Opportunity knocks
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2001年12月18日(火) 北條民雄の短編について

ここずっと、北條民雄という人の短編集を読んでいる。

北條民雄は17歳でハンセン氏病(癩病)に罹患した後、
24歳で亡くなるまでいくつかの優れた小説を書いた人である。
彼が書いたものは、当時親交があった川端康成氏を通して文壇に
発表され、高い評価を得た。
癩患者はその当時、社会から隔離され収容所ともいうべき劣悪な
環境で入院生活を送っていたらしい。北條民雄が書いた原稿も
常に療養所関係者の手によって検閲され、不適当と思われる部分は
伏字にさせられ、削られた部分も多くあったとのこと。
文章を読むと、癩病という病気がどんなに恐ろしいものであるか
ということが、よくわかる。例えばこんな文章。

「その時、とたんに風呂場の入り口の硝子戸があくと、腐った梨のような貌がにゅっと出てきた。尾田はあっと小さく叫んで1歩後ずさり、顔からさっと血の気がひくのを覚えた。奇怪な貌だった。泥のように色艶が全く無く、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われる程ぶくぶく膨らんで、その上に眉毛が一本も生えていないため、怪しくも間の抜けたのっぺら棒だった。黄色く爛れた眼でじろじろと尾田をみるのであった。中略・・・どれもこれも崩れかかった人々ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形のようである。」
これは、北條民雄自身がはじめて癩病棟に入院することになった初めての夜のことをもとに書いた短編の一部である。 それからこんな文章。

「尾田さん、あなたはあの人達を人間だと思いますか?」
佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。
「ね尾田さん、あの人達はもう人間じゃあないんですよ。人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません。」佐柄木は思想の中核に近づいたためか、幾分の興奮も浮かべていうのであった。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなのです。僕のいうこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったのです。ただ生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。何という根強さでしょう。誰でも癩になった刹那にその人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼をもつとき、癩者の生活を獲得した時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか考えてみて下さい。ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。」

この短編は、北條民雄がはじめて癩病というものと向き合った時期に書かれたものである。生への強い肯定(佐柄木)と生きることの絶望感(尾田)がせめぎあい、懐疑と希望が常に入りみだれている。北條民雄は実際に何度か自殺を企てた事もあり、その両者(生への肯定と否定)は、彼の文学の大きな主軸になっている。
彼の短編を読んで、生きることについて真剣に考えた。
人間は何のために生きるのか。 幾度の苛酷な辛苦を乗り越えてまで何故生きようとするのか。なぜ起きあがろうとするのか。
死にとりつかれながら、なぜ生に執着するのか。
当然のことながら、答えはでない。死の間際にたたされたものでしか、その本当の意味はわからないのだろう。ただ彼の小説を読んで、考える機会が得られたと思う。そのことだけでもわたしにとっては得がたいことだと思うし、読書という行為自体にすごく大きな意味をもたらしたような気がする。


わたしが読んだ北條民雄全集は実は、来週のスクーリングの講義で取り上げる教材として大学から送られてきたもので、始めはこんな作家きいたこともないし退屈な本だったらいやだなあ、なんて思いながら予習の意味で読み始めた。
今日の日記は、こんな小説を読んでいるということをさらっと書くつもりだったのに、つい力が入り長々とかいてしまった。それだけこの小説に深く入りこんでしまった、ということだろうと思う。すばらしい文章にであえたことに深く感謝。


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