- 2001年12月09日(日) 映画『Harry Potter』 / 記念日 / 観劇(5……?)
★1・映画『Harry Potter』
★2・記念日
★3・観劇(……5?)
★4・NHK教育「芸術劇場」(この記事は実は12/12になってから書いたものです)
**先に注意!「ネタばれ」の恐れあり!**
実は昨日(12/8)のことなんだけど、Fくんと二人で、封切りして1週間の映画
『ハリー・ポッターと賢者の石』
を観た。実は、……このところ「実は」がすごく多いのは、なぜか知らないけれど
何を書いてもどうしても書きにくい気がすることばかりになってしまうからなんだけど……
ちょっと物足りない気がした。でも、主人公、ハリー・ポッターを演じるダニエル・ラドクリフ(Daniel Radcliffe)くんがとてもかわいかったし
一生懸命演じているのはよくわかったし、
だから「なぜ物足りない気がしたか」を少し書こう。
だいいち、「物足りない」気はしても、「観なけりゃよかった」とはちっとも思わないから。1.文字と映像の情報量の差
本当だったら文字媒体よりも映像のほうが遥かに情報量は多いはずだけれど、
どういうタイプの情報を扱うのが得意か、ということについては
文字と映像はやや異なるような気がする。
ただ、それを一言で言い表すのは、今の私にはまだちょっと整理できていないようにも思う。
まあ、たぶん、以下具体的に「物足りなかった」と感じる項目を挙げていくと、
その特徴をまとめればわかることもあるのかもしれない。2.『ハリー・ポッター』は「ACの物語」、と言われる部分
このお話の大きな特徴の一つとして、
ハリーは魔法の世界ではすごい「有名人」なのに、
人間界(「マグル(非魔法族)」の世界、と呼ばれる)では
まるで迫害されている、と言っても過言ではないような状態で生活している、
ということがある。
それで、2年ほど前に「賢者の石」を読んでいた頃、ちょうど「AC(アダルトチルドレン)」の概念や
そのことをカギにして集う人々のことを知ったのだけれど、そこの人たちが
ハリーがマグルの中に置かれている状態はまるでACそのものだ、と言ったのを
とても印象深く覚えている。……なんだけど……
そのことは、映画の中ではそれほど「印象的」には扱われていない。
っていうか、小説の形式だったら「淡々とした語り口」というのが成立しているけれど、
あれを実写の映画の中でやったら、ハリーを虐待する「マグル」、ダーズリー一家の姿は
あまりにも陰惨で愚かに見えてしまうような描き方しかできなかったのではないだろうか。「情報量」っていうのは、もしかしたら「事実」のほかに「語り口」というのもいっぺんにあらわせる、
という点では「文字」のほうが「映像」よりも優れているのかもしれない。
もちろん、事実と語り口を併せて表現する手法、というのが映画にもあるのだろうけれど、
今度はそういうかたちで「情報量をふやす」ということをしてしまったら、
映画として全体が重たくなってしまったような気もする。3.おどろおどろしさ
本で読んだのと比べて、映像のほうが全体的に「さらっと」していて「おどろおどろしさ」が少なかった、
という気もする。
うーん、でも、これを「物足りなさ」としてしまうのは、なんだかちょっと違うな……
と、言いかけた本人が、ためらってしまう。
じゃ、なんだろう……??二つのことに気が付いた。
(1) J.K.ロウリングは水木しげるじゃない、っていうこと。
描いている世界に共通する面は非常に多いとは思う。
それは、イギリス……っていうよりブリテン島という「島国」の文化、
中心となる「大陸」に対して「辺縁系」をなしている、というような
地理的な背景を持つ一方、
同じ「地理的な背景」でも、日本とイギリスでは「緯度」がぜんぜん違う、という
別の要素で、「湿度」のあり方が違うからなのかもしれない。
(2)ハリーは11歳だ、ということ。
作者が読者として設定しているのが、主人公と同世代の子どもたちだ、ということを、
作品のあちこちから感じる。
それを「大人の目」で見てしまっても、
大人じゃなければ考えないような掘り下げ方をしてないと文句を言うのはお門違いだろう。
むしろ、大人の目で見ても評価できるような緻密な世界観を持ち合わせてしまっていることが、
もしかしたら『ハリー・ポッター』そのものの弱点なのかもしれない。*で、あら捜しはもういいから、良かったこと:
「クィディッチ」のシーンが、すごかった!!
