- 2001年12月30日(日) 断片集 / 夫婦漫才
★1・断片集
★2・夫婦漫才
**正真正銘の「断片集」です。**
テレビ見ながら、しかもベース抱えて。
*私は口が悪いらしい。
また「ヤッチャッター」って感じ。
*11月の原案帳:76件。
*金八先生と現在の「3年B組」が『贈る言葉』を歌う。
なんか、感動的。
*年末は、やっぱり弟とのんびり過ごすのもいいよね。
「無為」ということの大切さ。
ときどき思い出すんだけど、たいていは忘れているよね……
*なんだか知らないけれど、『ザ・ベストテン』で16年だか前の「リクエストハガキ」を読んでいる。
なんだか……なんだか……
1986年のリクエストに答えて、2001年末のステージが!
なんか、たーんじゅんに感激してしまった。つい今まで、TBS系のドラマ『夫婦漫才』を見ていた。
上にも書いたけど、その前に『ベストテン』見ながらベース弾いていたので、
けっこう「感情の解放」が起きていたような気もする。
で。
夫婦って、時には最後まで愛し合って添い遂げることがあるんだなあ、ということ。
最近、どうも思ってしまうんだけど、
元パは私のこと、愛してくれていたんだなあ、と。
「やっとあなたのいない生活に慣れてきたのに」
あの言葉、最初は「迷惑だ」と言われているようにしか受け取れなかったけど、実は
「あなたがいてほしかったのに」
と言っていたのではないか、という気がしてきた。
まあ、そうは言っても、私のいる生活なんて、
彼女にとっては「地獄」のようなものだったろうに。
なんであんな危険な綱渡りをしっかり守っていったのか、私には理解できない。
もしかしたら、地上の上に立っていても、
「ほら、これを持って綱渡りしてみろ」と言われてバランサーを渡されたら、
いやでも綱渡りと同じような歩き方になってしまう、というのと
似たようなことだったのかもしれない。
バランサーの片方は外してしまった。
彼女は残った錘のほうに傾く自分を必死で立て直そうとしているに違いない。
そうして、ようやく立ち直ろうとしているところに、
もう一度バランサーを引っ張るような真似をしようとしたのが、
私だったのだ。
もう少しよろければ、
実は自分が立っているところが綱の上なんかではなく、
しっかりした地上だということに気づくだろう。
でも、私にしてやれることは何一つない。
お金を渡すことだけだ。(それすらもできないでいる)
「夫婦漫才」。
この語は、実は「夫婦善哉」と響きが似ていて、それで「縁起が良さそう」に聞こえるのだ。
けれど、漫才のように、ずっとずっと笑いあって生きることができたら……
私だって、もっと長いことがまんできただろうに。
彼女自身にすら、決してわからないように。
「そんなの欺瞞だ」なんて、わかったようなこと言うんじゃないよ。
恋愛が求めるものは、しょせん相手の現実の姿なんかじゃなく、
自分に都合の良い理想、空想、「ファンタジー」なのだ。
性別がどうだろうと「夫婦」という関係性を持てば、
それぞれの立場に相応しい人格を自ら形成していくのが、
関係性を全うする人間の、あるべき姿なのだ。
そう思う。
今の私にとって、男も女も、どっちも「異性」だ。
どちらも愛し方を知っている。
ただ、女については、元パ以外絶対に愛する気にはなれない。
それだけのこと。まあ、たぶん一生変わらないだろう。
でも、私は人を愛したり、甘えたり、気にかけたりしないではいられない。
だから、男を求めるのだ。
今の私は、まるで私が自分のことを「男(のはず、とかそうじゃなくちゃいけない)」と
思い込んでいた頃に女のことを考えたのと全く同じように、
男のことを考えている。
男はかわいかったりいじらしかったり、面倒見てやりたかったり甘えたかったりする。
それは、私にとって、不思議と何の違和感もないことなのだった。
そっか。
中学生の頃に同級生の男の子が好きだったのと、それは全く一致する。
それでいいんだ。
今の私には二度と決して訪れることのない「夫婦漫才」じゃなかった「夫婦善哉」に
思いを馳せながら(ホントにどっちだって幸せだろうと思う)、
今年は暮れていく。
「共依存」の鎖が一つ解けたら、なんだか急にいろんなことがちゃんと見えるようになってきた。
鎖のもう一方をぎゅっと握って私を放そうとしなかった人を、ちょっと恨む。
けれど、私には私で鎖の残った一方を離すことができなかったんだから、
仕方ないか。
過去3年間、女としての自分を考え、今年になって男のことを考え、
もしかしたら(自分にとってはもう現実ではなくなってしまったけれど)
来年あたりは「夫婦」のことを考えるようになるのかもしれない。
ん?
なんだかくどくどと、長くなってしまった。
寝よっと。