ふつうっぽい日記
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2015年03月01日(日) 気づけば3月

もう何度も言葉にしてきた。
意識してきたこと。

時が過ぎるのは早い。
とくに「大人」になったから?
それはどうだろう。
いや、ここは認めたほうがよかろうか。
「そういうもんだ」と言われれば、納得もできる。

あと2週間ほどで任期が修了する。
まだ、来年度のことは分からない。
プライベートなことも、もしかしたらある「変化」があるかもしれない。
まぁ、例えば、転勤とかね。
それはまぁ、そうなった時だ。
そういう中で、海外転勤になったらなんというのもあるから、想像は尽きない。
そう、想像の中で今は、ため息をついてみたり、不安に思ったりするしかできない。
その程度のことだ。
「その程度」が現実に実際起こると、実際は「その程度」ではすまないのが現実だ(なんだかな)
つまりは、今のところ「その程度」の枠に留まっているにすぎないのだ、ということを意識したいのだ。意識しておかねばならない。
「ねばならない」なんて書くと、息苦しくもあるけれど、ここはそれが必要だ。
なぜなら、想像と現実が混乱する可能性があるからだ。
これは実際に体験してきた私がいるからこそだ。
まぁ、第三者がこの「想像」を聞くと、好き勝手にいろいろと言いたくもなるものだ。
だから、その波にもまれないようにするために、自分に枠を作っておくことは必要なのだ。
こう言葉にすると、たんなる言い訳だけれど。
言葉にしておくということは、私にとっては必要っぽいことなのだ。

3月は誕生月でもある。
去年の3月は、「折り合い」をつけるための重要な時期と重なった。
いや、重ねたのは他ならぬ私である。
正確には「私」と「わたし」の企み。
「私」が「わたし」とそう厳密に境界を引く必要をなくするための儀式というか。
「私」と「わたし」が自由に行き来することができた「独立」「自立」記念日だとも言えるかも知れない。
なんだか、ちょっぴりかっこいいような表現だ(私にしてみれば、という話)
こんな表現を使おうとは数秒前までちっとも考えていなかった。
そう、言葉にしていく途上で勝手に飛び出てきた、引き出されたに過ぎない。

「引き出す」とは本当に不思議な力である。
ここで一つエピソードを書いておこう。

ピアニカでの合奏練習場面。
私はA君の近くに立っていた。
私は何もしなかった。
というか、術がなかったというのが近い。
結果、A君は賞賛に値するような演奏ぶりであった。
そして、次の段階で私がA君から離れると、とまどう演奏になったのであった。
まぁ、これは周りの環境にもよるところがあった。
私が近くにいた時は、複数による合奏であり、離れた時のそれは単独での演奏だったからだ。
複数であると自分の音がつかまえやすく、単独になると自分の音をつかまえるのに戸惑っただけ、という感じの。
逆も起こりえたと思うが。
不思議な力というのは、私にあるわけでもない。
「あいだ」にあるのだと思う。

「あいだ」とは「あわい」とも言う(と、たしか辞書に書いてあった)
「あわいの力」
うん。なんともかっこいいような表現だ。
そして、なんだか響きが優しい。
といって、これらの表現の展開も、私自身のあれやこれやの積み重ねの切れっ端の再生に過ぎないのだけれど。

気づけば3月。
あれやこれやと揺れ動き、さて、今年の誕生日はどんな気持ちが通過するだろうか。
少しだけ期待しながら、ひとまず2週間を通過させることに努力をするとしよう。


KAZU |MAIL