
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2006年12月15日(金) ■ |
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| その時にまで。その時に、でも。 |
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手洗い嗽をきっちりとしましょう、というのは最早保育園辺りからの常套句ですが。 しかし現在に至るまで自分はつまり今も、それを訝しんでいたりする。 そも、外界のウイルスを家に持ち込まない為であるのは理解していますが、その程度で失せんのかよと某石鹸CMに喧嘩を売りたい訳でも無く、なんというか、外と内との差なんて大して無いじゃないですか。 外からやってきた人間が高が手を洗ったところで全身や衣服にあるものまでとれはしないし、扉に窓の開閉がある以上完全なる断絶というのは三回くらい身体検査受けないと無理でしょう。 こっそりエヴァネタを挟んでいる事はさて措いて、やれそのままの手はばっちいだとか言われましても、これまで、家という空間に入るまでそのばっちい手で外の彼是は勿論人だって触れている。手を繋ぐ相手は生憎いなくとも、それは普通にある事でしょう。 だのにいきなり敷居をまたいでから不浄のように扱われるのは、どうにも解せない。頓に我が母君様はそれが激しい方なので、尚更それってどうなの? と。 また外食したとして、寿司屋は兎も角レストランでは大抵、おしぼりで手を拭くのが大多数でそれなりにそういった面が厳しい家庭であれば食事の前はきちんと石鹸で手を洗いなさいとか言われる事も、家の中でさえなければ全くこれまでのセオリーが通用しない事もある。 どちらかといえば家という空間の方が汚れているんじゃないかと思いたくもなるような。 ならばもう毎回至る所水道があるたんびに手洗い嗽した方が願いは叶うのじゃなかろうか。 それによる自らへ侵入しようとする不届きウイルスはどうにかなるのかもしれないけれど、結局生きている間にそういう事をしている自体がなんだか不毛なんじゃないかなぁ、とか。
やっぱり人というものは、自分や自分の一部の事が、どう転んでも好きなんだと。 深読みは無くただただ、己が与えたものや己から分けたものは、可愛がりたくなる。 手法や見せ方、質が違うだけで痛めつけてても憎んでてもそうなんじゃないかな。 と、この辺は憶測です。相反してだけど近くって、なんて近年聞き飽きた理論。
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