なにげなく時計台を見上げると、長針と短針が2つとも重なって、ちょうど真上を指していた。カーステレオのFMラジオからは、正午の時報。
奇跡だ、と思った。というのも、ここの時計台の時計は、時計台の時計というシンボリックな立場にありながら、いつもでたらめな時間を指し示しているからなのだ。もしかしたらコートダジュールかどこかの時間を指していたのかもしれないが、分針も違っていたことから、それも怪しいものだった。
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帰り道、再び時計台を見上げてみると、奇跡の理由はすぐにわかった。時刻は午後8時を少し回っていたのにも関わらず、時計台の針は、相も変わらず12時のままだったのだ。
皮肉なものだが、時計台の時計は、時計として生きることを放棄してはじめて、一日に二度、正確な時間を指し示すことができるようになった。一度たりとも正確な時間を告げたことのない時計だから、ともすればささやかな進歩のようにも思えてしまうけれど、しかしこれは退歩以外のなにものでもないだろう。
また以前のように時を追いかけてほしいと思った。たとえ追いつくことができなくとも。
シュガウェーブ 卯瑠寅