- 2002年10月09日(水) 「GID板」より
例の「GID板http://www.bbs2.jp/gid/index.html」の
「メンタル系GID」というのを考えるスレhttp://www.bbs2.jp/test/read.cgi/gid/032447799/l50に
こんなことを書いた。
(一部技術的なコメントと他人の名前が出てくる部分を省略しましたm(._.)m)
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303 名前:1 [2002/10/09(水) 06:45 ID:hwek2sYo]
(たまにはアゲましょ♪)
(一部省略)
人間の行為って、かなり多くの部分が下のような構造で成り立ってるような気がする:
抽象的な定義づけ{←その元となるような現実の体験の認識(←体験の元となる行動<←行動の原動力となる衝動→>衝動に基づいて起こす行動→)行動体験によって培われる認識→}抽象的な定義づけ
つまり、何が言いたいかというと、行為の「芯」にあたる部分に「衝動」(≒本能的なもの)があって
その周囲を体験や定義づけなどが幾重にも取り巻いている構造になっているんだと思う。
それはたぶん、大脳の容積を大きくする方向で進化してきた動物に共通のもので、
Kさんが前に「動物にも心はある」と言ったことと、そう大きくは違わないと思う。
私が問題にしたいのは、核になる「衝動」≒本能と、
それを取り巻く認識とか定義とかの領域≒理性(?)とのバランス。
(めっちゃ長いので、つづく(苦笑))
304 名前:1 [2002/10/09(水) 06:57 ID:hwek2sYo]
>>303からのつづきです(^^;
人間以外の動物は、<衝動>の領域が大きくて、
周辺にいけばいくほど希薄になっている。
(=バランスがとれている、と1は考えます)
でも、人間は、周辺領域がものすごく肥大化している。
(ちょうど脳の構造と同じ……
「周辺領域」=大脳、核になる<衝動>=それ以外)
で、時には周辺領域に「埋没(笑)」して、
元になっていたはずの<衝動>が見えなくなってしまったり
現実の行動の中で歪んでいたり、無意味化されてしまっていたりする。
=「アンバランス」だと思う。
(まだつづく……(鬱)
305 名前:1 [2002/10/09(水) 07:08 ID:hwek2sYo]
>>303-304のつづきです(ぜえぜえ)
「母性本能」は、他の動物と同じように人間にもあると思います。
(子育てをするのは、少なくとも哺乳類では必須)
「母性」としてしまうのは、既に定義づけに偏向した考え方がある?
とすれば「子育て本能」とでも。
ただ、他の行為と同じように、周辺部が肥大化していて、
たとえば
「女が子育てするのが当たり前」vs「男も子育てに参加するべき」
というようなことですら、
他の動物だったら一定のパターンで固定しているはずのことがらでも
いろんな定義づけでどんどんやり方を変えていくことができてしまう。
このレスの冒頭で、もう言っちゃってるんだけど、
問題になるのは「子育てする(したい)」という衝動が
必ずしもその子を妊娠・出産した「母親」にあたる個体だけに固有なのではなく
「父親」やその他の「成熟した大人個体」にもあるのに、
「母性」とレッテルを貼ってしまった段階で
その衝動が恰(あたか)も「母親にのみ固有」とされてしまう、ということ。
このような事態を、私は「本能が壊れいてる」というような言い方で前にも言及したし、
ここでも「周辺部の肥大化によって核となる衝動が歪められ、無意味化されている」
ということの実例として挙げたい、と思うのです。
306 名前:1 [2002/10/09(水) 07:19 ID:hwek2sYo]
>>303-305をまとめると(ひいひい)
Kさんが提示した「母性本能ですら作られた概念」というのは、
細かく見ていくと、
一つの衝動(本能)による行為(=「子育て」)なのに、
それを偏向した定義づけによって歪められているため(=母親に固有)
定義に対して頷くことが困難になってしまう(=子育ては母親がするべき)、
ということなのでは。
なんとなく「子育てに父親も参加しろ」とか、
いちいち言われないとそういうことがなかなか行われないので
そっちのほうが「後付けの概念」のように見られがちだけれど、
どういう行動に現れるかはともかくとして、
「子育て本能」は母親以外の人間にもある。
また、その裏返しとして
>女に生まれたからと言って理想的な母親になれる資質を、
>自動的に付与されるわけじゃぁ、ないってこと。
=肥大化した周辺部によって、
母親ですら(?という言い方すら既に偏向してると思うけど)
「本能的に(=資質によって)子育てする」ことができないのも、
同じような事情によるもの、と考えられるのです。
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なんでこんなに長文のカキコしちゃったんだろう?
(しかも、まだ連続投稿は続く……)以下、私の個人的な言い分を書いたけど、
思い切って書いちゃったのを後から見ると
「それはちょっと、ないんじゃない?」という気もする。
願わくば、私自身の元パと子ども(←子どもは「元子ども」じゃない!
