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―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
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2007年07月19日(木)
答えを知るのが怖い日のように。


ダンボールが入っているのもありそう、捏造でもやりそう、そんな風に捕らえてしまうのは自分が某国に対して間違った認識を懐いているからでしょうか。
まぁでも認識ってそんなもんですよね。

思春期の頃の影響は矢張り、強いのだと思う。
年老いても幼い頃の生活が人格形成に及ぼすものと同じくらい、生活自体から漫画やアニメやゲームやその辺の娯楽情報から与えられるものは、この頃こそ貪欲に鋭敏に嗅ぎ取ろうとするからか、必要以上に誇張され、美化されていく気もする。
その時にやったものが今も色褪せず心に残るならもっと色々やっておきたかったとも思うけれど、今更無理なんだという自覚はあります。
思春期云々より多感な頃? もっとこう、素直とは言わないけれど世界と接しようと努力していた姿勢。アニメを見るのに、何処が創っているとか誰が書いているとかどの人が声を当てているとか関係なく、見ていた頃のような。
それはそれで知ろうとしているという意味から外れている気もするんですが、穿ったり探ったりしないで、ただただ与えられるままを受け取り自分の中で解釈するのに手一杯というか。
漫画とアニメは多過ぎるので端折りつつ、ゲームなんか自分にとっては本当にそうなんじゃないかと。FF5、6然り、天地創造然り、クロノトリガー然り、ゼノギアスは、ゼノギアスは年頃という括りからすると微妙な範囲か?
物凄くすきで、今もとてもすきで、でもそれがこの時代にやったからこそ強く残っているのであるとするならば、今やっても同じような感動、衝動、発散したいような、じっとそれらに堪えてみたいような、感覚。
得られないのなら、虚しさが募ってしまうような気がして、実は手が出せなかったりする。途中までやっているものもありますが(え)。ゼノギアスとかゼノギアスとかゼノギアスとか。
そしてそれだけすきになった事が歳というか感性というか、関係しているのならば、逆に今新しいゲームに手を出してもふーん、あっそ。
そんな風に終わってしまうんじゃないかって不安でたまらない。たまらないと、中々やり辛い感じです。
すき、という気持ち。ヒトに対してもモノに対しても、色々な在り方があって、それらに小難しく名前をつけるからややこしくなったりもするし、その区分けで保てるものもある。
でも、その中身自体が、そりゃあ生きて経験すれば人は変わるし変わらないけれど、多感な時期だったから得られたものだ、なんて答えがあるのは、なんだか、ちょっと頂けない。
頂けないけれど肯定してしまうような気がするから、まだ見ぬ世界に飛び込む勇気が出ない。
なんだかなぁ。


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