私的正論。

2001年11月26日(月) すべての人間に心地イイ言葉なんて有りはしない。

だってそうだろ?

死ぬ瞬間に聖書の一節で救われて、微笑みながらあの世に去る人たちが居る一方で。

死ぬほど聖書の言葉を憎んでいる人たちが居るんだ。この同じ空の下に。




すべての人間に心地イイ言葉なんて。有りはしないヨ。

でも。だからといって口をつぐんでどうなる?





言葉は時に罪深いナ。     桜木の吐く言葉にしたってそう。

昨日の自習で、ちっとキツいこと書きすぎたかな。   寝返りを打つ時思った。




けど。口をつぐんだからといってどうなる?

大事なのは、万人に心地イイ言葉なんて一つもない、てことを知ることだろ。



桜木の言葉に傷つく人が居るかもしれないのと同じように。

アンタの言葉で傷つく人もどこかに居る。


けど。だからって口をつぐんでどうなる?


桜木とアンタの距離は、どうやって計る?







言葉は時に人を癒すが。
癒すためだけにあるんじゃねーよ。

言葉は時に人を傷つけるが。
傷つけるためだけに、あるわけでもない。そうだよナ。当たり前のこと。




言葉は時に心の距離を現し。

もしかしたら。

本来はそのためのツールじゃなかったのかと、思えるほどだ。








桜木の言葉が届かない時。

それはアンタとの距離が遠いからで。


桜木が間違ってるとか。アンタが間違ってるとかいうことじゃないんだよナ。




そうだと思うよ。

だから心配すんな。


口をつぐんだって。その距離が縮まることはないし。

今以上に自分のことが好きになれるわけでもないだろう。




言うなりになんなヨ。

ただ言葉は言葉だよ。他人との心の距離は厳然としてそこにあるもんだよ。




耳ざわりでない言葉。
ただアンタを癒す言葉。

ただアンタのやってることを100パーセント認めてやる言葉は桜木には吐けない。







胸が寒くなるのは。桜木とアンタの間を吹き抜けてく風が強いからだ。

それが距離だ。





けど。それだけのこと。        それだけのこと。








聖書の言葉すら憎む人たちが居る。

ナゼだと思う?


桜木は思うんだ。

それが片方で「特定の誰かを救う言葉たち」だからじゃないのかと。
そう。
救われるのは「特定の誰か」でしかない。

だから「特定の誰か」以外の人間が傷つく可能性はゼロではないんだよナ。






救いもまた。時には罪なんだ。

癒しもまた罪。








けど。微動だにしない心は。ただ自分の心の中にのみある。




だから、心配すんな。



アンタの中に。アンタを救う言葉は溢れている。

ただそれがアンタの中から外に出た時にゃ。

誰かを傷つけるってことも、あるかもナ。

だからそんなことすんな、て言うのは簡単だが。

知らずにやるんじゃないんなら。言葉の刃に気づいた上で吐くんなら。



いいんじゃねーか。気づかないまんま泣きながらマキビシを撒き散らすってよりは。














「言葉」。まったく難しいもんだと思う。


それを扱うのに資格が要った時代が。

ある意味。正しかったのかもしれないナ。

これが今日の自習で、わかったこと。



 < 過去正論  一覧  未来正論 >


桜木



My追加