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しもさんの「気になる一言」
しもさん
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2015年10月26日(月)
意識がなくなっても、子守唄を歌って欲しいんです

映画「終の信託」(周防正行監督)から。
役所広司さんが演じる「重度の喘息患者の江木」さんが、
近づいた死に対して、草刈民代さん演じる担当医師の折井先生に
切実にお願いするシーンがある。
「人間が死ぬ時、まずダメになるのは、視覚だそうだそうです。
ものが言えなくなっても、見えなくなっても、
声だけは聞こえているとか・・。僕の意識が完全になくなるまで、
先生、言葉を掛けていただけないでしょうか。
できたら、意識がなくなっても、子守唄を歌って欲しいんです」
何気ない場面なのだが、とても印象に残った。
映画鑑賞や読書など「視覚」を中心とした生活を送っているからか、
「聴覚」に意識を向けたことは少なかった気がする。
しかし、この作品通じて「聴覚」を意識することが増えた。
目をつぶっていても、聞こえてくる音や会話は、
どんな微かな音も聞き逃さないように働いてくれている耳があるから。
そして本人の意識がなくなっても、聴覚だけは働き続け、
外からの音(声)を、体の中の細胞に伝えているようだ。
これからは、もっと意識して「耳」を大切にしたいなと思う。



2015年10月25日(日)
「ロミオとジュリエット」と「ジュリエットとロミオ」

映画「もうひとりのシェイクスピア」(ローランド・エメリッヒ監督)から。
「戯曲37曲 ソネット154篇 物語詩 数編
それらは全て人類と英語における究極の表現として、知られる。
それなのに、それなのに、
シャイクスピアの自筆の原稿はいかなるものであれ、見つかっていない。
400年もの間、何ひとつない。我らのシェイクスピアは謎の存在だ。実体がない」
この台詞で始まる物語は、シェイクスビア別人説を私に信じ込ませた。
日本でも「織田信長」や「上杉謙信」の女性説などがあるように、
まったく否定できないところに、この推理の面白さがある。
実は、原題の「Anonymous」は「匿名の」の意。
(書物では)作者不明の、(歌では)読み人知らずの、という使われ方をする。
しかし「作者不明」よりも、仮説を立てて立証していく方が、ワクワクするし、
真実味が増すのは、言うまでもない。
日本的に言えば「影武者」の要素が強いかもしれない。
メモしていて気付いたことだが、1か所だけ首を捻るシーンがあった。
オックスフォード伯は「(ロミオとジュリエット) ロマンス悲劇だ、
『弱強五歩格』で」と作品名を告げたにもかかわらず、
影武者の劇作家は「ジュリエットとロミオ」と作品名を間違える。
単なる和訳の間違いなのか、意識的に間違えたのか、気になっている。
こうなったら、もう一度、原語で確かめるしかないかなぁ。(汗)

P.S.(ラストシーンの台詞を・・)
「奥さま、あなたやご一族や、この私やエリザベス女王でさえ、
ご主人と同じ時代に生きることができて光栄です。
見事な言葉が書かれたその時代に。
石ではなく、詩で形づくられた記念碑は、永遠に人々の記憶に残る。
言葉は息から生まれる、息が命から生まれる限り」



