見つめる日々

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2010年07月28日(水) 
夜風がびゅうびゅう吹いている。そのお陰で窓を開けておくと気持ちがいい。蚊取り線香の香りも風に煽られて何処かへ消えてしまう。そのくらいの風。娘は塾の宿題をしている。私は私で仕事をしている。それぞれ何も言わずの作業。淡々と夜が過ぎてゆく。
ママ、先に寝てていいよ。なんで? うん、ちょっとまだ終わらないから。そんなにあるの? うん。あ、分かった、解けない問題があるんでしょ。っていうか、いっぺんに覚えきれない。覚えなきゃいけないこといっぱいあって、無理。ははは。そういうのは、電車の中で覚えるんだよ。電車の中は友達とおしゃべりしてる。あぁそうか、じゃぁ無理か。ママは、友達と一緒になって、電車の中で暗記したものだけどなぁ。ふーん。まぁやれるところまでやっちゃいな、待ってるから。うん。
結局十一時近くまでかかって宿題を終わらせた娘。早く寝なさいと寝床に追いやる。私もとりあえず横になる。
眠る前、友人から届いたメッセージが心に引っかかっている。ねぇさん、もう想定内って分かっているけれど、それでも、虐待するために猫が欲しいんでしょって言われるたび、心が引き裂かれるように痛くなる。そういったことが書いてあった。想定内、そう、もう想定内なのだ、病気で一人暮らしで、それで猫が飼いたい、という場合、言われることはだいたい決まっているということが、私にも分かった。猫を可愛がって育ててきた彼女にとって、猫と慎ましやかな生活をしてきた彼女にとって、「虐待」と言われることはどんなに痛いだろうと思う。特に、自分が親から虐待を受けてきた者にとって、この言葉は痛い。
それでも。一緒に暮らしたいと思うなら、探すしかない。どんなに痛い言葉を突きつけられようと。それはそれで理由があるのだ。猫たちが実際、どれほどの虐待を受けてきたか、しかも人間から。それを少なくとも私たちも知っている。仕方ないのだ。
そんな傍ら、テレビから、今日も虐待のニュースが流れる。私はちらり、聴いただけで、胸がぎゅっと痛くなって、テレビを消す。
別の友人、この六月に子供をようやっと産んだ友人からの電話を思い出す。性犯罪被害を受け、それでもようやく妊娠出産に辿り着いた。でも。今彼女はいろいろなことにぶつかっている。たとえば、子供が怖いということ。とてもよく私にはその気持ちが分かる。私自身怖かった。自分が触れれば触れるほど、子供に自分の穢れが移ってしまいそうで、怖かった。そもそも、どう触れたらいいのか、それ自体分からなくて、どこまでも戸惑った。元夫が、ひょいと娘を抱き上げるのを、いつもどきどきはらはらしながら見守っていたことを思い出す。そして、同時に自己嫌悪に陥るのだ。どうして私はこうやって、すっと抱いたりあやしたりすることができないんだろう、どうしていつでもおっかなびっくりなんだろう、と。
ねぇさん、育児書って、何なんだろうね、と友人が言った。育児書どおりにやらなくちゃって私、思い込んで、縛り付けられて、どうしようもなくなってた。ミルクの缶に書いてある通りにミルクを飲ませなくちゃいけないとか、そんなことでも縛られてた。ははは、大丈夫、そんな、書面どおりにはいかないんだよ。うちも、ミルクの量だってうんちの回数だって何だって、育児書とは全く違ってた。赤子によって違うんだから、いいんだよ、そんなの気にしなくて。うん、今ならそう思う。でも、最初本当に困った。どうしたらいいのって、自分を責めてた。うんうん、分かるよ。でも、そんな必要はないんだよ。責めたりする必要は、何処にもない。だから安心して。…うん。ねぇさんは、この時期、眠剤とか飲んでた? 私は確か飲んでなかった。私、飲んでるのね、で、そうすると、夜、全く使い物にならなくて、だから、夜泣きすると母が全部やってくれてて。うんうん。そういうのも全部自己嫌悪になっていく。