Wanderings / 千津
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 2002年11月29日(金) 「きたない」と言う表現 

また宅飲み。お金が無いのに宅飲み。宅飲みなのに高く感じるほど貧乏。昨日今日と大学は休んでいるのに毎日自宅で友達に会ってるって間違ってる。

今日は彼氏の部屋で飲みだった。放課後皆(彼除く)で「飲みたいけど場所が無い」と話をしてた所に私から「飲もうぜ」とメールして「じゃあ○○(彼)ん家で」と提案して決定。

暫く飲んでつまみが切れたので、彼氏が追加の買出しに出ている時に過去話と言うか愛情話になった。どんな流れか忘れたけど「千津は遊んでたよ」と友達(男・彼女いない暦20年・童貞)が言い、それに下ネタ好きな友達(男・彼女いない暦3年・今までつきあった人数1人)がからんできて、私は人付き合いにおけるセックスの比重が高すぎるみたいなことを言われた。現実的過ぎる、夢が無い、多くの男(と言われる程では無いと思うけれど)と浅い付合いでセックスをして悪びれないのはきたないと言われた。

個人に対して「きれい」か「きたない」かと言う表現をする事体が間違っていると思うけれど、所属している社会の影響下にある個人の道徳観念に符号しないものをきたないと言うならば、私は自分が今までしてきたことを反省すれど消し去りたいとかやりなおしたいとかは思わないし、私が培ってきた道徳観念はそれらの行為無しには成立しないものだからきたないと考えたことは無い。逆にきたないと言う表現をした彼等は「きれい」なものに憧れていたり忠実なのだなと思う。

私だって彼らの描く幸せの一部には同意できる。例えば「本当に好きになった人としかセックスをしない」とか。だけれど私は(個人の後天的な性質も含めて)「体と心は別」との考えを持って性生活を始めたし、周囲の環境も似たような、あるいはもっと乖離したものが多かった。世の中には「好きな人(しか知らずに)結婚して幸せに暮らしました」という話があってそれが(一昔前の)理想とされていることは知識としてはあったけれど、私と私の周囲の現実からは絵空事だった。私はその絵空事に心酔することも信じることも無かった。それとは別の所にある人間関係を経て反省と改善を繰り返して成長した。いくつかの道理を覚えて「多くのこと(たとえ悪いとされていることでも)を経験するに越したことは無い」と言う考えを改め保守的な性質を身に付け始めて暫く経った頃に今の彼氏と出会い、体と心が共存できる喜びを知った。そこに喜びがあるから、今はそれを守ろうと努めて、今までの経験から得た過ちはおかさないようにしている。はじめからそこに行き着けるコースがあるなら、私はきたないと表現されることは無かっただろうし、何人かとの付合いを経る必要も無かったのだろうけれど、それは(私に見つけられる範囲には)無かったし、私は待ち続けるより動くことを選んだ。だからこそ現実に即した事を言う現在の状態がある。過去の行為を取り出されて「きたない」との言葉(=レッテル)の元に現在を否定されるのは不快だと思った。

それが個人の価値観に基づくものならば仕方の無いことだけれど、一度に2人を相手に言われたのは少し凹んだ(しかも彼氏は帰ってきてその会話の一部を聞いてもフォローを入れないし)。私は絵空事を信じず、黙って待ち続けることは時間と経験の無駄だと判断したから動いた、それだけの違いなのに。

こんな風には言わなかったけれど、人にきれいもきたないも無いよ、と言って、いくつかの現実を話しておいた(だから尚更言われるのだな)。価値観の齟齬はどこでも起こりうるのだなと思った。

解散して彼氏とファミレスに出かけてステーキを食べて帰宅してセックスした。良かった。


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