見つめる日々

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2010年09月21日(火) 
起き上がり、窓を開けようとしてぎょっとする。昨夜私は窓を開けっ放しで眠ったらしい。両方の窓ががらり、開いている。無用心もいいとこだ、と舌打ちする。娘と二人暮しだというのに何やってるんだろう、まったく。
ベランダに出て、空を見上げる。粉っぽいというか、少し白っぽい空が広がっている。細かな細かな塵が一面に広がってるみたいに見える。風はなく、私はまた、蒸し暑いように感じる。やっぱり自分の体が火照っているんだなと思う。街路樹の緑は、てろんと垂れ下がっている。
ラヴェンダーとデージーのプランターの脇にしゃがみこむ。デージーの枝葉はもう伸びすぎて、プランターからふわふわはみ出ている。それが緑色のところと褐色のところと混じっており。そして黄色い黄色い小さな花たち。まだもうちょっと咲いていてくれそうな気配。ラヴェンダーに鼻を近づけると、ふわり、あの独特なやさしい香りがする。
弱っている方のパスカリ。薄い薄い葉をそれでも広げて立っている。じっと見つめているとそれは、まるで私は生きているんです、と訴えているかのように見えてくる。なんだか切ない。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。みっつの蕾もそのうちのふたつが綻んできた。やさしいやわらかい桃色。ぺろりんと、一枚だけ花弁を広げ、私は咲きますよ、とアピールしているかのよう。かわいらしい。
友人から貰った枝。とうとう花弁の色が見えてきた。赤だ。そうか、これは二本とも赤い花が咲くのか、と、私は頬杖をつきながら眺める。赤は強いと聴いたけれど、本当にそうなんだな、と改めて思う。
横に広がって伸びているパスカリ。ふたつ蕾がついた。まだほんの小さな蕾だけれど。ここにいるよ、と言っているかのようにくいっと首を伸ばしている。これがふたつ無事に咲いたら、この長く長く横に伸びた枝を一度切ってやろうと思う。
ミミエデン、新芽を芽吹かせて。紅い紅い新芽が、一生懸命広がってきている。どんどん伸びろよ、私は心の中、そう声を掛ける。
ベビーロマンティカは、今ふたつ蕾が残っている。そしてあっちこっちからひょい、くいっと新芽を芽吹かせており。その新芽はどれもきれいな萌黄色で。つやつやと輝いている。
マリリン・モンローは、もう全身から新芽を吹き出させているところで。そんなあっちこっちから出さなくてもいいよと声を掛けたくなるような感じ。そしてふたつの蕾が凛と天を向いて立っている。ひとつはだいぶ膨らんできた。もうじき咲いてくれるんだろう。あの香りを嗅ぐのが楽しみだ。
ホワイトクリスマス。ふと見ると、後ろの方から小さな小さな蕾を出してきている。ふと思う。今、ふたつの蕾を抱えて、ホワイトクリスマスはどんなことを思っているんだろう。
挿し木だけを集めたプランター。薄い薄いクリーム色の花が咲いた。ちょうどいい頃合、私は鋏を持ってきて切ってやる。他の挿し木たちも、萌黄色の新芽を出しており。もうどれがどれだか分からなくなってしまったけれど。みんな元気に伸びてきてくれるといいなと思う。
アメリカンブルーは今朝五つの花をつけた。真っ青な花弁の色が、この白っぽい空の下、一段と鮮やかに広がっている。この花弁の色を溶かして空に広げてあげたら、ちょうどいい水色になるんじゃないかしら、とふと思う。
昨日は初めてのことがあった。娘の塾の友達が、一緒に勉強をするという名目で遊びに来たのだ。一緒に勉強するなんて言ったって、どうせわいわいがやがやなるに違いないと思ったら、午前中は一生懸命ふたりで理科と社会の予習をしていた。こんなこともあるのかしらんとちょっと疑いのまなざしを向けたが、まぁ、頑張っているのだからと何も言わず、放っておいた。しかしやっぱり、午後になると気持ちも緩んできてしまったのだろう、ふたりとも、ハムスターを手に、きゃぁきゃぁ言い始めた。私はひとり、作業しながら、その様子を眺めている。それにしても。ちょっと不思議だったのは、遊びに来てくれた子が、決して私の目を見て話さない、ということだ。こういうもんなんだろうか。それがいまどきの子供なんだろうか。じゃぁうちのお嬢も、よそのうちに行ったら、こんなふうにあらぬところを見て話す子になるんだろうか。それは正直、ちょっといやだなぁと思った。相手の目を見て話す、というのは、基本の基本だと、私は勝手に思っている。
お友達を送っていった娘が、帰ってきていきなり話しだす。ねぇママ、Aちゃんちょっと、変じゃなかった? 何が? だって、ずっと別のところ見て話してるし、ママが自転車の後ろ乗っけてあげても何も言わないし。あぁ、そうだったねぇ。ああいうとき、ありがとうとか言わないの? 言った方がいいとママは思うけど。ちゃんと目を見て話せってママは言うよね。うん、言うね。どっちがいいの? 目を見て話す方がいいとママは思うけど。じゃ、ママ、Aちゃんのこと嫌い? なんでそうなるの? だって、ありがとうとも言わないし、目を見て話さないし。別に嫌いとかそういうことは思わないよ。あぁ、そういう子なんだなぁって思っただけだよ。嫌いじゃないんだ。こんなことだけで嫌いにならないよ、今日初めて会ったばっかりじゃない。そういうもんなの? そういうもんだよ。恥ずかしがり屋の子だっているからね、いつだって人の目見て話しできるかっていったら、それができないときだってあるさ。ふぅん、それだけで嫌いにはならないんだ。当然じゃないの。何言ってんの。じゃ、どういうとき嫌いになるの? そうだね、必要のない嘘をつかれたときとか、かな。そっかぁ。そういうもんなんだぁ。そういうもんだとママは思うけどね。あなたはどうなの? うーん。嫌だなって感じることと、嫌いになることとは、これ、ちょっとまた別のことだとママ思うけど? そんなに簡単に人のこと好きだ嫌いだって言えないよ。そうなんだー。あなたは違うの? 私はっていうか、みんな、ちょっとのことで、あの子嫌いとか言うよ。あぁ、そうなんだ。私は嫌だなってその時思っても、次のときよければそれでいいって思うけど、でも、みんなは結構簡単に、好きだとか嫌いだとか言うから…。なるほどねぇ、ま、それはそれとして、ママはどっちかっていったら、時間かける方だから。そうなんだ。じゃ、またAちゃんと一緒に勉強してもいい? いいよ。勉強ちゃんとするならね! あーーー、はいっ。はははははは。

