- 2003年07月28日(月) ひさびさに萩尾望都♪(+宝塚)
★久々に『萩尾望都』♪★
★1・『アメリカン・パイ』
★2・『バルバラ異界』
★3・宝塚にため息……
★4・やめておいた投稿なんか、この書式になって以来、あんまり萩尾望都に触れてなかったような気が。
でも、大の「萩尾望都フリーク」であるわたし、最近の新作も読んでるし、ちょいとひとこと。
(早朝にこんなことしてていいのかな?>[5:36 03/07/28]の自分)もう先月のお話。
今月ももう終わろうとしているので、はっきり言って2ヶ月近く前の情報。
あうう、わたし、そんなに慌しくしてて、いつも見失ってはいけないものを見逃していたっていうこと?
ちょっとショック。
ともあれ、気を取り直して。
『アメリカン・パイ』:
萩尾望都が珍しく『プリンセス』(←秋田書店刊行の少女漫画誌)に書いた、わたしとしては音楽も絡んでいるのですごいお気に入りの作品。
それが、なんとあの「宝塚」で上演された!!
見たかったよぉ〜〜。
って、チケット代ないくせに。
あうう、あうう。(←悪あがきしてる声)
悔しいので、せめて↓その様子を取材した記事↓
スポニチOsaka・宝塚支局 より
http://www.sponichi.com/ente/takarazuka/backnumber/030615/takarazuka.html
更に突っ込んで、宝塚のHPより、『アメリカン・パイ』公演の記事↓
http://kageki.hankyu.co.jp/script/kageki/news/view.cgi?p=genre&genre=kouen&no=10421731351945←少しスクロールして真中へんの記事になります
以下転載---------------------------------
宝塚バウホール公演・東京特別公演
雪組
◆宝塚バウホール公演6月14日(土)〜6月23日(月)
◆東京特別公演(日本青年館大ホール)6月28日(土)〜7月4日(金)
バウ・ミュージカル
「アメリカン・パイ」
原作 萩尾望都
脚本・演出 小柳奈穂子
◆主演…貴城けい
歴史やSF、ファンタジーなど様々なジャンルの作品で高い評価を得ている劇画家・萩尾望都の作品「アメリカン・パイ」のミュージカル化。
ロック・ミュージシャンのグラン・パは、ある日、朝食を盗もうとした家出少年と出会う。自分のことを語らず、ドン・マクリーンの古いヒット曲「アメリカン・パイ」を歌うだけの少年、リュー。グラン・パは行き場のない彼を自分の家に引き取り、リューが実は女の子であることを知る。共に暮らしながら、自分のことを何も語ろうとせず、中途半端に笑っているリュー。グラン・パは、ある日リューにステージで歌を歌わせてみる。すると、ステージに立ったリューは自分の思い出を歌い出す。それをきっかけに心を開き出したリュー。だが、やがてリューは貧血の発作を起こして倒れるようになる。心配して医者に相談したグラン・パは、リューがフランスの大きなぶどう園の一人娘、リュシェンヌ・クレーという少女で、余命いくばくもないことを知るのだった。
マイアミを舞台に、売れないミュージシャンと自分の死を抱えた少女の交流を中心に、様々な人々の出会いと別れを描くミュージカル。
---------------------------------以上転載
ううう、わたしのミュージシャンとしての存在のルーツに、けっこう大きな影響を与えているのだけれど。
見たいよぉ……(T-T)
(いっそ、いつかのライブでDon McLeanの"American Pie"全曲歌ってやろうかしら。
8分もある大作なんだよぉ〜。
あっ、Madonnaのカヴァーで知ってる人も多いかも。
でも、わたしはあのヴァージョンじゃ物足りないのよね……)
はっ、そういえば。
この曲をめぐっておきている現象:
*1972(だったと思う):ドン・マクリーン、自作の歌"American Pie"で全米2位(だったと思う)を取得
*1977(か78):萩尾望都、この曲をネタに漫画『アメリカン・パイ』を創作
*(1977〜78:会津里花、この漫画にすごく感銘を受け、そのように生きようと心に誓う)
*1990年代:Madonna、この曲をカヴァー
*2003年:宝塚、萩尾望都の漫画を舞台化
萩尾望都の漫画をドン・マクリーンからの「2次創作」だとしたら、宝塚の舞台は「3次創作」ということに!?
