原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2002年01月31日(木) 夢の中から(メモ) +補足 +「病としての男」

(*後から編集→★「病としての男」へ / ★今日の金八先生へ)

@ケータイから書き込み。
今、10時半頃なので、これ書いたらお湯浴びてバイトへ行こう。

『さらば我が愛――ハロー・ベッキー』っていったかな、
大橋ミカさんがラジオで「シネマのコーナー」やってる。
京劇……
香港版「やおい」?!
「女形として成功するが、『性自認は男』ということにこだわる主人公。
ところが、幼馴染みの同僚(=男)に対する愛情が募り…」
おもしろそう! 見たい…
(劇団に映画に詳しい子がいるから、聞いてみよう)

ちゃんと寝ると、気持ちいい。
*あとから情報:「ハロー・ベッキー」はワラタ。
正しくは『覇王別姫』→Webページめっけ♪ http://www.netlaputa.ne.jp/~abmi/asianbutterfly/hkg/best50/saraba/saraba.html
)

昨日、劇団に「押しかけ鍋」をやった。
あ、1000字だ

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@ばりゅちゃんから、補足


「1000字だ」と思ったけど、そんなの大嘘!!
今カウントしてみたら、たったの「236字」。
どうやら、ケータイからだとその程度の文字数しか書き込めないらしい。

寝ながら書いているうちはよかったのに、
起きだしてお湯をあびたら、却ってあんまりよくない考えに取り憑かれてしまった。

私は、「元男」だった、ということと和解したい。
そのことは認めて、生きたい。
けれど、「じゃあおまえは男だ。男に戻れ」と言われても、
(今どきまだそんなことを言うおばかさんが生き残っていればの話だと思うけど)
戻りたくないし、今の姿じゃたぶん戻れないだろう。
それに、戻ってしまったら、やっぱり、死んでしまうだろう。
そこまでして生きていきたいとは、思わない。
貫きたい愛だって、あるもん。性愛じゃないけど。

↑と書いたら、思い出した。
私の大好きなミュージシャン、あぶぅ(→ http://abuj45.tripod.co.jp/ )の曲、
今でも暗記してしまっているのだ。

喜びも悲しみも 僕のところにはある
ちっぽけな愛だけど 僕のところにはある
いつだって立って行ける 光だってあるから
照れるけど 想ってる 夢だってずっとある
動いてる人生さ 切り開いてこう

真っ白な 真っ白な 画用紙に 僕の心を描いていこう
真っ白で 何もわからない明日に 思いどおりに描いて

(阿部浩之『うずまき』より/「動いてる人生さ!」)


とてもいい思い出だ。
彼にライブ、やってもらいたいなあ……

あ、いけない、バイトに行かなくちゃ!

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★「病としての男」(本文は別ページ)

★2・今日の金八先生

(『お話しましょ♪#2』に書いた内容の転載です(^^;)

見ながら……っていうか、見終わりそうになって、
書きたいことができてきたので、
ノートを開きました。

のこと
んー……ちょっと「説明的」。
でも、(私も含めて)「当事者」は
自分から「知りたい」と思っているので
下手すると「耳年増」っていうくらい
いろいろ知っていて、
ああいう「説明的」な部分を
「何を今さら」と思ってしまうけれど、
非当事者なら「初めて聞いた」という人も
多いはず。

あと、金八先生が素直に戸惑っている姿、
私には印象的でした。
当事者からは、逆に
すぐ周りにいる非当事者……っていうか「関係者」の姿が
よく見えない、ということもあるはず。
私の周りでも、もしかしたら誰かがあんなふうに
「もうちょっと待って」としか言えずに
戸惑っていたのかも。

おかま(?)の男の子
「おかま=悪役」っていうイメージになりそうで、
はっきり言ってイヤだ。
あの子なりに抱えていることはあって、
それでああいう表し方になってしまうのかも、
とは思うけど……
あの子のお話も、一度は見たい。

みゆきの赤ちゃんのこと
「想像妊娠」。
でも、「おなかの中にさびしい顔した赤ちゃんがいる」。
この言葉に、私は強く共感してしまった。
赤ちゃんは、さびしい女の子のお人形じゃない。
けれど、お人形さえも持てないまま
……「お人形」は比喩だけど……
追い詰められてしまった女の子、あるいは女は
我が子を人形と同じように
自分を慰める道具にしてしまうことだって
あるのかもしれない……

