2010年06月11日(金) |
娘の足蹴りで目が覚める。午前四時。その前にも二度ほど、娘の足蹴りを食らった。どうも今日は寝苦しい夜らしい。すっかり布団を剥いで、くるりと半回転した娘の足は、まさに私の顔に向かっており。痛いよ、と悲鳴を上げてもびくともしない。仕方なく私は起き上がる。 がら、がらららと回し車の音がする。この豪快な音はミルクだ。籠に近寄ってみると、ミルクがぼてっとした体を必死に動かしている。おはようミルク。私は声を掛ける。途端に回し車を止め、入り口のところに齧り付くミルク。ごめんね、私はちょっと君を抱き上げるのは怖いのだよ、と私は苦笑し、頭を下げる。娘にはほとんど噛み付くことがないのに、私には容赦なく噛み付くミルク。だから私はミルクが怖い。かわいいとは思うのだが、やっぱり怖い。 窓を開け、ベランダに出る。薄暗い空が広がっている。一面、というわけでもないが、空を覆う雲は灰色で。もこもことうねっている。雨が降るんだろうか。私は何となく空に手を伸ばしてみる。届くわけもないことは分かっているのだが、何となく。 街路樹の緑はそんな空を映してか、暗い色をしている。風がぴたりと止まって、じめっとした感じが肌に伝わってくる。 私はしゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを見やる。どうしてもどうしても、この一本は葉をぴんと伸ばしてくれない。葉の色は緑色をしているのだが、それでも、萎れたままだ。このまま駄目になってしまうのだろうか。今この土の中で何が起こっているんだろうか。私は土をかきむしりたい衝動に駆られる。そんなことをしたって何にもならないことは分かっているのだけれども。残りの五本は、ぴん、というほどではないけれど、葉を萎れさせることもなく立ってくれている。せめてこの五本だけでも、何とかならないだろうか。何とかなって欲しい。私は祈るように思う。 ミミエデンから新芽がまた吹き出してきた。紅い葉だ。ぶわっと塊になって噴き出してくる。まるで破裂するかのように。このまま新芽を次々芽吹かせて、育っていってくれるといい。 ホワイトクリスマスの蕾は今朝もしんしんとそこに在り。沈黙の衣を纏って、真っ直ぐに立っている。こちらから見るとマリリン・モンローの蕾と並んで立っているように見える。マリリン・モンローの蕾はホワイトクリスマスの蕾と比べて少し丸い。色も、ホワイトクリスマスの方が青味がかっている。紅かったマリリン・モンローの新葉が、徐々に徐々に緑色に変化していっているのが分かる。赤から緑へ、と、それを私が絵の具で描こうとしたら不細工な色合いになるんだろうに、植物の変化は不思議だ、本当に滑らかに滑らかに、変色してゆく。 ベビーロマンティカの蕾は今朝も賑やかで。ぺちゃくちゃとおしゃべりをしているかのよう。萌黄色のその柔らかさは薔薇の群れの中でもひときわ鮮やかで。つやつやと輝いている。 玄関に回り、校庭を見やる。湿った砂の色が広がっている。昨日の天気を思い出せない。雨は降ったんだろうか。降ったからこんなにも湿っているに違いないのだけれども。どうなんだろう。後で娘に尋ねてみよう。 幾つもの足跡が描かれている校庭。サッカーゴールの前に、滑り込みをした跡のようなものが残っている。体育の授業でサッカーをしたんだろうか。ふと見れば、いつの間にかプールに水が入っている。そういえば近々プールの時期になるんだったっけ。どうもいけない。私の内側の時計がちゃんと動いていないらしい。 学校の周りにも紫陽花が何本も植わっており。その殆どは水色の紫陽花で。今まさに咲きだした頃。灰色の空の下、その水色がひときわ輝いている。ふと思う。水色はもしかして雨を呼ぶ色なんだろうか。 友人が電話をくれた。今のあなたなら大丈夫だよ、越えてゆけるよ、と。ありがたかった。ほっとした。その昔、彼女と縁遠くなった時期があった。私の病が酷かった時期だ。そうした時期を経て、今なお、繋がっていられるということに、私は感謝する。 今、私は腕を袖で隠している。そのことが正直ちょっと、不思議だ。以前の私なら、そんなことをしなかった。傷つけた跡は傷つけたものとして、晒していた。でも、何だろう、今もう、そういうことをしてはいけない気がする。 私が堂々と晒すことで、娘はどう感じるだろう。娘の周囲はどう感じるだろう。それを、考えてしまうのだ。 私はいい。私がしたことなのだから、私が為したことなのだから、そのまま受け止めるだけの話だ。でも。 私はもう、私だけのものじゃぁないということを、痛感する。 