- 2002年06月22日(土) 小説・太宰治
実を言うと、
密かに『小説・太宰治』というのを読んでいる。檀一雄・著。
なかなか面白い……っていうか、とてもなじみのある日常が描かれてるな、と。
と、そう思ってしまうのは、やっぱり「太宰」が私の中に根付いてしまっているからかもしれない。
昔、学校帰りのバスの中で太宰を読んでたら、隣に座ったおばさんが
(中学生にとっては30代も50代もひとしく「おばちゃん」(-_-;)
「あたしも昔は凝ったものよ……でも、太宰に入り込みすぎちゃいけないわよ」
と忠告してくれたのを思い出す。
今もしもその人にまた会って
「太宰のほぼ全作品を、最低3回は読破しました」
などと言ったら、その人はどんな顔をするだろうか。
小説の内容は、主に太宰がまだ20代だった頃から始まっていて、
太宰が死んじゃった年齢よりも年上になってしまった今の私の目には
「若いなあ!」
と見えてしまう。
っていうか、私も年取ったなあ……
あの頃の「小説」は、今の文化で言えば「アニメ」と同じような、
不思議なパワーを持っていた。
そのジャンルの、強く伸びていく期間……それこそ「思春期/青年期」とでも呼べるような。
その力強さと相俟って、作り手はなぜだか「無頼」な生き方してることが多かった。
作者の「自己」が「表出」してしまうような。
(「自己表現」と「自己表出」は違う、って高校時代に現代国語の授業で教わった。
なんかさあ、「高校の国語」っていちばん意味がなさそうに言われるけれど、
実は残りの人生の中で一生引きずっていくような「価値観」を
かなり大量に、しかも重要なものばかりを植え付けられる授業だと思わない?)
自己表出=「表現」と言い切れるほどには表現技術を使っていなくて……ていうかそれどころじゃなくて
「受け手」の存在を無視したままに自己があふれ出ること。
私はこの言葉を、実はどちらかというと「マイナスイメージ」で捉えていた。
『エヴァンゲリオン』@テレビ放映版の最終3話みたいなもの。
現代の「小説」は、インターネット上でとても軽い扱いをされるものが
雰囲気として作り出す何かがまだあるように私にも見えるけれど、
それ以外は、
ちょっとばかり、
ばかに高いお金を払わないと聴くこともできない「クラシック音楽」とどこか似ているような気もする。
歴史は繰り返す。
ただ、そっくりそのまま繰り返すほどの単純バカじゃない。
手を変え品を変え、あたかも「これは繰り返しなんかじゃないっ!!」と
その存在によって自己主張しながら、
畢竟同じようなものなのだ。
だから、たちが悪いけれど、もしかしたら「おばかさん」は「おばかさん」でしかないのかも。
あんがい、「芸術」というものは、「人格障害」を抱えた人たちが
そうではない人たち(だいたい人口比で1:49くらいの割合になるらしい)と関わるための
形式を備えたコミュニケイション手段なのでは。
あー、そうそう。
これもまた、年齢が過ぎちゃったけど、ジョン・レノンも「人格障害」っぽいところは多分にあったよね。
(そういうこと言うと、キリスト教圏の人たちが「余計なことを」といって
そういう言説をつぶしにかかるのかも。
あ、違った、ジョンはキリスト教の範疇から既に離れてしまっているので
「お構いなし」だったんだっけ)
こういう文章に、高校時代は「無駄書」というタイトルをつけては
ぐだぐだぐだぐだと書き連ねていたっけ。
さあて。
そろそろ、その「高校時代」の、私が唯一「連載」した小説を
データにしようかな。っと。
……
っていうか。
取り残されて生きてるのって、寂しいよね。
自分から死にたくはないけど、
汚く生き延びるのもめんどくさいし、
みっともないよね。
こんなこと書くのは、
あまりにも後ろ向きすぎて、たくさんの人から怒られてしまうだろうけど。
(ていうか、怒ってくれる人のいる幸せ、かな? ……
ごめんなさい。ありがとう……)