見つめる日々

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2010年09月25日(土) 
昨日は私も娘も、毛布を掛けた。久しぶりの毛布の感触はやわらかく、あたたかくて、ずっとそのままでいたいような誘惑に駆られた。まるで繭の中、包まれているような、そんな感覚。久しぶりに娘の足蹴りにも襲われることなく、ゆっくり眠った。
起き上がり、窓を開けようとしてぎょっとする。街路樹の枝という枝が風に煽られてびゅうびゅう鳴っている。昨日のうちに回ってきた、運動会は日曜日に延期になります、という連絡網が改めて頭に浮かぶ。こんなんじゃどうやったって運動会は無理だ。私は窓際で半ば呆然としながら外の世界を眺める。でも、こうしてはいられない。
とりあえず上着を着てベランダに出る。ベランダでもびゅうびゅう風が鳴っており。デージーはもう風に煽られ飛びそうになっている。もちろん根っこがあるから本当には飛びはしないが、黄色い小さな花が、びゅんびゅん風に飛びそうだ。ラヴェンダーは、這うように伸びているおかげなのか、あまり風の影響を受けずに済んでいる。よかった。
弱っているパスカリは、全身に風を受け。ひっくり返りそうな勢い。支えを立ててやろうかとも思うのだが、風が唸っているようでは支えようがない。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。昨日のうちに花を切り花にしておいてよかった。つくづく思う。背丈が短いから、さほど風の影響を受けてはいないがそれでも。
その隣、友人から貰った枝を挿したもの二本、まともに風を受け、くわんくわんと枝が撓んでいる。でも、この枝はきっと大丈夫だろう。私が思うよりずっと、強い。
横に伸びているパスカリの、花芽のついた長い枝が、折れそうなほど撓っている。両側から、支えを挿して、どうにか揺れが半減するよう工夫してみる。せっかく蕾がふたつもついているのに、これで折れてしまったらあまりに悲しい。
ミミエデンは、こじんまりと茂っているおかげか、風に撓むほどではない。小さなふたつの蕾が、ちゃんとくっついて、冷たい風に縮こまっている。そのまま縮こまっていていいよ、明日になるまで、隠れておいで、私は心の中、そう声を掛ける。
ベビーロマンティカ、茂っているわりには風の影響を受けていないようで。でも、耳を澄ますと風の音に乗って、きゃぁきゃぁきゃぁきゃぁという嬌声が聴こえてきそうな雰囲気だ。ベビーロマンティカにとっては、この暴風も、遊び相手の一人なのかもしれない。
マリリン・モンローは、くわんくわんと枝を揺らしている。昨日のうちに咲いた花を切り花にしておいてよかった。これじゃぁまともに花が開く隙間もないというもの。長く伸びた枝が、くわんくわん、風に撓む。それでも、私は大丈夫、というふうに立っているマリリン・モンロー。それを今は信じよう。
ホワイトクリスマスは、そんなマリリン・モンローの横で、じっとしている。もちろん風に揺れているのだが、それでも何故だろう、じっとしているように見える。じっと、この風が止むのを待っている、といった雰囲気。
アメリカンブルーは、もう、千切れそうな勢いで風に煽られ、それでも六つの花を咲かせてくれている。私は改めて空を見上げる。ぐいぐい流れる鼠色の雲。台風は今何処まで近づいているのだろう。これからどんなふうに流れてゆくのだろう。
私は髪を押さえながら部屋に戻り、上着を脱ぐ。部屋の中のあたたかさがありがたい。お湯を沸かし、プアール茶をカップいっぱい作る。今朝はハムスターたちも全員、小屋の中で静かに眠っているらしい。と思ったら、ゴロが、煙突のところからくいっと顔を出してこちらを見上げた。おはよう、ゴロ。私は声を掛ける。ゴロは、くんくんと鼻を鳴らし、しばらくこちらを見上げていたが、再び小屋の中に入っていった。
カップを持って机へ。椅子に座り、開け放したカーテンの向こう、窓の外の様子を窺う。一瞬たりとも止まっていない雲の激しい動き。父や母は大丈夫だろうか。父は多分こんな風の音でも眠っていられるだろうが、母はきっと早くに起きて、布団の中じっとしているに違いない。ほんのちょっとの物音で起きてしまう母だ。今頃溜息をついているかもしれない。
私はとりあえず机に向かい、朝の仕事を始めることにする。その前に、数枚テキストをプリントアウト。郵送する前にもう一度チェックしておかないと。