なんか、それってすごくない?
更にさらに、エーイおまけだ、TAKARADUKA MUSIC FINDERなんて便利なサイトが見つかったので、その中から:
雪:アメリカン・パイ(2003年)
http://members.tripod.co.jp/envoi/list/snow/amepie.html
これもご参照くださいね♪前作『残酷な神が支配する*』と比べて、ずっと安心して読める新作。
*『残酷な神が支配する』(通称『残神(ざんかみ)』←会津が勝手に言ってるだけ):
義父による少年への性虐待と、その義父を殺そうとしたら義父だけでなく最愛の母親まで死なせてしまった(?真相は最後まで藪の中……)少年の精神的苦悩を、まる10年もかけて描きつづけた作品。
わたしにとっては「他人事とは思えない」要素があまりにもてんこ盛りで、目が離せない作品でもあったけれど、あまりにも「他人事じゃな」さすぎで、重たくて通読すると1週間くらい寝込んでしまうほど。
萩尾望都の作品としては、10年も続けたこと、テーマや描写が萩尾にしては異例なほど現実性を帯びていたことなど、すごく異色の作品。
なぜか、『バルバラ異界』は萩尾望都の「総集編」っぽい作品だな、と感じてしまう。
まず強く感じたのは、初期〜中期の頃に描かれた『精霊狩り』という作品と、ええと設定かな、全体的な雰囲気かな、そういうものがとてもよく似ているな、ということ。
それから、キャラクターがなんとなく「あ、これエドガーだ」「この子はタダだ」etc.と、(萩尾望都は決して手塚治虫の「スターシステム」みたいなことはやってないのだけれど)、初期〜中期の萩尾作品に出てきて忘れられないキャラとよく似ていること。
(わたしは強い愛着があるのでいいけれど、新しい読者からは「変わり映えしない」と思われてしまうのかなあ……)
でも、更に『マージナル』などにも通じるような、実はかなり壮大な……っていうか良い意味で「トンデモ」な……世界観が見え隠れしていること。
この「世界の構造の謎解き」が、萩尾ファンとしては嬉しいのだ。
いったい『バルバラ』ってどういうことなのか。それが世界の一部? 全部?
「青羽(アオバ)」の夢なのか、それとも実在する異世界?
なぜ「キリヤ」の気まぐれな創作がベースになっているのか?
……(これ以上書くとつまんないほどネタばれしてしまうので、あとは興味のある人、読んでみて♪)
えーと、まだまだあるぞ。
10年ちょっと前、『残神』を描く前に描かれていた『あぶない丘の家』シリーズや『海のアリア』にも通じるような、SF不思議世界+ちょっと軽いギャグ乗りも、心地よい。
目が離せません。『ベルばら』の頃からずっと、気になっていた。
でも、わたしは男の体を持っていたので、「わたしが宝塚に入ることなんてできるわけないし」と諦めて、そうすると現金なもので、興味もすうっと引いていってしまった。
21世紀になってから。
ちゃんと女の身体(っていうか正確には「女に近いかたちの身体」なんだけど)を持つことができて、まあ今は今度は年齢的に無理だったりするので「わたしが宝塚に入る」とかいうのはやっぱり非現実的なことに違いはないんだけど、でも少し近づくことができて、以前のように「オレにはカンケーないんだから」と突き放す必要がなくなったら。
俄然、宝塚に対する興味が戻ってきた。
一度、公演見たいなあ……
歌って踊れて演技ができる(って、まだまだぜんぜんできてないだろがっ!)「トランスアーティスト」の会津里花としては(笑)以下、某萩尾望都関連の掲示板に、書き込もうと思ったけれどやめた文章。
なんか、すごく久しぶりなのに、長いしエラそう。
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こんにちは。東海のヌーです(笑)
早いもので「ユーリ(7月)」もあと残すところ数日ですね。
30日(水)には静岡市でライブを……とか書くと、また管理人さんから「関係ない私信は止めなさい」と言われそうですね。
実は、前回書き込みしてからついさっきまで、この掲示板読んでませんでした。
その間に個人的にいろいろあったんですけれど、ここに帰ってきて、やっぱりわたしのルーツは萩尾望都だなあ、と思いました。
