TOI,TOI,TOI!
ライナー・ホフマンという先生は、この学校のピアノによる室内楽とリート伴奏の教授。 この先生のレッスンは本当に素晴らしい。彼なくして今回のディプロムはありえなかった。 彼はもう60を過ぎていて、今教えている生徒が皆卒業したら退職する予定だ。
Mに誘われ、私は去年の春からホフマンのレッスンに通いはじめた。Mはホフマン弟子ではないのだが、その割にはかなりたくさんレッスンをいれていただいた。 曲はまずシューマンのa-moll、モーツァルトをホフマンに習いたかった私の希望でモーツァルトの1番kv301、そして15番kv526、そしてMの試験の為にブラームスのソナタd-mollをやった。
フォーヒャルトとはまったく違う角度からのレッスンなので、ホフマンのレッスンは私にとって必要不可欠であった。すごくたくさんのことを学んだ。
年末から、Yの希望で私の試験の為にもレッスンをしてもらえることになった。 モーツァルト454とシューベルトのロンド。 特にシューベルトのレッスンを”リートのホフマン”から習えたことは、非常に価値のあることだ。
シューベルトという人は人生一度も幸福を味わうことなく、恋愛にも成功せず、家庭を持つこともなく(実は同性愛者だった?)、ちっとも儲からず、暖房すらない寒い部屋でひっそりと暮らしていて、病気になり、31歳で亡くなった。
その短い生涯のうちに書かれた600以上のリートを、のちにこれだけ皆に歌われるようになり、歌曲王シューベルトなんて呼ばれるぐらいになるなんて、生きているうちは考えもしなかったんだろうな。 だって当時は、ドイツのボンからやって来たベートーベン様が貴族のパトロンになって大活躍していたんだもの。たまたま運悪く同じ時代に同じ市内にシューベルトがこっそり生きてたなんて、切ない。
でももし仮にシューベルトが、皆に認められて不自由なく裕福に過ごしていたら、あの胸の痛くなるような歌や曲じゃなく、もっと違うタイプの曲を書いたかもしれないし、ベートーベンだって、耳がずっと普通に聞こえてたら、晩年あんなに内面的な曲をたくさん書かなかっただろう。
ホフマンは言った。 「この曲を書いたのは死ぬ2年前なんだよ。もう完全に死に向かう病気の中でこれを書いていたんだ。
悲劇的な現実。でもそれに対して彼は戦っている。病気に対して。悲劇に対して。 この甘い旋律ですら、フレーズの終りにはもう『哀れみ』に変わってしまっているよ。 戦って戦って、行く先に希望を持ってみるけど、でも結局その道はいつも間違い。 あきらめずに探すけど、出口は見つからないんだ。 ポジティブに挑戦した分、とことん失望するんだ。」
冬の旅を聴いてみようと思ったのは、この話にすっかり心を奪われてしまったため。冬の旅が書かれたのは、死ぬ1年前。ミュラーという詩人は当時無名だったのだ。その無名の詩人の書いた詩に曲をつけた。おかげでミュラーは今、冬の旅のおかげで名を知られてるではないか。これこそいかにもシューベルトだ、と思う。
二年前にバイオリン曲を書いたというのはいったいどういう心境だったのかなと思う。なんにせよ、普段は歌曲を書いているシューベルトが書いたバイオリンの曲には、やっぱりたくさんの『言葉』がつまっている。 悲劇、闘い、病気、哀れみ、希望、道、探す、そして失望。
このシューベルトのロンドhーmollだけど、実は残念ながらそこまで弾かれる機会は多くない。ホフマンも「難しいから誰も弾かない。コンクールの課題にはなるけど。」と言っていた。 ただ聴いたり弾いたりすると、本当にわけがわからない曲だ。妙に長いし理解しにくい。彼はいつか誰かに演奏されることを意識せずに書いて、書き出したら止まらなくなって、結果書きすぎたんではないか、と最初は私も思った。 でも違う。めちゃくちゃいい曲だ。もっと知られて欲しい。
もうこの曲は、去年すでにクラスで毎週連続3回弾いたし、そのときは「もういい・・・」と思っていたんだけど、去年の7月頃、フォーヒャルトと試験のプログラムを考えてたとき、「ロンドは弾かなくてはだめ」とこの曲が一番に決定した。私は正直、まだやるの?と思ったんだけど、ホフマンに見せてみて、この曲の良さを知ることが出来たのはすごくよかったと思う。で、弾いて本当に良かった。
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