをさびついたドアを叩き続ける痛みとするなら。 鋭敏な感覚で受けとめる言葉に胸が痛むときは、 ピンポイントで襲いかかる深い深い針の痛み。 痛みごと、私は白さんが好きだった。 多分なにより。その言葉を使う彼の心が。 好きだけど、疲弊した。 不倫の恋は多分、鈍いほうが楽だった。 単語に込められた彼の痛みが苦しかった。 多分、彼もそうだった。 それで、白さんと別れた。 まーさんは、穏やかだ。 ドアを叩きつづけて手が痛むことも多いけれど、 私には多分、張り詰めないですむほうが向いている。 彼には言葉は記号でしかない。 その速さ、間、そして選びかたで大きく変わると実感することはないだろう。 それでも、私は時々甘い傷として白さんの言葉を思い出す。 今でも白さんとメッセンジャーで話すのは後ろめたい以上に、 張り詰める行為だ。 「また、逢いたい」 って気持ちが浮かび上がりそうな言葉を一つ一つ消しながら話すようだから。 -
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