原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2004年07月19日(月) わたしのジェンダー観;少子化問題について

★1・わたしのジェンダー観
★2・少子化問題について
★3・ところで(Re:わたしのジェンダー観)
★4・Re:わたしのジェンダー観(7/20補足)



★1・わたしのジェンダー観

ジェンダーは世界最大の暴力装置である(蔦森樹)という論文を読みました。
わたしにとっては「暴力装置」「性は限りなく実体化した可変概念」などというごつごつした言葉がなじめない印象なのですが、どうやら言いたいことはほぼ同じらしいです。

わたしは、少なくとも20世紀まで、多くの人々の間で「常識」と思われることが多かった「性別=男か女かの二つに一つ」という概念は、性に対する思考が未分化で大ざっぱだったから、と考えています。
わたしには理由はよくわからないけれど、どうも人がものごとを考える時に「二項対立」で考えることが多い、という傾向があるような気がします。
本当は「二項」というほど大ざっぱではなく、確かに「両極端」はあるかもしれないけれどその中間もある、というのが現実です。
しかし、それをそのとおりに受け止めて考えるのが「大変」というかそこまで考えるだけの思考の精密さが、少なくとも20世紀いっぱいまでは不充分だった、ということなのではないでしょうか。

わたしの頭の中には、「性のあり方」を示す図として「つり橋」のイメージがあります。
つり橋の両端にある柱が「典型的な男/女」です。
ただし、実はこの「典型」は実態ではなく一種の「幻想」で、現実には存在しない、と考えます。
現実に存在する「性」は、両端の柱に結び付けられた「ロープ」です。
ロープのそれぞれの端が柱にぐるぐると何重にも結び付けられているように、現実の性も柱に密着するように存在する部分がいちばん長くて量も多い。
でも、両端の柱の間には、1本(から数本)のロープがずっと渡されています。
ちょうど現実の橋のロープが真中に行くほど低くなり、両端に近ければ近いほど高くなるのと同じように、両端に近づくほど人数は多く、真中に近いほど少なくなっています。
両端を結んで渡されるロープにあたるのは、典型的な男女ではなく「非典型的な性」なのです。

20世紀までは「♪男と女の間には深くて暗い河がある」などと歌われたように、河の両岸を結ぶ橋がなかった、または橋があるということが認知されていなかったのだろうと思います。
けれど、実は途中につり橋があったのです。
たまたまそれを知っている人がいなかったり、いても大きな声で「ここに橋がある」と言わなかったりしたのでしょう。
この掛け橋を往復すれば、もっともっと男女相互のことが理解できるようになる、とわたしは思います。

掛け橋の途中のロープを形成している人々は、同性愛(人口の3〜5%)やインターセックス(同じく0.05%)、性同一性障害(0.01%)と言われているように、とても少数の人たちです。
もちろん、決して(わたしも含めて)このような人々=セクシュアル・マイノリティをあげつらってほしい、というわけではありません。
でも、セクシュアル・マイノリティの人々を理解し、受け入れることのできる「常識」を多くの(少なくとも95%以上の)人々が持つことができるようになれば、古臭くて強制的な「ステレオタイプ・ジェンダー」にがんじがらめに縛られて不本意な一生を終える人が減って、多くの人々がより幸せに生きていけるようになるのでは、とわたしは思います。

おそらく、人間以外の動物では典型的な「雄/雌」のどちらにもあたらない性を持つ個体は、それなりに受け入れられたり受け入れられなかったりしているでしょう。
ただ、人間の場合、それをある程度理屈つけて考えないと受け入れる思考ができない……あ、否定文じゃ嫌なので、言い直そう。
人間の場合は、思考によって非典型的な性を持つ人々のことを受け入れるだけでなく、典型に近い人々自身もより豊かに、幸せになれるはず、と思っています。