合成した画面とは思えないほど「自然」なのだ。
これさえも、見誤ると「物足りない」と思われるかも……
でも、私は「クィディッチ」という、マグルにはゼッタイにできっこない球技を
実際に見れたら面白いだろうなあ、とずっと思っていたのだった。
で、見ているうちに、この世には本当に、普通に、「クィディッチ」という競技があるんだ、
という気がしてしまっていた。
日本にはチームはないの? とか。終わりに
これは小説を英語と日本語の両方で読んだときから、ほんの少し感じていたことだけれど、
少なくとも『ハリー・ポッター』シリーズの第1巻『〜賢者の石』は、
「11歳の心」で楽しめるお話なのだ、と思う。それをたとえば「子供だまし」とか言ってしまうのは、
私には「見当外れ」と思えてしまうのだ。
ただし、「大人の目」でも考えさせられる要素がいくらでも盛り込まれているので、
ついつい大人の楽しみ方をしたくなってしまう、というところがあるのかもしれない。
あんがい、見当外れなものを求めてしまうことが多いのかも。私は確かに、薄々感づいていながら、ちょっと見当外れだったかもしれない。
だから「物足りない」なんて言い出すのだ。2巻以降も映画化されるのだろうか。
とても楽しみだ。今日が22年目の「記念日」だ。
不思議だ。
あれからとても遠いところに来てしまったんだ、と思う反面、
それでも私は私で変わっていないんだ、とも感じる。そういうものなのだろうか。
↑数字を入れるのはもう止めよう(-_-;
だって、このままやってると、数字を入れ続けなければいけないような気がしてきそうだから。何はともあれ、今日もまた、演劇を観に行った。
劇団Rin『やさしさよりも軽い死に生きて』だ。で、その感想なんだけど。
例によって前置き長いです。
まず、前置きの前置き。
はっきり言って、「初心者のくせに理屈っぽいやつ」です、私。
先に白状するので、どうか私の評価をあまり気にしないでください。
次に、前置きの本体。
私にとって、このお芝居は「反面教師」的にいろいろなことを教えてくれた、と思う。
その意味で、観に行ってとても良かったと思う。さて、感想の本体(やっとかよ?!)。
・小劇場じゃなくて「ホール」でやるお芝居を観たのは、確か十数年ぶりだったはず。
小劇場と大きく異なるのは、なんと言ってもその規模だ。
だから、理屈抜きで「人間が小さく見える」。
ということは、小劇場のお芝居よりも、ずっとずっと動きが大きくなければいけないのだろう。
でも、だからといって、小劇場で多分に「実験的」な意味合いも含めて作り上げられる
「動き」
と同じようなことを、ホールの高さのある舞台の上で安易にやってしまうのは
正解ではないのだろう。
だったらどうすればいいのか、ということは私にはわからない。
正直なところ、今回のお芝居は、全体的に「動きが少ない(小さい)」と感じてしまった。
お話の内容が、法廷のシーンを軸にして成り立っていることもあってか、
動きを創ること自体も難しそうだったなあ、と思う。・でも、セリフから自然に沸き起こってくる体の動き、というものはあるのでは、とも感じた。
体の動きだけでなく、セリフまわしっていうかイントネーションとかアクセントとか……
全部含めて、セリフの「解釈」のことなのかもしれない。
「だったら自分、やってみな?」
と言われるだろう。
ちょっとずつお稽古してくうちに、私もこういう減らず口が叩けなくなるだろう。・パンフレットに「作者の一言」というのがあり、その冒頭に
「最近若い人のことが分からなくなった。」
とあった。
これは後から聞いてわかったことだけれど、「作者」、つまりたぶん「台本の作者」という意味だと思うけど、
その人は40代ぐらいの人のようで、その一方で役者さんたちは20代ぐらいが中心になっているらしい。
台本は、70年代の学生運動に捧げるオマージュ、というような雰囲気もあって、
たとえば私なんかは「ああ、懐かしい♪」と思ってしまうところもあるのだけれど、
それが「今の若い人たち」にとってどのように受け止められているか、……
ううーん、私にも自信がないなあ……そうだ! 一度、この作者さんと、お話ができたらいいな♪
(って、いきなりアンタ(-_-; なんにもわかっちゃいないくせに、図々しすぎるんじゃない?>自分)・作者や役者さんの「立場性」と台本の拠って立つ「世代」についての姿勢と、
内容についてのことが、不可分だけれどいったんは区別して整理しないと、
理解が難しいと感じるところもある。
(今ここで未消化のままぐたぐた書き連ねてしまうのは、
知らないうちに人を傷つけてしまいそうなので止めておきます)・内容について。