私の中に、娘や、大切な友人たちが、在ることを、痛感する。私は、それらの人たちをも傷つけたのだなと思う。自分の腕を切り刻むことは、私の大切な人たちの思いをも切り刻むことだった。そのことを、私はあの時、忘れていた。 思い出して、ようやっと思い出して思うのは、この傷跡は勲章なんかじゃないってことだ。或る人が言ってくれた、そういう傷跡もあなたの生きてきた証、勲章だよ、と。でも。でも、違う。 私のことだけを考えたなら、そうかもしれない。でも。私はひとりで生きているわけではなく。娘や、多くの大切な友人たちによって生かされており。私を取り囲む多くのそうした人たちにとってこの傷跡は、悲しみだ。 そのことを、私は失念していた。 まだまだだな、と思う。そう、まだまだだ、私は。自分がひとりきりで生きているわけではないことを、こんなにも簡単に忘れてしまうなんて。 見上げる空は灰色で、何処までも灰色で。ちょっと空の螺子が緩んだらそのまま堕ちてきそうな感じさえする。 娘は、私の腕の痕に気づいているのかいないのか、一切何も言わない。私も何も言わない。いつもと変わりなく、時間を過ごしている。それはとてもありがたいことで。私を再び日常に帰してくれる。
お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶を入れた後、ふと思いついて、椎茸茶も入れてみる。黒胡椒の入った椎茸茶。旅先で見つけた。私はほのかにしか椎茸の香りが分からないけれど、きっと今、いい香りが漂っているに違いない。 煙草をくゆらしながら、窓の外を見やる。昨日母から電話が来て、一瞬、具合が悪いと言いかけた。言いかけて、やめた。 母はまだ病院通いが続いている。そんな母に心配を掛ける必要はない。私は大丈夫、ここからまた始めるだけのこと。ちょっと躓いたけれど、またここから歩いていくだけのこと。わざわざ心配を掛ける必要は、ない。
「生活は関係の問題です。そして静的ではないこの関係を理解するためには、柔軟で、同時に積極的なものでなく、油断のない受動的な注意力がなければならないのです。すでに申し上げましたように、この受動的な注意力は訓練や練習によって出てくるものではありません。それは一瞬一瞬絶え間なく、私たちの思考や感情の動きをじっと凝視していることなのです。またそれは私たちが目覚めているときだけではありません。というのは、私たちがこの問題をさらに深く追求していくにつれて、睡眠中でも自分が夢を見始めていることに気づくようになり、やがて今まで夢に与えられてきたすべての象徴的な意味をすべて捨て始めていることに気づくのです。このように私たちは今まで閉ざされていた未知の世界へ通じる扉を開き、こうして未知であったものを知ることができるようになってゆくのです。しかしこの未知なるものを発見するためには、その扉を超えて進まなければなりません。確かにこれはきわめて難しいことです。「真の実在」というものは精神によって知ることができないものなのです。なぜなら精神は既知のもの、つまり過去の結果だからなのです。そういうわけで精神は、精神そのものと、その働きと、その真の姿をまず理解しなければならないのです。そのときにのみ、未知なるものが存在する可能性が生まれてくるのです」
じゃ、ママ、行って来るね。うんうん、朝練、頑張ってね。うん、でも眠い。ははは。頑張れ。うん。 娘を送りだし、私は出掛ける準備を始める。娘のお弁当も作った、今日発送しなければならない荷物も持った、大丈夫。そして私は玄関を出る。 ちょうどやってきたバスに乗り、駅へ。窓の外は一面薄暗く。傘を持つ人も多く在り。そういえば折り畳み傘を持ってくるのを忘れた。気づいてももう遅い。 そういえばパリで過ごしていた頃、どしゃぶりにも関わらず、毛皮のコートの裾を颯爽と翻して歩いている女性とよくすれ違った。あんなにめいいっぱいおしゃれをしているのに、傘をささないのかと、すれ違うたび不思議に思った。私はといえば、ぼろぼろのジーンズにセーターだったから、濡れようと何しようとお構いなしの格好だったわけだけれども。でも、こんなふうに、雨の中だろうと何だろうと、傘なしで颯爽と歩いてゆける女性って素敵だなと思ったことを覚えている。 駅を横切り、川を渡る。川は深い緑色を湛えており。ゆるりゆるりと流れてゆく。まるで、急ぐことはない、ゆっくりいけ、と言っているかのようで。 さぁ今日も一日が始まる。私は前に向かってまた一歩、歩み出す。 |
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