うんうん。でもさ、手伝ってもらえるものは手伝ってもらうのがいいんだよ、それでいいの。いいのかな。いいのいいの! わぁありがとう、って言えばいいの。話を聴いていけばいくほど、赤子の前でどんどん萎縮していっている彼女の姿がありありと浮かぶ。それを思うと私の胸も痛む。今、赤ちゃんにどう接してあげればいいのかな? そうだねぇ、今は夏だから、夕方とか一時間くらい、二人で散歩するとか。昼間は陽射しが強いから止めた方がいいと思うよ。もうしてもいいのかな。でも私にできるかな。最初は十分二十分って短い時間でいいんじゃない。やってみたらいいよ。うん、自信ないけど。できそうだったらやってみる。そうだね、できることから始めればいいよ。ミルクもさ、その子その子で飲む量が違うから、規定量飲まないからってあんまり心配する必要ないよ。不安になったらいつでも電話かけといで。うん。そうする。ありがとう。
横になりながら、私はじっと天井を見つめている。見つめながら、友人たちの顔をひとつひとつ思い浮かべている。性犯罪被害というものが、どこまで私たちの足をひっぱるのかを、改めて考えている。虐待された経験が、私たちをどこまで怯えさせるものなのかも。こういうとき、男性の被害者はどうなんだろう。どんな思いを抱くものなんだろう。
明るくなってきた空の下、ベランダに出る。風が本当に心地よい。私は思い切り深呼吸する。街路樹の緑が、風に煽られている。うちのベランダのデージーとラヴェンダーも、すっかり絡まりあっている。私はひとつずつ解いてゆく。
と、その時、見つけてしまった。ミミエデンの、花芽が折れている。風で煽られたカーテンがひっかかって、ミミエデンのせっかく萌え出した花芽が折れてしまったのだ。ショック。とても悲しい。私は慌ててそこを切り落とし、花瓶に生ける。無駄かもしれないけれど、それでも。
私はカーテンを結んで奥に追いやり、睨みつける。おまえが悪戯なんかするから、せっかくの花芽が折れてしまったじゃないか。悲しい、悲しすぎる。もう悪戯なんかしないで、と、心の中、カーテンを叱り付ける。
ベビーロマンティカは咲いた一輪と四つの蕾。もう少し花が開いたら切ってやろうと思う。ベビーロマンティカは、カーテンの害を、少し受けただけで済んだようだ。よかった、こちらまで花芽や葉が折れていたら、とても耐えられない。
パスカリの蕾。白い色をちょろっと出して、またひとまわり、大きく膨らんできた。まだ咲くには時間がかかるだろう。昨日古い枝を切ったお陰なのか、下から出てきた枝が、ぐいっと伸び上がってきた。これからどんなふうに枝葉を広げるのだろう。
桃色の、ぼんぼりのような花。三つが揃って咲いている。ぽろん、ぽろん、ぽろん。指で弾くと本当にそんな音色が聴こえてきそうな気がする。かわいらしい花。うちにある薔薇の中で唯一、下を向いて咲く花。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、ようやく出てきた新芽の塊を、徐々に徐々に綻ばせ始めている。私はその芽を凝視する。本当にちょこっと、まだ顔を出したばかり、といった具合だけれど。確実にこれは新芽だ。それが嬉しい。
私は部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を作る。ついでにアイスレモンティーも。新しく買ってみた麦茶は失敗だった。味がどうも悪い。安売りを狙っての失敗。今度はもう、いつものお茶にしようと心に決める。せっかくの毎日ごくごく飲むお茶なのに、おいしくないのは困る。
ココアが起きている。おはようココア。そう言って手を差し出したら、思いっきり噛まれた。痛い。血が滲んでくる。私の、痛い、という声に起きた娘がどすどす足音を立ててやってきて、ココアを叱り付ける。駄目でしょ! ママを噛んだら駄目って言ったでしょ! ぺちん! ココアの頭を軽く叩く。ココアには伝わっているのだろうか、どうなんだろう。娘の手のひらの上、小さくなっている。その姿を見て、私も苦笑する。
