ふつうっぽい日記
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2014年09月25日(木) 例えばよく眠れるということ。

例えばよく眠れるということ。

「今日も、仕事頑張った!疲れたぁ〜。今晩は、よく眠れそうだなぁ」

人は「仕事」の条件を括っている。制限する。
「正社員」「定職」「年収」「総支給額」「時給」「労働の質」……
そして、
「仕事を頑張ったから眠れる」
「眠れないのは仕事をしていないから。頑張っていないから。」
的な論理に狭まっていく。

そして
「疲れたら眠れるはずだ」という仮説を立てるが、そううまくはいかない。

ためしに「あーあ。疲れた〜」とつぶやいてみる。
しかし、即座に
「疲れる何をあなたはやったのか?」という問いが立ち上がる。
「仕事らしい仕事をやってないくせに」と責め始める。
やがて、ふつうなら意識や自覚無しに習慣で進められきたことが出来にくくなってくる。

この「現象」の呼び名は「うつ」的である。
それを治療対象にするためには、現象の持続時間が1ヶ月くらいではないかというのが私の考え方である。「不眠」というのもそうだ。「病」「症」に対する対処への自己努力の限界。

最近、友人宛にこういう内容をチラッと書いた。
再話なので脚色をしてある。

…インターホンが鳴って、何かと思ったら宗教の人。
「今回の特集はもえつきですが、冊子入れておきましょうか?」って言う。
何か波動みたいなのが見えていたのかなぁ。
でもね!
この前、街に出た時もその冊子を扱っていたグループが目について、
「私は救いを求めているのかも知れない」って思ったよ。
でもね!
救いといっても、宗教グループに入会するのではなくて「現象」。
つまり「もえつき」について知りたかったのよ。
それで、「もえつき」的なテーマを扱った本を3冊買ったのよ。
何かの本に、一つのテーマについて知るには3冊読むといいらしいってあってね。
まだ、読み始めたところだけど、対人援助職の職業病みたいで「あるある」なことらしい。といって、ずっと本ばかりを読んでいるというわけではなくって、食事を作ったり、洗濯したり、することはちゃんとあるのよね。…

それらの本を読めば、即座に治療的な効果が表れるということではない。
とは分かっているものの、「私だけじゃないんだ!」という安心感みたいなものは、頼もしくて、なんだか一気に霧が晴れたかのような「錯覚」に陥るのだ。
しかし、それは「錯覚」。
迫り来るように感じられる現実。(些細レベルにも関わらず!)

ああ。似ている。数年前の「病」的な「気」に。
おろおろなる。
この「現象」がずっと続くのではないかという恐怖に包まれ、不安になってくる。
何かのせいにしたくなる。
天気のせい、ホルモンバランスのせい、自分の考え方のせい……自分の存在のせい……
消えたい。死にたいとかではなくって、液体になって、ソファーの隙間に流れ込みたい……(なんじゃそりゃ的!)

しかし、さまざまな世界(?)で、コロコロと変わることはありえることだと意識し始める。そして、どちらでもない中立的な「ニュートラル」な状態を経て、「どっちでもいい」「こっちでもいい」的に移っていく。この時点では、その選択の拠り所は、自身ではないことに注目。
この現象は「自律神経失調症」的である。

私の持論は、(「持論」の形式は違うかもしれないけれど!)
「分からないところまで考えれば、それは考えるのをやめるべきとき」

他者からすると、それら考えている過程の有り様は「考えすぎ」「考え方が間違っている」と言いたくなる。聞かされる時間が苦痛になっていくのがふつうだ。

しかし、ある時、ふと繋がる。
きっかけの言葉は我が夫のこんな台詞だ。

「そういう時期があるんだよ。
特別に動いているという訳でもないのに疲れるという時期が。
……5年くらい長く生きているからねぇ。」

言葉が「腑に落ちる」という。
「腑」って何だろうかと辞書で調べた。
「はらわた」である。
下に否定の語を伴って「どうも腑に落ちない」という用い方は、浄瑠璃〜……と解説は続く。
「浄瑠璃」については詳しくないが、なんとなく興味関心が向いてきている領域ではある。
「能」やら「歌舞伎」やらもそうだ。哲学もそうだけれど、言葉そのものの本質へ導かれているような感覚がある。同時に、「自分とは何者か」ということ、「自分自身を知ること」に注意が向く。

「自分自身を知ること」という言葉は、対人支援職の達人(と、私が勝手に位置づけている)から私に向けられたものだ。
達人の言葉は、シンプルだが深い。
シンプルな言葉を深く受け止めているのは、「私」であり、この「自分」だ。

ある言葉をどの程度深く受け止めるか、どのように解釈するかは、その人次第だ。
「その時」の感情ともなれば、自身のことでもそう簡単に分かるものではない。
よって、他者の感情を察することは必ず限界が来る。
けれども
「禍を転じて福となす」という言葉があるように、
「わざわいを、うまく変えて、しあわせになるように取り計らう」ことは可能なのだ。

眠れない夜もある。
眠れないような悩みがあるのにも関わらず、眠れてしまう夜もある。
それは、賢い身体機能の結果なのであろう。



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