私の名前はあまつばめ。 〇〇〇〇という人間の中に住んでいます。 こいつは年がら年中
笑って 怒って 踊って 眠って 泣いて 歌って 憎んで 悩んで 騒いで 和んで 呆れて
悲喜こもごも、百面相をする奇妙なヤツです。 人に伝えるのがへたくそなくせに、いつも誰かに伝えたがってます。 今日も巣に帰った私をつかまえて話をしたがってます。 そこのあなた。 そう、あなたですよ。 他にいないでしょ? 代わりに聞いてやってくれませんか、こいつの話を。 私は疲れたので寝たいのですよ。 じゃあ、任せましたよ。
<一人称> 文字の上では『私』と表現している。たぶん、これが一番しっくりしていて使いよいからだと思う。 生活の中で、『私』のことをなんと呼んでいるのだろう。思い返してみた。
・・・『僕』 ・・・『自分』 ・・・『俺』 ・・・『私』
いろいろ使っている。 考えてみれば当然だ。
『僕』のとき、下の存在ということを相手に示している。幼く感じさせてあいての庇護下にあると思わせたいのだ。 『自分』のとき、型どおりのことを感情なくやっている。苦しいとかつらいとか感じたくなくて『自分』の殻に閉じこもっているときだ。 『俺』のとき、とにかく優位にたちたがっている。言葉だけでも大きく見せて相手を脅している。
人が人に接するとき、仮面で本当の顔を隠すという。 それは素の顔が傷つきやすく、それ以上に傷つけやすい性質を持っているから。 ハリネズミたちが寒さに震えていても、身を寄せてあたためあえないように、近づき過ぎないように一定の距離をとるように。
私の本音に近い姿は『私』だと思う。 『僕』『自分』『俺』その他色々も間違いなく本音を言っている。ただ、誰かに気に入られたくて節操なしに媚びている部分がある。そういう態度をとっているほうが敵は少なくなるし、楽に生きられる。 洋服をかえるように人に合わせて態度を変えるのが上手な生き方だろう。
『私』を使うとき、思っていることしか言わない。 仮面をはずしているから、嫌な部分が跳ね返ってこない。 キザだけど、人に散々言われるけど、『私』に嫌われたくないから。 『私』に媚びている『私』。
一人称はたくさんありすぎて面倒だ。
<かっこいい> かっこいい人ってどんな人? 考えてみた。
正義のヒーローはかっこいい。それはやっぱり正義だから。 悪の親玉もかっこいい。それはしっかりと悪だから。 考えている人がかっこいい。それは真剣な表情だから。 笑っている人ってかっこいい。それはあたたかくしてくれるから。
結論は 『何かしている人』=『かっこいい』
<名> どのくらいだろう。本当の名前で呼ばれることは。 生まれたときに親から名前をもらう。 仮に男の子、『山田太郎』としよう。
幼児のとき、『太郎ちゃん』って呼ばれる。 10年経つと、あだ名で呼ばれる。 さらに10年経つと、山田さん。。 結婚すると、山田さんちのお父さん。 子供が大きくなると、山田のおじさん。 ちょっと進むと、山田のおじいちゃん。 たくさん経って、山田のご先祖様。
結局、『山田太郎』と呼ばれるのは、どのくらいかな?
<狂歌:苦しむ>
狂人は 苦しむことを 忘れ去り ただ苦しむは 普遍の人なり
<死者への冒涜> いろんな人が毎日生まれ、そして死んでいく。人間にいえる確実なことは死亡率が100%だということくらいだ。だから人にとって死というものは逃れることができないものなのだ。 死んだ人に対して心ないことをすると周囲の人間はわめく。まあ、今の世の中に信長みたいに墓前に灰を投げつけるようなことは無いかもしれないが、にたようなことをしている人はいる。金持ちが死ぬと縁遠い親戚や見知らぬ金貸しがわいて出る。生者の欲望が死者を冒涜している。 実をいうとこんな場合でなくても私たちは恨まれても不思議じゃないことを平然としている。 葬式帰り、家に入る前に塩で身を清めているだろう。清めるというのは汚いものを取り除いてきれいにすることだ。最期の挨拶をすることが汚れた行為だというのだろうか?死というものを汚いものとしているのだろう。本当に霊がいるとしたら、自分のことを汚いもの、腫れ物のように扱われることに怒りを覚えるのではないのだろうか? 必要以上に恐れ、汚く思う無自覚の私たちと自覚して行う冒涜とどこに違いがあるのだろう。幸か不幸か、死者は糾弾しない。
<悩み> 君が悩みを他人にうち明けるとき、すでにその答えは君の中に出ているのだよ。 君はただ、同意が欲しいだけなのさ。 本当に悩んでいるのなら、何について悩んでいるのかがわからない。 悩みの輪郭がわかれば、おのずと答えの形も見えるから。 君が悩んでいるのは、悩みをうち明け、変わってしまう答えへの恐怖なのさ。
<時計> 朝、起きると時計が遅れていた。 電池が切れかかっている。 指している時間は、まだ余裕のある時間。 すっかり信じてしまい、1つ遅い電車に乗ることに。
時計というのは一定のもので、いつも正しいと思ってしまう。 世の中に狂わない時計なんてないのに、それでも正しいと思ってしまう。
ふと、思ってしまう。 世界中の時計がちょうど同じ時間に同じだけ狂ってしまって、唯一自分の時計が正しかったら・・・おもしろくも何ともない。 たぶん、間違っているのは自分の時計だって言われる。 きっとそうだよ。
遅れた時計を見つめてしまう。 まさか、ね。
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