- 2002年02月12日(火) いのちの質
★今日の予定は:
今日の予定は:
★1・いのちの質
★2・「いのちの質」への補足
★3・がんばりすぎたり、弱ったり
・法律相談(午前中)
・バイト(13:00-17:00)
・劇団(今日は必須じゃない…作業中心かな)
あ。
なんだ、これだけで終わりじゃん!
やり残し:
・日本語勉強
・製本化した「作品集」友人達に送る
・友人から借りたネームを読む
体力不足。
ぐすん(;_;)
劇団に行く前に、と思っていつもの薬を飲んだら、
眠くなって眠ってしまった。
「QOL」という言葉がある。
英語で「Quality Of Life」という言い方の略語。
本来は「生活の質」というような訳語が適切な言葉だ。
GID(性同一性障害)治療も含め、医療において疾患の苦痛を緩和軽減し、
日常生活を安楽に営めることを目指す、という意味合いをもち、
時にはその疾患に対する治療方針となることもあるようだ。
実は、母が亡くなった原因である「癌」に関わって、
「QOL」ということの深みに触れた思いがしたのだった。
というのは。
母の治療方針が、ほかならぬ「QOLの向上・維持」だったのだ。
そうして、それは、高齢の母にとってその癌が、
手術や放射線照射などの方法で完治させることのできないための
「次善策」だった、という意味でもあった。
最初、「医者の逃げ口上」という感じがしないでもなかった。
ただ、母にとって、現実には
「QOLの向上=苦痛が少ないことにより、体力の減退を防ぐ=最高の延命策」
ということになり、この治療方針は実は決して「次善策」なんかじゃなく、
「最善策」なのだ、ということが、徐々に理解できた。
それと。
私自身、ホルモン療法を受けてきたけれど、
それもある面で「QOLの向上・維持」を目的としている、と言えないことはない。
その理由については、私にとって「主治医」と呼んでもかまわないと思っている、
GID治療に関しては経験の豊富なお医者さんがおっしゃっていたことだけど、
私なりの思いも少し交えて書こう。
GID治療において、まあ確かに患者のなかのある人たち(含・私(^^;)は
最初から目標を「SRS(性別再判定手術)!」と決めちゃっている人もいるわけだけど、
もしかしたらそれは「思い込み・勘違い」かもしれない。
そうして、GID、というよりも広い意味で「性別違和」の最も主な症状は、
たとえば「MtF(男性→女性を訴える人)」においては
「男性的性欲または陰茎の勃起」
に対するものであることが圧倒的に多い(らしい)。
とすると、とりあえずその「男性的性欲または陰茎の勃起」を抑える対症療法を施すことによって
「性別違和」の原因が除去または緩和され、
そのことからくる苦痛があまり感じられなくなれば、
もしかしたらとりあえずそれで患者としては満足できて、
「手術まではしなくてもいいや(お金もかかるし怖いし、さすがに体にメスを入れるのは)」
と思うようになるかもしれない。
つまり、
「QOLの向上・維持によって症状が緩和され、事実上『完治』とは言えないまでも
それに限りなく近い状態になった」
ということになる。
なんか、まだるっこしい言い方ですみません。
ものすごーく簡単に言うと、
「ホルモン投与で、あの嫌な男性的性欲とか勃起とかなくなりました。
今はもう、『男の体のままで生き続けるのはもうイヤだ、死のう!』とか、思わなくなりました。
とりあえずそれで気が済んだので、手術とかはしなくていいです。
治療してくれてありがとうございます。感謝しています」
ということだ。
ただ、私はそれでは「気が済まなかった」(-_-;。
(このことについて、私はオンラインで「言わずに過ごそうとしていること」があるけれど、
それはいずれ……っていうか、多くの人に対して「ばればれ」だろうけれど、今はまだ。
ごめんなさい、私、弱いの)
一方では自分のGID治療において、そうして、もう一方で母の癌治療において、
私は「QOL」ということについて、体験し、考えさせられた。
母は死んで、私はまだ生きている。