2015年10月24日(土)
戦国群雄の戦いは、それぞれの人生哲学の戦いでもある。

書籍「天下(家康伝)」(火坂雅志著・日本経済新聞出版社刊・
上巻366頁、下巻390頁、計756頁)から。
こんなにすっと読めた文庫本(上下巻)は、久しぶりだった。
物語の最初と最後に、徳川家康が「柿田川」を眺めるシーンがあり、
この柿田川の近くで、残された余生を送りたいと、
一度は、隠居所を造営しようとした史実と重なり、妙に心に残った。
さて、気になる一言は、ちょっと面白い視点。
「戦国群雄の戦いは、それぞれの人生哲学の戦いでもある」を選んだ。
戦国時代の有名な戦いが網羅されているような内容であるが、
その勝ち負けは、兵の数でもなければ、軍師が授ける戦略でもない。
大将となる武将の「人生哲学」の戦いだ、というものだった。
「哲学なき者は敗れ去る」ということであろう。
武田信玄は「勝負というものは、六、七程度の勝ちで十分である」、
敵を全滅させるほど勝ってはいけない、というものらしい。
そこには、敵軍の復讐心よりも、自軍の驕りによる油断のほうが、
次の戦いに影響を及ぼすことを知っているからに違いない。
豊臣秀吉の哲学は「飯を腹いっぱい食わせてくれる男のもとには、
おのずと人が集ってくる」というもののようだ、秀吉らしい。(笑)
では、徳川家康の哲学は?とメモを整理してみると、
「行動を起こすには、何よりもまず大義というものが必要」という
哲学が浮かび上がってきた。
「大義なきところに、人が集ることはない」という哲学である。
「水はおのずと流れるべきところへ流れるものだ」という台詞も、
若い頃に、何度も負け戦を経験している家康らしい考え方だし、
自分の戦いには「大義」を求めたのも頷ける。
国の進めている「地方創生」という戦いは、全国の県知事を始め、
各市町村の首長らが掲げる「哲学」の戦いなのかもしれないな。



2015年10月23日(金)
なんだい、この静けさは。うちは喫茶店じゃないよ

最近は、とんと顔を出す機会がないが、
以前は(時々であるが)足を運んだスナックのママさんの一言。
普段はカラオケで大騒ぎする店内なのに、
その日に限って、意外とみんな静かに飲んでいた。
たまには、こんなアルコールの飲み方もいいなぁ、と
ひとりチビチビ飲んでいたら、案の定、
元気なママさんの一言が飛び出した。
「なんだい、この静けさは。うちは喫茶店じゃないよ」
この一言をきっかけに、お客はいつものペースに戻り、
カラオケ大会に早変わり。
周りの雰囲気を一気に変えてしまうフレーズって、
なかなか見つけることが難しいから、
店内大笑いだったけれど、私は「いただき」とメモをした。
こんな台詞に出会えるのなら、カウンター内で働きたい、
そんなことを思いながら、酔っ払った時にメモした台詞をご紹介。
それにしても「喫茶店=静かなところ」という発想が面白い。
私だったら「静かなところ」と言えば「図書館」だから
「なんだい、この静けさは。ここは図書館じゃないよ」かな。



2015年10月22日(木)
どんなことで人に感謝されていたか、私は覚えておきます。

映画「悼む人」(堤幸彦監督)から。
事件や事故に巻き込まれて亡くなった人々を「悼む」ため
全国を放浪する青年の決め台詞である。
やや省略してしまったが、突然ある出来事で亡くなってしまった、
誰にも別れを告げず亡くなってしまった人たちの無念さを、
親友の突然の死を受け止められなかった自分が
「悼む」という行為でなんとか償いたい、そんな想いだろうか。
まず、亡くなった人の肉親や友人、知人に
「誰に愛され誰を愛し、どんなことで人に感謝されていましたか?」
と訊ね歩き「そんなあなたが確かに生きていたということを、
私は覚えておきます」と追悼の行為を繰り返す。
誰だって、人に迷惑をかけたまま死にたくないし、
誰かに感謝されることで、自分がこの世に生きていた意味を知る。
それは多くの人たちではなくても、たった一人にでも感謝される、
それが私がこの世に生を受け、生き続けてきた証、ということ。
どんなに偉い人でも、死んだら忘れられてしまうのも常。
だから、私が生きている限り「あなたを忘れません」という言葉が
とても輝いてくるに違いない。
偶然にも、映画「まほろ駅前狂騒曲」で同じようなシーンがある。
「死ぬのが怖い」というより「忘れられるのが辛い」、
そんな感覚なのだろうか。
私も出来る限り、この世で縁あって出会って他界した人たちは、
墓参りが出来なくても、思い出すようにしたいな。