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「ジェンダーフリー」という言葉がどうも一人歩きして、Googleで検索してみても否定的な言説ばかりが飛び出してきて気持ち悪いと思ったけれど、ジェンダーフリーは決して「男らしくしたい」とか「女らしくしたい」ということを否定するものではない、と思います。
ただ、その人ごとに異なる自分自身のジェンダー(または個性)を、ステレオタイプジェンダーだけを基準にして「おかしい」とか「止めろ」とか言うのを止めてほしい、というだけのことなのではないでしょうか。

アンチジェンダーフリーの人々は往々にしてヒステリックに見えて、何かコンプレックスでもあるのかしら、と思わされることが多いけれど、その人1人だったらいくら極端に男ぶってみたり逆に女ぶってみたりしてもかまわないと思います。
それが他人への強制になったり、あるいはたとえば「女は男に従え」などという、他人をも巻き込むような価値観の押し付けになるのでは困る、ということです。

アンチの人がヒステリックになる理由は、たぶんこんなものでしょう:
「自分はステレオタイプジェンダーを自分にも他人にも押し付けることでぎりぎりやっていけるのに、それができなくなったら困る。生きていけなくなる。」
または
「ジェンダーフリーというのは、自分が他人にステレオタイプを押し付けているのと同じように、ジェンダーを完全になくすことを押し付ける思想だ。押し付けられてたまるものか!」
とか。
心貧しいものです。
ジェンダーフリーって、そんな懐の小さいものじゃないんだから。

あと、滑稽だとしか思えないのが、アンチな方々の言う「男らしさ」「女らしさ」が、ステレオタイプと呼ばれている割には一定ではなく、それを言う人ごとに千差万別だ、ということ。
つまり、実はステレオタイプな「男らしさ/女らしさ」というものも、その人ごとに多様なのです。
たまたまある人の発言力が強くなったりするとその人の抱えるステレオタイプがさも誰にでも当てはまるもののように扱われてしまうようになるかもしれない。
逆にステレオタイプに従おうとするあまりに自ら発言しなくなってしまった人たちが、自分にとって不当としか言いようのないステレオタイプを自ら受け入れてしまうこともあったかもしれない。
このように、「ステレオタイプ」と言っている割には「これこそ男らしさ/女らしさ」というものも、不安定で多様なものでしかないのです。

自分の信じるステレオタイプが実は万人に当てはまるものなんかじゃない、と知ったら、アンチな方々はいったいどう思うでしょう。

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わたしの考える「ジェンダーフリー」は、決して生物学的な「性差」まで解消してしまおうとするものではありません。

産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。
それを止めろとか変えろとか言うジェンダーフリー論者など、この世にいるのでしょうか。
産むのは女、それをサポートするのは男。これは「典型的な性差」として当然認めるべきことでしょう。
(医療の発達で「男が産む」という時代もやってくるかもしれませんが、21世紀初めに生きるわたしには今のところ想像が及びません)

ただ、そのために社会がどういうシステムであるべきか?
女が産み、「育て」、男は「働く」……
「子どもを育てる」ということと「外で働く」ということが、それこそ二項対立になってしまっているのはおかしいのでは?
「子どもを育てる」のは、女も男も、どっちもやるべきこと。
働きながら育てる女が(かなりたくさん)いるように、男も子育てと労働を両立していい。
いえ、現実には女は既にそれをやっている人が多いけれど、男でそれをできている人がまだまだ少なすぎるようですね。
男女どちらにもできるはずのことを片方しかできないようにしてしまうのがステレオタイプの一つだと思います。
生物学的性差を社会構造の中へ無制限に敷衍していってしまうのがステレオタイプジェンダーの問題点であって、ジェンダーフリーはそこを解消しようとしているだけなのではないでしょうか。

男よりも労働能力の優れた女なら、男を家庭に「専業主夫」としておいて、自分が働けばいい。
それをもしも男が恐れるのだとしたら、それは自分の自信のなさの表われでしかなく、男自身がコンプレックスを乗り越えて変わっていくしかないと思う。
コンプレックスを助長するような周囲の反応(現実には「主夫」をやっていても、「仕事もしないで家でぶらぶらしている」としか言われないケースがあんがい多いのではないでしょうか)も問題だと思います。

