- 2002年03月03日(日) 3月1〜3日 怒り(ペット) 現代歌舞伎 旅 廃屋
★1・3月1〜3日
★2・女よ、怒れ(サブタイトル:ペット)
★3・現代歌舞伎
★4・旅……
★5・廃屋3月1日:あざみさんと会ってカラオケで盛り上がる。
〜まどかちゃん宅へ。
3月2日:お昼ごろまでまどかちゃん宅。
〜午後、あるミーティングに出席。
二次会の後、帰ろうとしたら、「ムーンライトながら」は満席で乗車できず!!
……仕方ないので、最終の普通列車(というより区間快速)でK**まで行き、
美里さんのところに泊めてもらうことに……
↑しかも、
(1)携帯の電池がなくなって、メールも電話もできなくなってしまった!!
(2)けっこう眠くなってしまい……N**のあたりでちょっとうとうとして……
へ?! K**駅の……ドアが閉まるところで目が覚めた。
けっきょくA**で降りてコンビニへ走り、そこまでお迎えに来てもらったのだった
(-_-;;
3月3日:これから帰ります。
私の旅は、なぜかいつもどこかで破綻する。
まあ、ハプニングそのものに対して、それほどうろたえてないからいいけど。
っていうか、そこがいけないのかもしれないけど。(鈍感ってことだよね……)(これらの記事は、下の日付でもおわかりのように、
3月2日、大阪で書いたものです)
=原案帳メールより=
送信者 : "章香(あやか)"
宛先 : jackie-matthews@syd.odn.ne.jp
送信日時 : 2002年3月2日 1:39
件名 : 原案帳 : ペット
「人は裏切るけれど、動物は決して飼い主を裏切らない」
という言葉を、もしかしたら私宛では、という状況で言われたことがある。
私のその時の素直な気持ち:
「それじゃ、私、ペットにも劣るっていうこと?」
でも、その気持ちを直接に相手にぶつける気になど、とてもなれないのだった。
だって、反応が予測できるから。
「そんなつもりで言ったのではありません。
お気を悪くされたのなら謝りますが、どうか真意をわかってください」
あれほど私にしがみつく素振りを見せながら、
私が自分の思いどおりに動かないと
「人から心無いことを言われて」
と、「人」という一般論にされてしまう。
その言葉を見た時、私は確かに自分の心が氷りつくのを感じた。
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……そうして、今。
少し時間がたって、
上に書いたような怒りは緩んできた。
でも、あの人たちが私を「飼いたかった」気持ちが理解できても、
それを許すことはできない。
人の命を引き合いに出したり、
男だった私より「弱い立場」の者の気持ちをコントロールして
私に向かってけしかけたり、
私を逃がさないための「檻」はとても複雑で巧妙な構造になっていた。
そうして。
私がこうやって、辛い気持ちをぶちまけるようなことを書いたのが
自分のことを言っているのだ、と気がついたら、
あの人はどう思うのだろうか。
それを思うと、やっぱり私の心は寒くなるような感じがする……
「そうじゃなくて」と、結局自分を正当化してしまうんだろうな……
現代の般若を見るような思いだ。
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なんで私が、関西まで来ていながら、いきなり怒りだしたのかというと。
斎藤学(さいとう・さとる)著『家族の中の女・男・子供』という本を読んで、
今の自分は怒るのがへただ、と思ったからだ。
でも、ここを読む人はよく知っていると思うけど(^^;、
私、けっこうしょっちゅう怒っているよね?!
