こしおれ文々(吉田ぶんしょう)
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2012年03月25日(日) |
吉田サスペンス劇場【夏美】第7話『しなやかな景色』 |
吉田サスペンス劇場【夏美】 第7話『しなやかな景色』
太陽から降り注ぐ光は海を黄色く染めようとする。波はしなやかな動きで黄色を飲み込み、また深い青を取り戻そうとする。繰り返される海と太陽の駆け引きは私の中に渦巻く収拾のつかない感情をほんの少しでも和らげてくれる気がした。憎悪、恐怖、絶望、悲嘆、後悔、憎悪、恐怖、絶望、悲嘆、後悔、憎悪、恐怖、絶望、悲嘆、後悔。大きな渦の中でもがき苦しむ私を、目の前の景色は慰めているように思えた。もう十分苦しんだよね。こっちにおいでよ。そう言ってくれている気がした。シートは今ごろ真っ赤に染まってて、それを見た瞬間、きっと私は死ぬことをためらってしまう。臆病な私はきっと誰かに助けを求めてしまう。だから海を眺めていた。このしなやかな景色をぼんやりと見つめている。 カミソリの刃が皮膚を貫いたとき、筋肉の繊維一つ一つを切り裂いていくとき、そして体温より温かい液体が溢れ出したとき、私は不思議と痛みを感じなかった。痛みが生きていく上で必要不可欠なものであるとするなら、私はもう『人』であること、『生き物』であることを否定されたのかもしれない。仮に否定されていないとしても、私は【人間】として【してはいけないこと】をしてしまった。
一週間前、彼を殺していなければ
二ヶ月前、彼をこの車の助手席に乗せていなければ
三度目のチャットサイトで夏美さんに出会っていなければ・・・
この中の一つでも欠けていれば私は前と変わらない幸せな生活を送っていたのかもしれない。
もう時間は戻せない。
もう引き返すことは出来ない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな…
薄れていく意識の中で、 私は何度もこの言葉を繰り返した。
海と空の境目がわからなくなっていく
景色の中にあるたくさんの色が一つになっていく
死ぬとは色を失っていくことだと知ったとき
右手に握っていたカミソリが 小さな音をたて足元へと落ちた
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