何百年かたったら、生物学的に生まれた時の性別とは無関係に「子を産むつもりのある人=(とりあえず)女(と呼んでおこう)」とでもいうような常識が成り立ち、それはたとえば学齢を迎えた後なんかに自分自身で決めることができる…… というような世の中に、なっているかも。
わたしがその時代に生まれたら、きっと「産む」ことを選択するだろうな。
でも、だからといって、自分がやりたいこと(=仕事だったり趣味だったり)を放棄するようなことはしないだろう。
両立して生きるだけの能力を、貪欲に学びとってやる。きっと。

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★2・少子化問題について

このところ、原案帳#22でもしょっちゅう言ってるけど
わたしは「少子化対策」なんかする必要はない、と思っている。

理由は極めて単純。
「人口が増えないとこの国の発展・安定が維持できない」というのが根拠の薄い思い込みでしかないから。

「右肩上がりの発展」がなければ「衰亡」なんて、帝国主義時代(19〜20世紀)の亡霊みたいなものじゃん。
21世紀なのにまだそんな考え方しかできないようじゃ、この100年は乗り越えられませんぜ、ダンナ。
「規模拡大」ということを全く含まずに穏やかに安定した状態を作り出すことのできる発想がなければ、
人類はただ単に滅亡を早めるだけだと思う。

少ない人口でやっていける国土と社会を作っていけば、いいじゃん。
こんな狭い国土に今の人口、既に多すぎ。
自然に減っていくのなら、殺し合いして減らす必要もなくて、都合がいいじゃん。
今ならまだ、日本全土が「過疎化」してゴーストタウンがあちこちにできても、
気候の砂漠化がそれほど進行していないから、
放っておいて100年もすれば森にはならなくても草ぐらいは生えているでしょう。

世界的にも人口爆発が恐れられているのに、
自分の都合ばかりで少子化を恐れるのは、あまりにも近視眼的で自分勝手。
そんなに人口減が嫌なら、人口爆発している現場から子どもをたくさんもらってくればいいじゃん。
そのままその地で生きていこうとしても餓死が待っているだけの子どもたちを何万人でも「日本人」として迎え、
それこそ少ない人口でも充分やっていける優秀な人材になるように教育すればいいじゃん。

「日本人の純血が汚れる」などと寝言を言う人、
その「日本人」の遺伝子の6割以上は中国や朝鮮半島の人たちと同じだ、という事実をどう思う?
「日本固有の遺伝子」を持つ人なんて、確かほんの2、3%しかいない、って聞いたよ?
(きっと100人に2、3人しかいないような独特な姿なのではないでしょうか)
「昔から日本人として生きてきているから、そういう人(=日本人全体の6割にものぼる『帰化人』)は別」とでも?
その「昔」ってどれくらい? 300年(江戸時代)? 500年(戦国時代)? 1500年(大和時代)? それとも100年(明治時代)? 50年(戦後)?
決められるの、そんなこと?
幻想にしがみつくのは止めようよ。
(ついでに言うと「北方領土返還」を実現した暁にはなんと!「ロシア系日本人」が誕生する可能性が! 
それはいいわけ、「純血」の好きな人たちは?)

多様性を喜びあおうよ。

「量」に頼らない幸せを、探そうよ。見つけようよ。

(あーあ、なんかまた暴走してしまった……)

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★3・ところで

★1・わたしのジェンダー観

>産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。

と書いたのだけど、じゃあわたしはなんなのか。
わたしは「非典型的な性の一人」です。
仕方ないじゃん。産むことはできないんだもん。

じゃあ、不妊の女も「非典型的」なのか。
……っと、そこまで言うつもりはないんだけど……

そうか。「典型」「非典型」という、それこそ「二項対立」を持ち出してしまうこと自体が、ツッコミどころになってしまうのだった。
なーんだ、自分で自分の墓穴を掘ってるじゃーん。
たぶん、「典型」「非典型」にちゃんとした定義を与えようとすればするほど、更に二項対立的な決め付けにはまっていってしまうんだろう。

ああ、多様性が多様性のままで、一人一人の性がそのままで、尊重されるような「常識」がほしい!