朝、友人から一番に電話が入る。その話を聴きながら、人と人との距離感の大切さを思う。確かに、大切な相手はいる。大切で大切で、仕方ない相手というのも、いる。でもだからこそ、距離を適切に保っておかなければ、と、思う。その距離感を間違えて、必要以上に近づきすぎて、相手を追いつめてしまったら、それは多分、互いに傷つく。適度な距離、というのが、どんなときでもあるんだろう、とそう思う。
もちろん、それがうまく出来ないときもある。だから、気づいたとき、修正するしかない。気づいたそのたびに、ちょっとずつ修正して、適切な距離を見定めて、その距離感を大切に味わう、とでもいうんだろうか。
長くつきあいたい相手ほど、そういう距離は大切だと思う。

ママ、ちょっとミルク持ってて。と言われてミルクを膝に乗せた途端、おしっこをされた。私が悲鳴を上げると、娘がタオルを持って飛んでくる。ミルクがごめんね、って言ってるよ、と娘は言うのだが、私にはどう見ても、すっとぼけた表情にしか見えない。まったくもぉ、と言いながら、Gパンの太腿のところを懸命にこする。今更着替える時間もない。
じゃ、行くよ。ちょっと待って、ママ、ほら、ミルク。もうやだよぉ。ミルク、悪かったって思ってるってばぁ。わかったわかった、ほら。ちょいちょいっとミルクの頭を撫でてやる。それで安心したのか、娘は手を振って見送ってくれる。
階段を駆け下り、ゴミを出して、自転車に跨る。
坂を下り、信号を渡って公園の前へ。耳を澄ますと、微かにだが、まだ秋の虫の声が聴こえる。日が高く上れば、ひっそりと何処かへ隠れてしまうだろう虫たちの声。涼やかな、澄み渡る声。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。それにしても最近、警察官の姿が多い。どうしてこんなにいっぱいこのあたりに警察官がたむろしているんだろう。分からない。何か行事でもあるんだろうか。疎い私には全くもって分からないけれど。警察官は正直苦手だ。事件でのことを思い出してしまう。
信号を渡り、左に折れて真っ直ぐ走る。ついこの間まで空き地だった場所に、何台ものトラックが止まっている。ここでもとうとう工事が始まるのか、と思う。雑草たちの宝庫だったのに。残念だ。
駐輪場、おはようございますと声を掛ける。おじさんが小走りに出てきて、駐輪の札を貼り付けてくれる。いってらっしゃいと声を掛けられ、いってきまーすと返事をする。ただそれだけのことだけれども、とてもいい気持ちになる。
自転車を止め、歩き出す。
さぁ今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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