もちろんそのことは別にどっちが勝ったとか負けたとかいうことではない。
死はとても怖いことで、できるだけ先延ばしにしたいとは思うけれど、
それ自体は決して悪いことではないし、
私も含めて今生きている人は必ずいつか死ぬので、
できるだけ穏やかにそれを迎えられれば、と思う。率直に。
私はGID治療を受けつづけてよかったと思っている。
なぜなら、
ちょっと大げさかもしれないけれど、
治療を受けなかったら、私は死んでしまっていたかもしれないから。
うーん、やっぱり、大げさ。
軽々しく「死」を振り回すのは、みっともない。
だって、「死んでしまっていたかもしれない」というのは、一言で言えば「自殺」のことだし、
私は世界中から嫌がられても、とりあえず自分から死ぬのだけは
最後に私の存在を許してくださっている方に対してあまりにも恐れ多いので
それだけはしないことにしているから。
少なくとも、今のところ。
その「方」って神さまのことだけど、きっと
「神さまを持ち出してそういうことを言うのは甘えてる」
とか思う人、けっこういるんだろうな。
うん。
私、甘えてるよ。
人間どうしだったらそこまで許されなくても、神さまだけは甘えていいんだもん。
全知全能だから。
その神さまが「おまえ、生きてていいよ」って甘やかしてくれてるのに、
それを反故にするなんて、悪くて悪くて。
ちゃんと甘えなくちゃ。
あっ、しまった。
話が逸れた。
どこから逸れたかと言うと、「GID治療を受ける」ということから。
私はGID治療を受けている。
確かに、精神的に「もう生きていくのはイヤだ」と思いつめてしまうことは免れて、
それからも生き続けることができるようになった。
ただ……
体力がとても衰えて、どうやら私の命は以前よりとても弱くなってしまったんだなあ、
と感じる。
今まで書いてきたこと……母の死も含めて……
そういうこと全般に思いをめぐらすと、
「QOL」という言葉が「生活の質(苦痛なく生きていけること)」ということだけじゃなくて、
「いのちの質」とでも呼ぶべき側面を持っているのではないか、
そんなふうにも思うのだった。
私のいのちの質が低下している。
そんなふうに感じてしまうのだ。
余計なことかもしれないけれど、
GIDを自覚して、それでも生きていこうと思う人がいたら、
できるだけ早い年齢のうちに、できるだけの治療は受けてほしいと思う。
今は昔と違って、きちんとお医者さんの指示に従いながらホルモン療法や手術療法を受ければ
心身ともに健やかに、きっと長く生きることができるのだろうと思う。
残念なことに、私はあまり日本国内で「性転換したお年寄り」を見たことがない。
(テレビで一人だけ見たことがある)
けれどそれは、医療によってGIDの当事者をきっちり救済する方策があまりなかったからなのではないか。
(そういえば、そのテレビで見た人というのも、アメリカで手術を済ませたのだった)
私自身が「もっと早く治療を受けたかった」という思いを強くするのと同時に、
そんなことも考えてしまう。
多くのGID当事者の「いのちの質」を高めるために。はっきり言って、「いのちの質」は医療を受けることを否認する人に対して
半ば反論のように書いた、という面もある。
ていうか、その人に対して怒っていて、むきになって書いた、ということではないけど。
その人は
「ホルモン打ちすぎて頭が飛んでる」
という言い方を引いていた。
順番が間違っている。
性別違和で頭が飛んでるから、
ホルモン打ったり手術受けたりしなければ生きていけないんじゃないの。
その人は
「不幸を売り物にしたくない」
と書いていた。
でも、惨めなのは百も千も承知で言うけれど、
「私ってこんなに不幸なのよ〜〜〜!! わかってえ〜〜〜〜〜〜っ!!」
と大騒ぎをする人には、そんなことをしなくてはならないほどの何かがある、
ということに対して、
私は鈍感でいたくない。
ていうか、私自身、そう見えるかも。
あんまりそういうことをしている自覚はないけど。
しゃあしゃあと書いちゃう。