「元」は「元(はじめ)ちとせ」だけでいいじゃん!)が
歪んだ思いに駆られていませんように……
(けっこう心配;でも、私にはどうすることもできない)
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307 名前:1 [2002/10/09(水) 07:30 ID:SO5gpemY]
1=農協の個人的な体験と思いだけれど、
私自身、しばしば「本能」としか理解できないような
「子育て衝動」に駆られます。
自分の子どもに会いたい。
話したり、遊んだり、したい。
子どもの成長を喜びたい。
でも、それは「できない」。
本能が歪んだ果ての、悲しい「定義づけ」によって。
「おまえが自分勝手な考えで子どもを捨てたんだろうが」
と言われるでしょうね。
違います。
私は、子どもを愛するからこそ、
子どもが安心して育っていくことを守るために
身を引いたのです。
こんなコメント、いくら書いてもどうせ
「卑怯な屁理屈」としか思われないでしょう。
確かに、理屈をつけたらそんなふうに言われても仕方がないような
お粗末なものになってしまいます。
でも、理屈にできない部分(=衝動?本能?)で、
これは私の実感だし、譲ることができない思いなのです。
308 名前:1 [2002/10/09(水) 07:43 ID:SO5gpemY]
以前、「妻子持ちトランスの集うスレ」や、
それよりも前にTSFJの掲示板で言われて、
とても傷ついてしまった言葉がありました:
(「妻子持ち……」では、直接私が言われたのではないにもかかわらず、です)
>独身ならともかく、自分の意思で結婚して子どもを作った以上、
>自分の幸福を犠牲にしてでも配偶者や子どもの幸福のために努力しなければならないというのが
>当然の人間の倫理ではないのかな?
>
>もし漏れが妻だったら、こんな好き勝手なことを言う夫に人生狂わされたと思うだろうし、
>ましてや親を選べない子どもにとっては悲劇そのものだね。
何度でもコピペしてこの発言は徹底的に叩き潰したい、と強く思うけれど、
このように考える人は、お願いだから考え方を変えてほしい。
理由は:
1)>自分の意思で結婚して子どもを作った以上、
>自分の幸福を犠牲にしてでも配偶者や子どもの幸福のために努力しなければならない
というのは、言葉の上ではきれいな真理みたいに見えるけれど、
現実には絶対不可能です。
父親だろうと母親だろうと、
自分が幸福になれないのに子どもや家族を幸福にすることなんてできません。
それは「幸福」についての定義づけを誤っていると思うし、
独善的な自己犠牲を常に見せ付けられて育つ子どもは
親から歪んだ認知を与えられるせいで、
自分が幸福になるということを健全に思い描くことができないのです。
(「それでも自分は親のように勝手な生き方はしない」と決意して幸福になれる人は
親以外の人から育てられたおかげでそうなれるのです)
(つづく)
309 名前:1 [2002/10/09(水) 07:58 ID:SO5gpemY]
>>308のつづき (ちなみに、308の本文は「省略され」てはいません(^^;)
2)また、もしも
>こんな好き勝手なことを言う夫に人生狂わされたと思う
そんな妻がいたら、悪いけれどその妻の思いも歪んでいると思う。
たぶん「私が犠牲にされている」と思うだろうし、
それは>>308で挙げた「自分を犠牲にして妻子の幸福を」というのと
全く同じような歪みだと思う。
残念ながら今でも、そのように歪んだ役割を抱えてしまう「妻」が多いのは、やはり現実。
3)>ましてや親を選べない子どもにとっては悲劇そのもの
あーもうめんどくさい。
こんなの、甘えた厨房じゃん。
そんなことが問題になるのは「コインロッカーベイビー」くらいのもの。
親だって子どもに対して何を選べるというのか?
理屈が思い浮かばないけれど、
こんな言葉をかけられたり思いついたりする子どもは、
きっとなんでもかんでも「悪いことは人のせい」にして
決して自立することなく生きていくのだろうと思う。
(ていうか、そういう若者の姿はなんとなく想像できる……うう、寒い)
それもまた「歪んだ認知」にまみれている、としか思えない。
子どもにとって、トランスした親を誇りに思えるよう周囲が協力することこそ
その子の人生を「悲劇」という自己陶酔に陥らせてしまうことを防ぐための
最善の道だと思います。
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以上。
私の書き方もそれなりに歪んでいる、とまず思うし、
「妻」とか「子」に責任を転嫁しているようにも見える。
夫の身勝手でひどい目にあっている「妻子」は確かにいるし、
私のケースが全くそうではなかったか、といえば、
正直言って、返答に窮する。
でも、「夫」としての私の側がいつまでも「元妻」とか「子ども」とかに
おかしなこだわり方をしていても、
彼らは決して幸福になんかなれないと思うので、
なんだか冷たい言い方になってしまったけれど
はっきりと書くことにしたのだった。
で、厳しいようだけれど、これ以上の道はない、というのも
正直な思いなのだ。