……やっぱりダメねえ。
思いつきだけでだだだーっと書いてしまうのは。

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★4・Re:わたしのジェンダー観(7/20補足)

>産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。

と書き、その後「おかしい」ということだけは気付いたので★3・ところで

>「典型」「非典型」という、それこそ「二項対立」を持ち出してしまうこと自体が、ツッコミどころになってしまうのだった。

と書いたけれど、そうじゃなかった。
「典型的な男女」(より一般的な言い方をすれば「ふつうの男女」)というものを設定するこ自体とがおかしいのだ。
「二項対立」がおかしいんじゃなくて、それ以前に「典型」(=ステレオタイプ)というものがあるかのように考えることがおかしい。
わたしもついつい古い常識に引き戻されて考えていたところがあるけど、そこのところに注意深くならなければいけなかった。

本当は。
「典型」なんて、実在はしない。
「ふつうの家庭」というものが実は存在しないのと同じこと。
(何も問題のない家庭など存在はしないし、「波風が立たない、穏やかで幸せな家庭」を「ふつう」だと考える人がいたら、それはあまりにも浅はかだ。
そんなとびぬけて幸せな家庭が「ふつうの家庭」であるはずがないじゃんか!
「そりゃ大したことじゃないけどうちにもそこそこ問題はあるよ」という人、「問題がある」のにどうして「ふつう」と言い切れる?
「ふつう」という言葉がいかに実体のないものの妄想か、わかっていただければ幸いです)
性についても、例の「つり橋」の喩えでちゃんと説明していたとおり、「典型」にあたるのは「柱」の部分だけど、それは「ロープ」の部分とは違った材料で作られている、つまり実体ではないもののことだったのだ。
いかにその柱にしっかり巻きついているつもりでも、柱の木質の中に食い込むことはできない。
柱=プラトンのイデアみたいに「抽象的に思いつくことはできても、決して現実に見ることのできないもの」なのだ。
「典型」は、実在しない。
あなたの腕に生えている毛の濃さは「典型的な女性/男性」のそれだと言える人、いますか?
「そんなの、人それぞれでしょう」
という答えが返ってくるだろう。
そうそう、それでいいの。
現実に存在するのはあくまで「人それぞれ」であり、ひとまとめにして「典型」なんて言える状態は一切存在しないのです。

さて、それでさっき引用した言葉を、より適切に言い換えれば……

産むことができるのはある面で生物学的な「典型」に近い機能を備える「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく生殖機能の点で典型に近い「男性」だけでしょう。

「ポリティカル・コレクトネス」みたいでなんだかうざったいけど、要するにたまたま生殖する機能を備えているのも、決してそれが「典型」とか「ふつう」じゃない、っていうこと。
ええと……調べてみたけど、いったい人口の何%くらいが「不妊」なのか、すぐには出てこない。
っていうか、「生殖しない/できない」ということの中に、既に多様な条件が入っている(たとえば結婚しない=生殖しない、という人だって当然いる)ので、それやこれやも含めて結局「生殖しない」で生きている人、生きるのを終えた人、なんて、下手すれば人口の数十%を占めてしまうのではないか。
(少子化がキライな人たちはそんな数値誰にも見せたくないでしょうね)

生物の本質が「生殖」にある、だから本来の姿は生殖できるものがそれにあたる(=「生殖するのが典型的な性のあり方」)、という価値観は一見もっともらしく聞こえるけれど、生殖できるということ自体が生殖しない個体によって多様性をもたされ、支えられている、ということも考え合わせなければいけないと思う。

多様性を喜ぼう。
これこそが豊かさなのだ。

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更に更に、補足(ゔ〜〜くどい……)

2004年7月28日の記事で、更に補足しますた。

ひとことで言えば「産む=女」なんて、そんなのとんでもない話、ということ。
全体的に↑の記事は雑すぎたと思います。


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