法廷のシーンなので法律そのものの持つ解釈論とか保護法益の問題とかに突っ込んでいくのかな、
と思っていたけれど、どちらかというと
主体論とか主観的な感情の問題に重点がおかれていたような気がする。
私の中では二つの思いがせめぎあっていた。
一つは「殺人か自殺か、ということについて法的に結論を出す必要があるはず」ということ。
だって、法的な結論、って決して専門家のお遊びじゃないもん。うまくいえないけど。
もう一つは「法律論を全てすっ飛ばして主観ではあれ『裁くこと』と『守ること』を衝くのは、
なんだかある面気持ちいいな♪ スカッとするぜ!」ということ。正直、ある登場人物を必然性が不十分なままで美化している、とか
法廷=「裁く」=「冷酷」と決め付けてしまっている、とか
不満に感じる部分はある。
私に言わせれば、法廷は「裁く」場ではなく「守る」場だ。
全ての裁判官がその姿勢を貫徹できているとは思えないけれど、
だからこそ弁護人がいたりするわけだし、
原告であれ被告であれ、どちらも法廷では自らが拠って立つ「守るべき法益」があるはずだ。
あ、違う。
私も言い方を間違えてしまうくらい勘違いしやすいことだけれど、
「守るべき法益」の「法益」って、原告なり被告なりが自らの必然性で存在すること、
行為したこと、あるいは告訴したこと、そのもののことだ。でも、若さゆえの感情論とはいえ、「理屈じゃなくて」という一途な正義感のようなもの、
それは「70年代」だろうと「2000年代」だろうと共通するものなのかもしれない。私にとってはお芝居そのものから見て余剰だと思ってしまったけれど、
役者さんたちがそれぞれの「見せ場」で、感極まって涙してしまっているのを見ていて、
「感情」の強さのようなもの、感じさせてもらうことができたと思う。願わくば、感性が表現につながれば。
と、私は感じてしまったのだった。さてさて。
なんだか、けっきょくエラそうなことを書いてしまった。
で、最近薄々感づいてきたけれど、↑このフレーズを書くとき、私は確かにちょっと
「それはないんでないかい?」
という内容のことを書いてしまっている、と思う。ただ、幸い、このお芝居を観た翌日ぐらいに、どうにか次の段階に当たることを、
私は気がつくことができた。はっきり言って、私があんまり入れ込めずに傍観的な見方をしてしまったのは、
「好み」の問題なのだ。
私は全体的に批判的な書き方をしてしまったけれど、感情の発露のしかたとか、
たとえば「あのくらいでいいんだ!」という人もいるだろう。
また、お芝居の作り方とかも、ああいう感じがいろんな意味で良い、と感じる人も
いるだろう。(だからちゃんとお客さんが来てお芝居が成り立つんだから)そんな中で、私にとっていちばんの驚きは、自分に「お芝居の好み」というものがある、
ということなのだ。これも白状しちゃうけれど、私にとって(もしかしたら都合の良いところだけを美化して覚えているのかも)
過去に観たお芝居は、「みんな良かった」ような気がしていた。
だから、私は「お芝居だったら何でもいい」、もっと極端な言い方をすれば、
「出された食べ物はなんでもお構いなしにうまいうまいと言って食べる、実は鈍感なヤツ」
だろうと思っていたのだ。
(よくよく考えてみると、実は私にとって「合わない」「つまんない」と感じるお芝居では、
私はとても簡単に「寝ちゃっていた」のだった……)そうでもない、自分が観て「いい」と思うお芝居と「あれ、なんか違う」と感じてしまうお芝居がある。
確かに、ある。
そう感じれたことが、私にとっていちばん大きな驚きであり、同時に確かな感触でもある。その意味で、私はこのお芝居を観て、本当に良かったと思う。
もしかしたら、次の機会があれば、私にとって気になること、
たとえばセリフに応じて相応しい「動き」ができるようになったか、とか
お話を客観的に理解した上で役を組み立てているか、とか
そういう部分を楽しみにして、また観に行くかもしれない。もしも今の私がまだまだ傲慢なのだとしても、こう感じたり思ってしまっていることは、
更に観ることでしか変わらない、と思うから。理屈だけでそうじゃないはず、こうだったはず、と空想するだけなら、
ご本人たちのことなんかお構いなしに、いくらでも勝手な想像ができるだろうけど、
それじゃヒドいもん。そうそう、最後に。
BGMが、軒並み70年代フォーク、ニューミュージックだった。
長谷川きよし、五輪真弓、はっぴいえんど、ふきのとう……めっちゃめちゃ、懐かしかった! それだけでも「行ってよかった」と思えるほど。
長くなっちゃったので本文はこちら(^^;
http://www1.odn.ne.jp/~ccp05090/gen-an-cho/200112094.htm