私自身、まるで「脳が男」であるかのように、
男そのものみたいな生き方・考え方・感じ方をしていたことがあります。
でも、それ、懲りたんです。
きっと、本当は「男だから」ではないでしょう。
けれど、私の周りにも、ときどき
「理論的に正しい」
という言葉を振り回す人がいて、ほとんどは男です。
「正しいか誤っているか(→私は正しいんだ!!)」でものを言いたがる人は、
自分の感じたことを人に受け入れてもらうためには
「正しい」と証明されなくてはならない
と思ってしまっているのではないでしょうか。
でも、それって、自己評価が低いせいだと思う。
自己評価が低いまま、追い詰められてしまうと、
それでも感情的に爆発できないほど重症の人は
「私の言っていることは間違っているか?(正しいだろう?!)」
と居直ります。
まるで、その言葉によって、
自分の症状を最後の最後まで否認できるとでも言うように。
男だけではなく、女でもそうなってしまう人はいます。
でも、私は懲りました。
そんなことより、人の言葉に耳を傾け(ちゃんと読み)、
理解し、共感すること。
そのほうが、よっぽど大切だ、と思います。
もちろん、ものごとによっては
「正しいか、間違っているか?」
が、とても重大であることもあります。
でも、それはほとんどの場合、
「今、ここで、私にとって」
であるような気がしてなりません。
少なくとも、私は「他人事」なのに「それは正しい」とか「間違っている」とか
言う気にはなれません。
(ちょっと待て;推敲していて気が付いた。
何行か上に「順番が間違っている」と、私自身が書いてるじゃないの。
でも、それ、確かに「今、ここで、私にとって」にほかならない(-_-;
……っていうことは、これでいいのね?)
また、一般的に、私自身について起きたことでも、
過去のことについて「正しかった、間違っていた」を「判定」するのもやめました。
だって、今思い返せば「ああしなければよかった」と思うことでも、
「そのとき、そこで、その私にとって」
そうするほか、思いつかなかったのだから仕方ないと思うし、
何をどんなに言い立てても、
事実は事実、です。
(愚痴:「私は間違ったことをしてきてはいない」という人がときたまいます。
けっこうびっくり、トンデモなことを言う人だと思います。
ああそうか、そんなにびっくりしたからこんなふうに書きだしてしまったけど、
今は穏やかに眺めましょう。そんなに追い詰められている(いた)んだ、って)
これらの言葉を、この記事の冒頭で批判的に扱っていた人にではなく、
まず自分に言い聞かせたいと思います。
ていうか、自分に言い聞かせるように書いているのに、気がついた。……と、ぐちぐち書いたのは、
今日けっきょく劇団のほうに行けなくて、しかも炬燵で寝てしまったからなのでした。
弟には「あなたが寝る前に起こして」と一言言い残したのに、
起こしてくれなかったようだ。
(ていうか、覚えのない座布団が脇に置いてあったので、それは弟がそうしてくれたのね……
本当は感謝するところなんだろうけれど、今は悔しさのほうが先に立ってしまっている(;_;))
それにしても……
ちょっと、病的。
私がもっと若かった頃……そうね、いつ頃からなんだろう……からなのだけれど、
……ていうか小学生の頃からだった!!……
私は、ときどき不意に
「コテン」
と寝てしまい、しばらく起きなくなってしまうのだ。
有無を言わさず、突然「コテン」となるので、
人に迷惑をかけることもあるし、自分でも困る。
でも、たいていは「だらしない」と思われるので、
それは悲しいと思う。
決して「気が緩んでいる」とか、そういう軍隊みたいなことじゃない(「軍隊」っていうのは皮肉)。
目の前がぐるぐる回ってしまうほど、耐えられない眠気なのだ。
でも、理解されたことはない。
だとすると、もしかしたら、私のこういうのって、
あまりそういう人が多くいないようなこと?
……
いいや、今はあまり考えないことにしよう。
どうしてもこの状態に耐えられなくなったら、
神経とかを扱うお医者さんに、診てもらおう。