ゴロも起きてきた。おはようゴロ。私はそっと手を差し伸べる。ゴロはいつものようにおずおずと私の手に乗ってくる。私は彼女の背中をこしこしと撫でてやる。おまえは人を噛むということをどうも知らないようだねぇ、と私は話しかける。いつでもおっかなびっくり、とことこと手のひらの上、動くゴロ。三匹の中で一番おとなしい。体はミルク同様大きいのに。でもそんなところが、私から見るととてもかわいい。
胡瓜を細切りにして、ツナと混ぜる。マヨネーズと塩コショウで味付けし、ツナサンドを作る。同時進行で、娘の朝ご飯、久しぶりにチャーハンを作る。細かく切ったインゲンとベーコン、卵、そしてご飯。フライパンの中でしゃかしゃか混ぜる。塾でおなかがすいたとき用には昆布入りのおにぎりでよし、と。これでとりあえずご飯はできあがり。
一日一時間だけテレビを見ていいことになっている娘は、朝からお気に入りのDVDを見ている。ママ、このお母さん、すごい勝手だよね、いつ見ても。あぁ、それはそうだと思う。だってさ、自分で子供棄てといて、後でまた、戻ってきてって来るんだよ。勝手すぎるよね。うん、ママもそう思う。私、ママがこんなお母さんだったらすんごいヤだ。ははは。ママは、ママパパだからね。ん? だから、ママは、ママとパパとを合わせてママパパなの。なんじゃそりゃ。だってママってさ、ママだけのときもあるけど、パパっぽいときもあるじゃん。どういうとき? うまく言えないけど。だからうちのママは、ママじゃなくてママパパなの。変なのー。へへへー。
ねぇママ、さっきニュースでやってた、自殺したって人、二月に子供産んだばっかりなんだって。うん、そうだってね。子供残して死んじゃったってことだよね。そういうことになるね。どうしてそんなことしちゃったんだろう。どうしてだろう、ママは分からない。子供、これからどうなっちゃうんだろう。どうなっちゃうんだろうなぁ。ママは自殺しちゃだめだよ。はい? ママは長生きしなくちゃだめなんだよ。分かってるよー、自殺なんてしないから、間違っても。約束だよ。うん。約束。
娘と約束しながら、私は昔のことを思い出していた。彼女を産むまで、私はいつ死ぬかということをいつも考えていた。いつ死んだらいいか、いつ死ねるか、それしか考えられなかった時期があった。今ではそれを笑って思い出すことができるけれど。あの時は必死だった。もうそれしかないと信じていた。
だから。私は感謝する。娘の存在に。

じゃあね、それじゃぁね、今日ママ、昼には戻れないから、自分でちゃんと塾行くんだよ。分かってるってー。あ、図書館行くなら、九時からだからね。うんうん。じゃぁね! 手を振って別れる。玄関を出ると、焼けるような陽射しがざんざんと降り注いでいる。
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。
坂を下り、信号を渡り、公園の前へ。蝉の声がぐわんぐわんと鳴り響いている。公園の樹々は、毎日続く強い陽射しに、少し疲れているように見える。それも当たり前だ、こんなに強い陽射しに毎日晒されていたら、どんなに強い樹だってうんざりしてしまうに違いない。夕立でもいいから、降ってくれることを、願う。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木はまっすぐ天を向いてそそり立っている。その姿はいつ見ても気持ちがいい。
私は信号を左に折れ、真っ直ぐ走る。プラタナスの通りも通り過ぎ、一気に自転車置き場まで。
さぁ、今日も一日が始まる。私は自転車を降り、鞄を肩に掛け直して歩き出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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