見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2010年09月20日(月) 
起き上がり、窓を開ける。そよりとも風が吹いていない。そのせいか、この蒸し暑さは。いや、最近朝体が火照る気がする。それもこの朝一番の時間帯。何故なんだろう。理由は分からないけれども。そのせいで、朝着替えると、すぐ汗が噴き出してくる。正直これにはちょっと困る。
ベランダに出て、デージーとラヴェンダーの脇にしゃがみこむ。デージーはまだ咲いていてくれている。もう最後、もう最後と思うのに、それでも咲き続けてくれているこのデージー。今月中はもってくれるかもしれない。ラヴェンダーは横に横に這うように伸びており。相変わらず、互いに絡み合っている。でももう、解くことは、しない。
弱っているパスカリ。それでも一生懸命葉を伸ばし、葉を広げ。懸命に陽光を浴びようとしている。この位置はベランダの中でも一番日当たりがいい場所なのだが、それでも、まだ足りないといった気配をこの樹は滲ませている。
その脇、もう枯れたと思っていた樹から、何故か芽が出てきた。これは確か、濃い赤紫色の花が咲く枝だったはず。もうすっかり茶色くなって、駄目になってしまったと思っていたのに。かわいらしい小さい新芽。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。ふたつの蕾がすっかり開いた。今日帰ってきたら切ってやろうと思う。そしてみっつ、よっつ目のつぼみもぷらんとくっついている。ちょっと涼しくなったせいなのだろう、樹がみんな、元気を取り戻しつつある。
友人から貰ったもの、蕾がぴーんと天を向いている。尖がった、細めの蕾。まだ花びらの色は分からない。さて、何色が咲くんだろう。考えただけでどきどきする。
そして横に広がって伸びているパスカリ。一日留守にしている間に、ぐいっと新葉を広げてきた。こちらの樹は、格好は悪いが、元気。格好がどんなに悪かろうと、元気でいてくれることはもうそれだけで嬉しい。
挿し木だけを集めて育てている小さなプランターの中。蕾がほろり、花びらの色を見せ始めた。薄い黄色だ。これは一体誰に貰ったものを挿したんだったっけか。迂闊なことに思い出せない。でもこれは、私の家にあるものを挿したのではない。花の色がそう言っている。小さな蕾だけれど、これからどんなふうに開いてくれるのだろう。楽しみでならない。
ミミエデン。ちょっと今は小休止、といった具合。でも、茎と葉の間に、新芽の気配を湛えている。これからまた新芽を芽吹かせてくれるのかもしれない。
ベビーロマンティカは、私が留守にしていた間にふたつの花を咲かせてくれた。ぽっくり、ぽっくりと丸い花。びっしりと花びらが詰まっている。一体何枚の花びらがあるんだろう、もし数えたら、とんでもない数になるんじゃないかというほど。私は鋏でふたつの花を切ってやる。
マリリン・モンローも、私が留守のうちに、また新しい蕾をつけた。今在るのはふたつの蕾。そしてあちこちから新芽も吹き出させている。
隣のホワイトクリスマスも蕾をぴんと天に向けており。マリリン・モンローの勢いには負けるけれど、新葉を萌え出させているところ。
そして空を仰げば、薄い水色の空。今日もまたいい天気。うっすらと広がる雲は、もうすっかり秋の雲だ。これで微かにでも風があれば、ずいぶん過ごすのが楽なんだろうに。ちょっとそれだけが残念。
アメリカンブルーは、今朝いつつもの花を開かせ。じっと佇んでいる。真っ青なその花びらはいつもの通り、私の心を落ち着かせてくれる。
部屋に戻り、さっき切ったベビーロマンティカの花を小瓶に生ける。そしてお湯を沸かし、お茶をポットいっぱいに作る。ふくぎ茶もこれが最後の袋。どうしよう、買い足そうか。今、とても迷っている。
カップを持って、机に座る。いつも通りの動作なのだけれど、一日それをしなかっただけで、何処か新鮮な気持ちになる。PCの電源を入れ、メールのチェックをすると、アンコールワット・フォト・フェスティバルのメールが届いている。嬉しいことに、入賞した。私がこうしたフェスティバルやコンテストに写真を出すのは、初めてのことなのだけれど、本当に出してよかったんだろうか、と、今もまだ、思っている。「あの場所から」が評価されたことは嬉しい。でも。彼女たちを世間の目に晒すことになった。それが、一番、気にかかっている。本当によかったんだろうか、と。
多分、私が、この「あの場所から」に関わっていく以上、いつだって抱く問題なんだと思う。果たしてこれでよかったのか、と、私はいつだって自問自答するだろう。でも、それがなくなったら、それはそれで駄目なんじゃないかと、そう思う。
