己のことに言葉を費やそうとすると、際限がない。 無駄な言葉ばかり蓄積されて、結局肝心なことは言葉の屍に阻まれて見えなくなってしまう。 ましてや、自分のことが靄に包まれてよく見えない時点では。 少しずつしか意味を持たない言葉を山のように積んだって、 人に何を伝えることが出来るだろう。 と言いつつも、多分また長く書くのだろうけれど。ああ情けない。
ネットをうろうろしてて、管理者の亡くなられたサイトにたまたま訪れた。 望んで命を捨てられたそうだが、ご遺族の載せられたコメントを拝見して 何とも言葉が出てこなかった。 私もつい二ヶ月程前までは、四六時中死にたい死にたいと思っていたけれど、 お陰様でもう全くといっていいほど自殺願望はなくなった。 一度実際に、死ぬことばかりずっと考える時期を通ってくると、 以前よりずっと死ぬことの無意味さ、哀しさが感じられる。 死にたい、と簡単に口にする人間は、周囲の健全な状態の人間から見ると 実に醜く、情けない生き物のように感じられるかも知れない。 「簡単に死ぬ死ぬって言って、無気力に生きるくらいなら本当に死ねばいい」 とさえ思うものかも知れない。 それは真面目に、一生懸命に生きている人ほど思うことだろう。 自分はこんなに頑張って生きているのに、あの人は簡単に生きることを放棄している、と。 私は元々、中途半端であるけれども完璧主義な面があったので、 自殺志望の人に対して、憤りは覚えずとも「情けない」と思っていた。 それがまぁ、実際に「死にたい」と口にする立場になってみたら、 なんとこの言葉のつらいことか。 生きるということは、他ならぬ自分自身によってしか叶えられないことであるのに、 どうして自分の力によって否定されねばならないのだろう。 どんな人間だって、大犯罪も起こさず、ただ生きている分には死ぬ必要などないのに、 どうして「死にたい」と思わなければならないのだろう。 「死にたい」と思うことがつらいと分かっているなら、 生きたい気持ちに素直に寄り掛かっていいのに、どうしてそうしないのだろう。
自殺願望を捨てられる特効薬があればいいのに。 どんな手段でもいいから、死にたいという苦しみから救ってあげられるといい。 かく言う自分も、自殺願望はなくなれど、依然無気力からは離れられず、 再びまっとうに生きるためにはどうするべきかと思っているのである。 ただ生きたい、と思うことすら努力が必要で、 人間は何でこんなに捻くれた生き物になってしまったのだろうか。 そしてこんな人間はこれから先、また更に増え続けていくのだろうか。 ならば人類が滅亡するのも、そんなに遠い未来のことではないような気がする。 ……ちょっと大きいことを言ってしまった。反省。
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