Opportunity knocks
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2002年09月01日(日) 創作

そうやって読みかけの本を伏せる癖、やめたら?
肩を並べて、ふたりであてどもない読書をしているとき、彼はしばしばわたしにそう言った。彼は本をとても大事に読む人だった。そういうことに無頓着なわたしは、よく言われたものだ。
確かに本をふせるのはよくない。本が痛むというのもわかる。
よくないとわかっているのだけど、気がつくとまた読みかけの本をふせてしまう。
そうすると彼が言う。また、ふせてる。本は大事にしてあげなきゃ。
わたしは、不承不承本を拾い上げ、どこかに仕舞いこんであったしおりをひっぱりだし本の間にはさむ。それを見て、彼はにっこりと微笑む。


部屋には大きな本棚がふたつある。ひとつはわたしの本が入っていて、もう1つは彼の本が入っている。壁一面に隙間なく2つの本棚が並んでいる。部屋には本棚以外ほとんど何も置かれていない。わたしたちはよく反対の壁にもたれて本を読んだ。ひとりで読むこともあれば、ふたりのときもあった。言葉を交わすでもなく、意見を言うあうでもなく、わたしたちは別々の本を読み、別々の世界を自身の頭の中に構築していた。それはそれで満ち足りた時間だった。そういう時間を誰かと共有できることはこの上ない幸せと安堵感をわたしに与えていた。そう、わたしはしあわせだった。
わたしの本棚にはほとんど英米文学の本が並んでいる。スコット・フィッツジェラルド、ウィリアム・フォークナー、スウィフト、ポール・オースター、アーウィン・ショー・・。彼の本棚には、主に歴史小説や、古本屋などで集めた珍しい初版本などが彼の性格そのままに生真面目に並んでいる。わたしの本棚はそれに比べて乱雑きわまりない。本が横になったり縦になったりしてひしめきあい、ぱっとみただけではどこにどの作家のものが仕舞われてあるかわからない。本の表紙はすりきれ、ところどころ破れているものもある。
彼はよくそんなわたしの本棚をみて、感心とも呆然ともつかない溜息をつきながら言った。
「まったく、君そのものを表してるね、この本棚の中身・・。」
でも、わたしはわたしなりに本を愛していた。本それぞれに思い入れがあったし、
自分なりに大事にしていた。彼は一度読んだ本は読み返さず、大事に本棚に仕舞いこむ人だったが、わたしは気に入った本は何回も読み返した。表紙がすりきれるくらい、何回も読んだ。子供の頃から繰り返し読んでいる本もある。いつでも読めるように常にバックの中に入れて持ち歩いていた本もある。そんなふうにしていつも身近に置き、痛もうがすりきれようが構わずがむしゃらに読む、それがわたしのわたしなりの本への愛情だった。彼はそんなわたしなりの本へのアプローチを理解してくれていたと思う。もうちょっと大事にしてあげたら?とは言っても、決して非難がましいことは言わなかった。
その彼が今年の春、突然交通事故で死んだ。
信号のない交差点を渡ろうとしたところを、余所見をしていたトラックの運転手にひかれたのだった。うそみたいなほんとうの話だった。病院から電話があったときも、集中治療室でしだいに息が細くなっていく彼の姿を見ていたときも、わたしはそれが本当のことだとは思えなかった。現実が遠のき、何もかも虚構に見えた。
彼の体が焼かれ、ひとかたまりの灰と真っ白でからからに乾いた小さな骨だけになってしまったときも、わたしはうまくその現実と向き合うことができなかった。涙だって出なかったのだ。
わたしたちは身よりのないもの同士だったから、お葬式もほんのまわりの近しい人達だけですませた。何もかもがあっけなかった。
あっけなさすぎて、彼がこの世に存在しないということがよくわからなかった。
どこか遠くへ仕事か何かでいってるだけのような気がした。
彼の身のまわりのものは、ほとんどそのままにしておいた。服もはぶらしも茶碗もカップも、枕もスリッパも。そうしていれば、また彼がもどってくるような気がしたから。
そんなことはありえない、と、心のどこかで誰かがいっていた。彼は死んでしまったのだ、ひとかたまりの灰と、小さな骨だけになってしまったのだと。もうもどってはこないのだと。でもわたしはいつか彼はもどってくるのだ、と思うのをやめられなかった。そんな分裂した感情をわたしは持ちつづけ、そして疲れ果てていた。
じわじわとした暗い影はわたしを凌駕し、包み込み、どこか遠い場所へわたしを連れていこうとしていた。


初秋の穏やかな午後のことだった。
玄関のドアベルがなったので出てみると、宅配便の人が立っていた。
「お届け物です」
その人はそういって小さな紙包みをわたしにくれた。
宛名をみると、彼の名前が書いてある。小さな長方形の包み。ちょうどハードカバーの本くらいの大きさ・・。ハードカバー?、…本。
包みを破って中をみてみた。
中には1冊の本が入っていた。一緒にメモ用紙みたいなものが同封されている。
「…さま。先日ご注文の本がようやく入荷致しました。長い間お待たせして申し訳ありませんでした。今後もご注文、ご要望等ありましたら、いつでもお申しつけ下さい。・・書店」
それは彼がしばしば口に出して、手に入れたいといっていた本だった。
あちこちの古本屋へでかけ、ずっと探していた本だった。
わたしは彼の口から何度かその本のことをきいた覚えがあった。
「…すごく美しい本なんだよ。深い臙脂色の布張りの本でね。ずっと前に絶版になってしまって、数がすごく少ないんだ。うん?・・ああ君の興味を惹くような本じゃないよ。ある科学者のことを書いた本でね、1930年頃の話さ。僕はそんな本が好きなんだよ。世の中のあり方やその時生きていた人のことがありのままに書かれているような本。おとぎばなしや、とてつもない空想の世界なんか、僕にとってはあまり意味がないんだ。本当の話、事実、史実、ひとつなぎになっている歴史世界、そういうものに僕はひかれるんだな。君が、「ラスト・タイクーン」の古き良き30年代に惹かれるのと同じようにね…。」
彼はそんなふうにこの本のことを話していた。
しばらくしてわたしは送られてきたその本のページを捲った。
午後の柔らかい光が部屋の中に満ちて、そして少しずつその光を失っていくのを感じながら、ただ読みつづけた。
読みながら、ほんとうに久しぶりにわたしは泣いた。壊れた蛇口から流れる水のように、涙は後から後から頬を伝って流れ落ち、本のページを湿らせた。
何でわたしがこの本を読んでいるのだろうと思った。この本を読んでいるのはあの人のはずなのだ。わたしは、嬉しそうな笑みを口元に浮かべ、子供のように目を輝かせながらこの本を読む彼の姿を思い浮かべた。
でも、この本をずっと読みたがっていたあの人は、もうどこにも存在しない。ページを捲る指、文章を追って動く瞳、満足そうに微笑む口元、そのすべてはもう永遠に失われてしまったのだ。ようやくわたしは理解した。
彼はもうどこにも存在しない。

 わたしは結局3日かけて、その本を読み終えた。確かにわたしの興味のひくような本ではなかった。ところどころ読みづらいところがあったし、意味がよくわからない部分もあった。
でも、そんなことはどうでもよかった。ただ読むだけでよかった。わたしは読み終わったその本を、彼の本棚の中に仕舞った。
これからどうやって生きていけばいいのだろう。本を読み終えてわたしは思った。
彼はもういないのだということ、一人で生きていかなくてはならないのだということ、それらの事実をようやく受け入れたばかりだった。
壁一面の本たちを前にしてわたしは途方に暮れた。
そしてとてつもない孤独を感じていた。



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