「桜散景」のシリーズに、テキストを添える作業をこのところ為していた。それは幼少期に三度の性犯罪被害に遭った女性にモデルになってもらったもの。この写真を写した頃、彼女の具合はだんだんと悪くなっていく、そういうところだった。出会った頃ほっそりしていた体は薬の副作用で浮腫み、視線も虚ろで、歩くのも何処かふわふわしていた。散りゆく桜の中、彼女はそれでも美しく、私の心を射た。
テキストを添えながら、今の彼女を思う。今彼女は、実家に戻り、仕事に就いて毎日働いている。EMDRという治療を新しく始めたら、それがぴったり彼女に合っているらしく、治療の後はぐっすり眠ってしまうという。これまで繰り返し見ていた悪夢も減ってきた。彼女はそう言って笑っていた。
ここまで辿り着くまでに、本当に長い道程があった。本当に、長い長い道程だった。「今死ぬか、後で死ぬか」ただそれだけが、彼女の支えだった時期もあった。そんな時期を経ながら、それでも生き抜いてきた。そんな彼女の笑顔は、眩しいほどに今、輝いている。昔のことの痛みが、徐々に徐々に薄れてきているんだ、今。そう話す彼女。きっともう、この写真の頃のようなところへは、彼女は堕ちてこないに違いない。もし堕ちてきたとしても、彼女はきっと這い上がるんだろう。そう私に信じさせてくれるような強さが、今の彼女の声には、在る。

電話番の合間に、知り合った女の子に風景構成法を伝える。十一個の要素を順に描いていくもの。箱庭療法から発展して中井久夫氏によって生み出された描画法だ。
彼女が描いてくれた絵は、一見切なく、寂しげに見える。でも、傾聴していくにつれ、それが彼女にとってとても懐かしい、大切な思い出の風景に重なっていることが分かってくる。あぁ、最初描いていたときは全然気づかなかったけど、そうだ、これは死んだお兄さんで、こっちは私で。これが本当のお兄さんの姿なんですよ、と、しみじみ彼女は話す。彼女が大好きな川が大きく描かれ、こんもりした森と花畑、その花畑で遊ぶ兄妹。夕暮れの風景。それはとても、やさしい絵だった。

ねぇママ、この写真、全然気持ち悪くないね、どうしてだろう。娘が、岡原氏の居場所シリーズの写真を眺めていた私の横で呟く。こんなにいっぱい傷があるのに、気持ち悪くない。そうだね。どうしてだろう。どうしてだと思う? うーん、わかんない。そうだね、きっとそれは、これを写した人が、余計な同情も何も持たずに、ありのままを撮った写真だからだと思うよ。そういうものなの? 写真ってさ、撮る人の気持ちって出るの? 出るさぁ、出るんだよ、不思議と。写真って、撮られる人のためにあるものかと思ってた。なるほどなぁ。そうかぁ。確かにそういう面もあるかもしれないけど、写真て、絵と同じくらい、描く人の気持ち、撮る人の気持ちが、現れるものだとママは思うよ。ただシャッター押してるだけなのにね! はっはっは、それはそうなんだけどね。ママは、シャッター押すとき、どういう気持ちなの? ありとあらゆる今私が感じている思いを、シャッターを押す指に込めるんだよ。だから、もしかしたら目つぶっちゃってるかもしれない。え? 目、瞑りながらシャッター切るの??? うん、もう、祈って祈って、祈って撮るときなんていうのは、目なんて瞑っちゃってるかもしれない。そんなのだめじゃん。なんで? だって、写真がちゃんと写らなかったら困るじゃん。うん、それはそうなんだけどね、シャッター切るときっていうのは、もう、言葉でなんて言い表せない、自分の全身全霊を込めて切るんだよ。だからさ、言ってみれば、実際の目じゃなくて、心の目で撮るの。そういうものだとママは思ってる。ふーん、なんか難しい。そうだね、ちょっと難しいかもしれないね。私は、踊ってる方がいいなぁ。ははは、あなたは写真撮るより踊ってる方が似合ってるかもしれないね。でも、カメラくれたら、私も写真撮るよ! えー、でも、まだあなたにあげられるようなカメラ、ママ、持ってないよ。自分の分しかないもん。ママって貧乏だからなぁ、しょうがないなぁ、もう。あなたがママの代わりに金持ちになって、ママの分もカメラ買ってよ。わかったわかった!

じゃぁね、また夕方にね。手を振って別れる。駅前。私は左へ、娘は右へ。
歩き出すと、風が唸るように吹き付けてきて、私の足元を掬ってゆく。
川を渡るところで立ち止まる。川は大きく波立っており。青緑色の水が、まるで一斉に声を上げているかのように見える。
歩道橋を渡るために階段を上がると、一気に風が吹き付けてきた。私の髪は押さえる暇もなくびゅうびゅう翻り。
生きていると本当にいろいろなことがある。わざとぐさりと傷を抉ってくる人がいたり、自分を守るためにこちらに攻撃をしかける人もいたり。
でもそういったことも、些細なこと、と、流していけるようになれたらいい。私が、私に恥じぬ生き方をしているなら、それで、もう十分だ。
さぁ、今日も一日が始まる。私は歩道橋の階段を、勢いよく駆け下りる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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