『アメリカン・パイ』がとうとう宝塚作品になっちゃった、というのを読んで、「しまったー!」と思いました。
見たかった。何をおいても。
萩尾作品の「実写・アニメ化」には、いつも批判的な意見が出るし、わたしもずーっと前にNHKで放映した『11人いる!』の実写版とか、画面を隠してしまいたいほどこっ恥ずかしい出来だったり、アニメ版もキャラの顔が違うなあ、と思ったり、と批判的な意見にうなずいてしまうところが大きいほうです。
でも『アメリカン・パイ』を「宝塚」でやる、というのは、何がなんでも見ておきたかったです。
実は萩尾さんの漫画が、ドン・マクリーンの曲の「2次創作」といえないこともないでしょう。
だから、宝塚のは「3次創作」なんですよね。極端な言い方かもしれないけれど。
「……古い古い歌が
だれがつくったのか わからないくらい 古い歌が……
それをつくった人のことも 歌った人のことも すべて忘れさられ 消え去っても
その歌は残ってるように……」
(ちょっと長いので、中略)
「いや もし なにもかもが 失われ 消えても
……果てぬ闇の底に 想いだけは 残るのだ……」
(萩尾望都『アメリカン・パイ』 より引用)
このテーマ(っていうか、萩尾さんなりにドン・マクリーンの歌詞を咀嚼して漫画の独白にしている言葉だと思う)が、他ならぬ2次、3次創作、というかたちで現実のものになっている、といえないこともないような。
漫画を読んでレコード聞いたのが、ちょうどわたしが高校3年の頃だったので、それ以来、このテーマはさまざまなかたちでわたしの生き方の底を流れるテーマになっているのです。
ちなみにスタジオライフ版『トーマの心臓』、テレビで録画して何度か見返しました。
確かに原作を見るつもりだったら「はぁ?」だったかもしれないけれど、一つのお芝居として見たら、生身の人間がやっているからこそ「生の出来(=原作には決してない不完全さを含む)」であることも含めて、いろんな発見もあるし、楽しんで見ることができたと思います。
これも、できれば画面じゃなくて劇場で舞台と続いている空気を味わいながら見たかったなあ……
萩尾さんの中では『トーマ』は突き詰めて『残神』になっちゃったのかもしれないけれど、30年の時を経て、今の時代の中で新しい命を得たのかもしれない、とも思いました。
わたしはわたしなりに『アメリカン・パイ』を生きたい、とも思います。
相変わらず、作品と生身の自分自身の区別がちゃんとついてないみたいですね、わたし……
(ちょっと「狂信的萩尾望都信者」っぽいかも? それってやばいかなあ)
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……読み返して、思う。
やっぱり書き込んでしまわなくてよかった。
自分のことばっかりじゃん。萩尾望都の作品じゃなくて。
まあ、こんなことしか書けないのも、わたしならでは、ということで。
ここまでくると、まるでわたしが萩尾望都さんから呪いをかけられてでもいるような。
(いえその、まるでわたしの生き様を萩尾さんがご覧になってでもいるみたいなんですよ。
それは、今度の『バルバラ異界』にも現れているので、わたしとしては「あー、また萩尾さんに見られてる。逃れられないんだ……」っていう感じなんですよー。ホントに。
ウソだと思うなら、『バルバラ』の時夫とキリヤの関係を、わたしとわたしの子に当てはめてみてください。
わたしは彼が「静かに絶望」している状況から脱することができるのを祈るしかありません)
こういうことが、ここ30年くらい続いているんです。
『ポー』が掲載され始めたのが、わたしが「14歳」の頃からだった、とか。
きりがないんです。
もちろん、多くはごく些細なことなんですけれど。
些細なことでも、「たくさん」とか「ぴったり」とかいうことが多いと、何か大きな意味でももっているような気がしてくるものです。
「そんなに危険な関係なら、離れてみては」
そうアドバイスしてくれる人もいそうですね。
でもね。ふふ。
わたしの生き方は萩尾望都によって規定されている。
そして、わたしは、もしたとえ本当に萩尾さんから呪われているのだとしても、喜んでそれを受け入れ、自分のものとしていきたいのです。
(あぶねーやつ、わたし)