今回入賞したことで、15人の中に残ったことで、「あの場所から」の写真たちはアンコールワットで上映されることになる。世界の人たちの目に留まることになる。できるなら、この写真の意図が、どうか伝わってくれますように。それでなければ、何の意味もない。彼女たちがこうして生き証人になってくれたことが、無意味に終わりませんように。どうか、どうか。私は祈るように、そのことを思う。

慌しい週末だった。福島の会津田島まで墓参りに行き、その足で美術館三つを駆け回った。田島の墓は、ずいぶんと手入れがされていず、荒れていた。一本一本雑草を抜き、墓石を洗い。ただそれだけで、どっと汗が吹き出した。母も父も、体を壊してからここに来ていない。気にしていながらも来ることができていない。その代わりといったら何だけれども、私がこうやってやって来た。先祖は私のことなんて覚えているんだろうか。ここに眠っている父の祖父母は、私のことを覚えているんだろうか。私がまだ本当に幼い頃、それぞれ癌で逝ってしまった祖父母。生きることが、父と同様、不器用な人だったと聴いている。写真を見ると、しかめっ面をした祖父母。いつでも眉間に皺をよせ、写真なんて、という顔をして写っている。孫の私を間に撮った写真でも、今にも席を立たんばかりの表情で。彼女たちにとって私はどんな孫だったんだろう。もう誰に聴いたとしても、分からない。
私は、父方の親戚を、ひとりも知らない。いや、本家のおじさんのことは知っているが、おじさんはもう痴呆症にかかっており。私のことを思い出せない。だから、実質、誰のことも知らない。誰も私を知らない。そんな私がこうしてこの墓を掃除している。いいんだろうか、とふと思う。触れていいのだろうか、とさえ。
持ってきたリンドウの花を活けて、線香をあげて、手を合わせる。その頃には多分、私はもう汗だくで。振り返ると、本家の墓もそこに在り。誰もしばらくここに来ていないのだろうことが、墓の有様から分かる。私はせめて、と、線香をそこにもあげる。
帰り道、昔ここがもっともっと田舎だった頃のことを思い出していた。川には家鴨がちょこちょこ集い、私はよくその家鴨を眺めてここで過ごした。本家の脇を通るとき、庭をちょっと覗いたが、誰もいなかった。おじさんは今どうしているのだろう。元気なら、それでもう、いい。
父が、ここではなく、山小屋の庭に骨を埋めて欲しい、と言う意味が、私にはよく分かる。こんなふうに誰も訪れなくなる墓ならば、せめて誰かが訪れるはずである場所に骨を埋めたい、自分が大事に耕し育てた庭の端に、と、そう願う意味が。母は母で、海にでも散骨してくれ、と言っている。ふたり夫婦なのに別々の場所に埋めるのはどうなのかと思うから、私は何も返事をしていないけれども。
夫婦。結局私は、たった数年で結婚生活を破綻させてしまったから、夫婦の重さが分からないのかもしれない。
見上げる空には、もくもくとした夏雲と、すうっと広がる秋の雲とが混在しており。そ知らぬ顔で、空を流れてゆくのだった。

玄関を娘と二人で出た途端、娘が声を上げる。ママ、カナブンだ、まだ生きてる! じゃ、潰して。いやだ、気持ち悪い。じゃ、ママがやる。くしゃっ。ママ、よく潰せるね。カナブンはママにとっては天敵だもん。仕方ない。でも。
サンダルの足の裏、くしゃっと乾いたあの気味の悪い感触は、残るのだ。娘には言わないけれど、私はそれがひどく心地悪くて。サンダルの裏を何度も、こすった。
自転車に跨り、走り出す。坂道を下ろうとしたところで、たくさんの車。あぁ、町内会の野球チームが試合に出かけるのだ。私たちは会釈しながら走り過ぎる。娘は、好きな男の子の姿を瞬間に捉えたらしく、にまっとした顔をしている。
公園の前でちょっとだけ立ち止まる。もう蝉の声のしない森。秋の虫の声が、ちりりんと響いている。季節がそうやって過ぎてゆく。変わってゆく。残酷なほどあっけなく。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。祝日の朝とあって、サラリーマンの姿はひとつもなく。代わりに、ランニングする人たちが大勢。私たちはその間を縫って走る。
駐輪場には、今日はおじさんはいない。私たちは、そのまま自転車を停める。ママ、お金、払わなくていいの? うん、今日は祝日だからおじさんもお休みなの。そうなんだ、得したね! ははは。
そして歩道橋を渡る私たち。遠くに風車がかすんで見える。
さぁ、今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加