なのに、なぜ「怒るのがへた」なのか。
きっと、怒ってないときに、自分が怒ることもある人間だということを、
忘れているのが問題なのだろう。
なんだか、すごく損した気分。
怒るのは、決して悪いことじゃないのに。
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補足:
「裏切らない」という言葉が、まるで「自分がそのものに対して
神であるかのように支配できる」
という意味に思えて仕方ない。
人間だけでなく、動物だろうと植物だろうと、
自然にあるもの全てが、ある意味で人間を「裏切る」。
地面がほんのちょっと揺れれば、私たちは最愛の人を奪われることだってあるし、
飼い主がほんのちょっと目を離した隙に逃げ出してしまった小鳥は、
飼い主を「裏切った」のではないのか。
「人は」という言葉で私を非難しないでほしい。
あなたの支配から、私はようやく自由になったのです。
もちろん、あなたのほうに「だけ」非があった、などとは思っていません。
私自身も、自ら支配されようとしたところがあったはずです。
けれども、あなたのペットが命を失うその次くらいに、
私は多くのものを失ったし、
その原因のかなり大きな部分は、あなたに起因しているのです。
「心無い言葉」などという一言で片付けられて、
私は物凄く傷ついてしまいました。
(実はその同じ言葉は、前にも私の気持ちを黙殺するために使われたことがありました)
それほどまでに、ご自分が私に対してしたことが
わかっていないなんて、と。
きっと、時間が解決してくれるとは思うけれど、
まだあまり時間が経過していない今、
私にはとうてい、
私を襲った悲劇を、
許して受け入れることはできないのです。劇団『総演劇化計画』のお芝居を観た。
何しろ一度きりなので、細かいまるで「評論」みたいな感想は書きません。
でも、ともかく面白かった。
ナマの「歌舞伎」を見たのはこれが初めてだったけど、
……っていうか、もしかしたら「歌舞伎と呼ぶな」といって怒る人もいるかもしれないけれど、
私は紛れもなく「歌舞伎(かぶき)」の真骨頂を体現した作品だったと思う……
楽しめた。
笑った。泣いた。ちょびっと、萌えた(#^^#)。
役者さんたちの年齢層が、20代最初から30代末か40代はじめくらい(?正確には知らないけど)だったけど、
どちらも「羨ましい」と見えてしまった。
熟練した役者さんは、とても素晴らしい技術に裏打ちされた表現力を持っている。
同世代の私がいきなりやろうと思っても、絶対に無理。
(っていうか、当たり前だけど、とにかく「いいなぁ」と思っちゃう)
そして、若い役者さんたちの演技。
「未熟だけど体当たりで……」とかいうことは、言わない。
むしろ、まじで上手だ、と思った。
(目が肥えてない、っていう人もいるかも。でも、だったら、肥えてなくてラッキー♪)
そうして、
とっても、
魅力的だった。
男優さんたちも、女優さんたちも。
**いちおう「歌舞伎」なので「野郎」が中心、女性はほんのちょっと。
でも「だから目立つ」とかじゃなくて、女優さんたちも、本当に上手だ、と、私は思った。**
今どきの若いモンは。
まったく、なんてすばらしいんだ。(ケータイの電源も切れてしまって、
持っていたオフラインの原案帳ノート……ほとんど書かないけど癖のように持っている……に
書いた内容。
そういえば、ノートの『原案帳#18』まだ終わってなかったのに気づいた。
やば、『#21』作っちゃったよー(-_-;
『#19』は「Sim」の日記、『#20』がこれ。
こないだやってた『オフライン原案帳#21』←としたけど、どっちかというと
『#20.5』くらいが正しい。
でも、私はソフトのバージョンみたいに「.xx」とかいう表記はしたくない)
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<旅>と<いのち>の<行き先>
ここ半年、よく旅をする。といっても、必ず何か目的はあるけれど。
そうして、その中で必ず、無計画さゆえのハプニングが起きる。
今回は、「ムーンライトながら」に乗れず、静岡まで帰れなかった ということだ。
なんだか、旅のこうした「破綻」のしかたは、なんだか
私の人生のある面を表しているようで、おもしろい。
私はどこへ行くのだろう?
私のいのちは、どのように終息していくのだろう?
