ふつうっぽい日記
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2022年12月13日(火) 途上である。 まだ、途上である。

途上である。
まだ、途上である。

先のことを知って、落ち着いて、やり過ごすことは、たぶん、辛いこと。
起こることは、起こるべくして起こるに「すぎない」と括ることは、やはり辛い。
でも、知ることは、多分、期待につながっている、つながっていく。

ワタシの「無意識」は、賢いのか?
それとも?貪欲?

息が詰まりそうだ。

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11月中旬に、大手術を受けた同居人。
翌日のうちに、LINEを送ってきた。

一歩ずつである。

激動であるが、同じスピードで時間は流れる。
そう「時間」なのだ。
宗教的な受身的な「時間」は、ワタシには必要ではないのだ。

ガンだから大変とか、では「障害」と言われてるのは、どうなのか。
終わりは、始まりである。

そう、終わりはない旅なのだ、人生は。

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入院した日から、そんなに移っていない気もする。
でも、大手術の日からは2週間以上経っていると思うと、早いなとも思える。
また、闘うというわけでは、ないのだろうが、また、小さな新しい砂時計を渡されようとしている。
それは与えられていた、元々持っていた砂時計のプラスαではないということ。
もともと持っている、刻まれていっている、落とされていっている時間は変わらない。
隠される、見えない時間が増え、姿を近くで見られる時間が減ったのだ。
つまり、一人の時間が増えたのだ。
つまり、二人の時間が減るということなのだ。

私たちは、有限なる数直線の中にいる。
行きつ、戻りつしているように見えても、やはり、左から右へ、着実に進んでいるのだ。
それが決められているのか、もともと。
もともと、公平で、長さは違うけれど、息をしている数、深さは多分、同じ。
バランスで。

心拍数が、速い、私はおそらく長い時間は、長めの数直線は進めないと思う。
限りある数直線をどれくらい共有して、同じペースで歩けるのか。
私には、分からない。

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涙の日。
日と、括るのは、どうだろう。
まだ午前中だ。
涙の午前中。
ということもありうる。
今日が快晴だったら、また別の動きや気持ちが発動されていただろう。

今、何をしているんだろう?と
思うと、泣けてくる。
泣けて、泣けて、泣けてくる。
もしも今。
一緒にいたら、どこへ行って、何をしていたのか……と、巡らせると、特に泣けてくる。

ひとりぼっちの日曜日。

分別収集の日。
二人なら、一度で終わっていた。
二往復の道のり。
ラジオでは、陽気なクリスマスソング。
桜の咲く頃には、戻ってくるのかな。


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「来週の金曜一時退院でほぼ確定」
というところまで進んだ。
この数日で、景色がどんどん変わっていく。
置いていかれてないように、飛ばされないようにするのは、私の方である。

このコロナ禍にあって、主張が通ったのだ。
ある意味、ひっくり返した。

半分、舌を失った彼は、医師が引くくらい、困るくらい訴えた。
それでも、ちゃんと、通じたのだ。
願いは、届けられた。

もう、涙で括る日は、しばし休みだ。
明るい涙だ。

ゆっくりと時間が流れることに、もどかしくも思えたが、ゆっくりでいいのだ。
大丈夫だ。


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オチをつけたような感じだったのに。
次なるステップの想像は、過酷である。

「言う人言う人が、辛いって言う」

「まぁ、個人差があるらしいけど」

「リフレッシュして、治療にのぞもう」

この言葉の残像が、脳内再生を繰り返し。
やはり、涙でオチをつけるしかなかったらしい。

それでも、涙はずっと流れ続けるものではなかった。


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来月から、放射線と抗がん剤治療が始まる。


KAZU |MAIL