決して、「自分よりも大切」とだけ思って
愛しぬくことは「親なら当たり前」とは
言い切れない、と思う。

しかも、「自分より大切に育てている」つもりでも、
気が付いたら自分の心のひずみで
がんじがらめにしてしまっていることだって
あるかもしれないのだ。

そういうことに囚われずに
子どもの幸せを素直に実現するには
親自身が幸せになるしか
ないと思う。

追記:「金八先生」というドラマの構造
このドラマは「教育」ということをベースにして描かれている。
だから、たとえば、私にとっては私が、あなたにとってはあなたが、
それぞれに過ごした中学や高校での思い出が「自分を主人公」にして思い出されるように、
一人一人の登場人物それぞれが、それぞれ「自分にとっての主人公」である、ということを
かなり強く意識して作られている。

(長い余談になってしまうけれど、
映画『タイタニック』はもちろん若い二人が主人公として描かれてはいるけれど、
あの映画が劇場上映中のあるとき、ラジオで
「他の登場人物の過ごしているサイドストーリーも、
しっかり時間の経過などにしたがってリアルに描かれている」
と誰かが言っているのを聞いたことがあって、
ドラマには確かにそういう要素があるのだ、ということを思い出したのだった。)


「金八先生」を見ていて、私もともすれば「直」にだけ集中してしまいがちだけど、
他の子たちのストーリーも、それぞれの子がリアルに過ごす時間、
つまり「生活」を持っているものとして描かれている、ということを見過ごせない。
(『お話しましょ♪#2』には書かなかったけど、
「のぶた」と呼ばれている男の子の両親が離婚していて、本人もあれこれ傷ついたり
ヤバい悩みを抱えそうになったりしているのに、
金八先生は気づいてもいない。何の役にも立っていないのだ。
これにはすごく、やきもきしてしまう。
お父さんの再婚相手の女性は、もう完全に「児童虐待」状態になってしまっている……
かわいそう(;_;)……っていうか、身が凍りつくような気持ちにさせられる。
子役の子が本当に泣き叫んでいるように聞こえることもあり、
「たとえドラマでも、そこまでしていいんかーーー??!!」と、思わず叫びたくなってしまう)


また同時に、
金八先生のクラスは確か「30名」からなっているけれど、
いくら「有能な(?)」金八先生でも
(作者の小山内先生はできれば『有能』とは描きたくないんだろうけれど)
一人一人の子が「自分が主人公」のストーリーを持っているということを踏まえて関わるのは
30名が「限界」だと思う。

私の世代なんかは「40名学級実現!!」とか日教組が声高に叫んでいる時代だったけど、
40名でもまだまだ多すぎたのよね。
私の経験では、せいぜい教師一人あたり10名以内じゃないと、
金八先生みたいに「一人一人」としっかり向き合うことはできないと思う。
(予備校の受験のみを意識した授業とかだったら、当然話は別だけど)


まあ、金八先生自身、「みゆき」のことなんかでも、思いっきり「後手に回る」状態だったけれど、
仕方ないといえば仕方ないのかなー、と。
もちろん、みゆき本人にしてみれば「冗談じゃない!!」っていう心境だろうけど。
「1クラスに何十人も寄せ集めなくちゃいけない」って、なんだかまるで「常識」みたいだけど、
ところでそれ、
誰が決めたの?


「オマエ、なんでそんなに教師に同情的? 日教組の回し者か?」
とか思われるかもしれない。
確かに私は日教組に対して同情的だ。
だってさー、それでなくても
「生徒のことなんかかまってられるか」みたいな仕事させられているのに
当人たちだけで「職場環境改善」とか「運動」しなくちゃならなかったんだもん。
きっと、「生徒はだいじ。でも、要求を通すためには授業を止めてでも活動するしかない」
みたいな矛盾に負われていた先生、多かったと思うもん。
それで生徒を放ったらかしにしたことが許されるわけでは、決してないのだけど。
塾教師経験者は、深いため息とともに思ってしまうのだった……

私は、相性が悪かっただけなのに「日教組が悪い」だの「教師っていう職業はサイテー」だの言う人は、
許す気になれない。

(実際、無責任にそういうことを言う人が目の前にいたことがあって、
私にしてみればその無知をさらけ出す姿にこちらが恥ずかしくて仕方なかったり、
いいかげんなことを言いふらす無責任な態度に腹が立ったりしたことが、何度かある。
bouryokuokama kimochiwarui!)

あ、文字化けが。
今日は不機嫌でいけないなあ……っていうか、更年期のヒステリー?
しまった、薬飲んでなかった!! 飲もう。

っていうか、もう限りなく話が逸れてるし、
なんだか文字の色もそろそろかすんできたので、
本当に、これくらいにします……
ああ……
見えなくなる……

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