Fくん(弟)の財力が尽きたとき、私は旅をつづけられなくなる。
そのことにも、なにかしらの意味があるのだろう。
旅そのものは終息し、それでも私は生きつづける。
旅の道すがらに拾ったものを、私はどこへ持っていくのだろう。
――きっと、NさんやUくんに渡したいのだろうな。
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以下、具体的なことが続く(^^;
そうか、やっぱりオンラインで書いているときは、
それなりに「隠す」ことをしているんだなあ。
完全にオフラインのみ、というかスタンドアローンなかたちで書いたものは
データとしてはいつか消えてしまうから……
(あまりにも簡単にぱそこんがすっ飛んで、大切なデータが昇天してしまったこと、
何度あるだろう……
まあ、それすらも「マイクロソフトの世界支配への野望」という気もしないではないけど)
オフラインで書く、という作業も続けていきたい。
キーボード打つのと、微妙に文体も変わるし、
思考方法も変わる。
どう変わるかというと、
ペンは白い紙に文字を生み出していくけど、
キーボードは文字を画面に印字していくだけで、
「生み出す」ことはない。
「だから何?」という人が多いのだろうけれど、
私にはとても大きな違いに思えてならない。
だってさ、文を書くのは指でしょ?
私、あんまり頭では考えてないもん。
「手」が考え、「手」が書いているのだ。
漫画を描くのは「手」塚さん。しまった故人だ。合掌。
……(^^;
っていうか、少なくともそういう部分がかなりあると思う。
思いません?
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本文のつづき。
私のいのちも、旅と同じで、無計画、無謀のせいで、
とんでもないハプニングに出くわして、
多くの人に迷惑をかけながら、終息へと向かうのだろう。
弟には何を渡してあげられるだろうか。
もちろん、私がお仕着せで「家庭」をあげるとか、
できもしない「たくさんのお金」をあげるとか、
そういうことは考えにくい。
っていうか、考えられない。
「お金」は、おぶさっているくらいは返したいけど。
UくんやNさんには「お金」をあげたい。
でも、それは、他に何もできない、最も貧困な状態だからだ。
前に「お金は価値観を数値に変換したもの」とか書いたけれど、
それ以外に価値観を共有することができないから、
見てすぐ誰にでもわかる「数値」にしなければならないのであって、
たとえば私がUくんを見守っていることとか、
私が死ぬまでNさんを愛していることとか、
そういう「数値」にしようのないことは、どんなにお金を積んだって
実現したりはしないのだ。
でも、それが現実だから、仕方ない。
しかも、その「最も貧困なこと」すら、できちゃいないし。
あんまり遠くないうちに、ありったけの愛を込めて、
お金を贈ろう。
でも、そのためには、お金を作らなくては。
それも、自分にあったやり方で。
あってないやり方しても、長続きしないから、もういや、そういうのは。
「自分にあってる」というのは、私が自分で決める。
「これがあってる」って。
勝手に。
私以外の誰にわかる、そんなこと。
私が一人で勝手に決めるしかないじゃん。
「世間」のことは、一切気にしないで(←っていうほど気になってるけど(-_-;)
他人が「無理だ」ということほど、私にはあっているのだ。きっと(←自信ない(-_-;)
……んーと。
このくらいにしておこう。今日、お芝居の会場に行ってみたら駐車場が一杯で、
あのあたりは私が学生時代に下宿していたところのすぐ近くだったので、
勝手に置ける駐車場(ヒミツ!!)を探し出して停めたけど、
「すぐ近く」といっても5分くらいかかるところだったので、
開場間際の時間だったから、5分の道のりのほとんどを
走ったのだった。
自分の脚でそんなに長く走るのは、何ヶ月ぶりだっただろうか。
とても気持ちよかった。
途中、誰も住んでいない県営住宅の広大な敷地の脇を通った。
とても不可解だし、もしかしたら怒るのが正しいのかもしれないような状態だけれど、
私は不思議と「美しい」と思ってしまったのだった。
平屋の、中途半端に新しい(といっても60〜80年代ふうのコンクリートか何か)、
静まり返った住宅が、
扉も窓も板を打ち付けられて、
黙って何棟も並んでいる。
シュールな美しさだった。
……ああ、そういえば、それらの県営住宅には、
私の学生時代にはちゃんと人が住んでいたのだった。
住みやすそうなのに、なぜ今は廃屋になってしまっているのだろう?
シュールで、不可解で、美しかった。
ちょっと、今夜のお芝居と似ている、と思った。
(お芝居そのものは大盛況だったんだけど(^^;)
そういえば、1往復半したのだった。
途中、休憩時間に、正しい駐車場に入れなおしたので。
疲れた。
寝よう。
zzzzz.....
(もうええっちゅーに)