2015年10月21日(水)
いつも私のメールボックスで待ってくれていて

メルマガの読者から、とても嬉しいメールが届いたのでご紹介。
長年、私とのおつきあいがある方は、ご存知の通り、
私の文章の基本は「エンピツ」と呼ばれる「WEB日記」で、
2001年01月18日(木)から毎日、15年以上毎日書いている。
その後、PCを持っていないとか、わざわざネットにつながなくても、
配信して欲しい、という人の要望に応えて「メルマガ」にし、
おかげ様で、一日一話にも関わらず「5000号」を超えている。
さらに、最近では同じ内容を「Facebook」でも、投稿しているが、
今回は、メルマガの読者で「神奈川県に住む、高校3年生の女性」から。
私の「気になる一言」に出会ったきっかけや、その感想など、
ずっと書き続けていてよかったなぁ、と思わせてくれたメールだった。
特に受験生の彼女から発せられたメッセージは、こんな私の日記でも、
誰かの役に立っているんだなと、心が温かくなるのを感じた。
「受験前で状況の変化や気持ちのアップダウンがある中で、
しもさんのメルマガはいつも私のメールボックスで待ってくれていて、
それがとっても励みになります。本当にありがとうございます。」
定年をあと数年後に控え、最近、こんな内容でいいのかな?、
文字だけの日記は流行遅れだし、そろそろ潮時かな?なんて、
ちょっと弱気になっていた私にとって、とても嬉しい内容だった。
一度も会ったことのない読者からのメールだからこそ、
伝えられるメッセージというものが、ある気がする。
彼女の何気ない一言が私を喜ばせ、こういった読者がいる限り、
私は書き続けていこう、と思わせてくれた彼女に感謝したい。

P.S.
先日まで何の面識もない高校三年生であるが、希望の大学に合格し、
「言葉の力」について、ゆっくり話す機会が訪れることを期待したい。



2015年10月20日(火)
私と一緒に仕事してみたい方、声を掛けてください

「産業観光課」を任されて、20日。
まだまだ手探り状態が続いているが、周りの反応が明らかに違う。
今までは、生涯学習だったり、都市計画だったり、
なかなか「仕事」として「一緒に」というと難しかったのだろう。
生涯学習でいえば、講演会や生涯学習教室の講師などだし、
都市計画の分野は、何かを一緒に・・という発想がしにくい。
それに比べ「産業」「観光」「まちづくり」の分野は、
イメージしやすいのだろう、多くの方からアイデアが届く。
若い人は特に、名刺交換だけで終わらず、
こんなことをしてみたい、あんなことをしてみたい、と、
自分の夢や企画を熱く語ってくれる人が多い気がする。
そんな夢を叶えるお手伝いが、私の仕事なのかな、
そんなことを感じながら、実はまだまだ勉強中だ。(汗)
もちろん、長い間温めてきた私なりの企画もあるが、
まずは、次世代を引っぱっていく若い人たちの夢を聴くのが、
私の大切な仕事のような気がしている。
だから、最近、いろいろな場面で、こう言うことにしている。
「私と一緒に仕事してみたい方、声を掛けてください」
仲の良い人たちが集って開催する、趣味的な企画ではなく、
清水町内を始め、伊豆や静岡県東部を元気にするアイデアなら、
こちらから足を運んでも聴いてみたい。
そして、それを判断する知識を、私が磨かなければ・・と思う。
う〜ん、10月から、映画鑑賞や読書する時間が激減したなぁ。



2015年10月19日(月)
「国天然記念物」「名水百選」「日本三大清流」

大学生の頃は、ユースホステルに泊まりながら長旅をし、
就職してからは、一泊、二泊の観光地めぐりが増えた。
日本全国が、まち起こしには「観光」とばかり、
他の場所よりも、わがまちの観光地の方が優れていることを
これでもかとアピールする看板が目につく。
その看板を分析したわけではないし、確かなことは言えないが、
日本人には、好きなフレーズがある。
「国天然記念物」「○○百選」「日本三大○○」
特に「日本三大○○」は、具体的なデータに基づく番付でもないし、
どこかの省庁が選定したわけでもないのに、ポピュラーな表現で
「観光地」では頻繁に使われている。
その他「日本一」「日本初」「日本最古」「日本最後の」など、
本当に?と疑いながらも、楽しみに訪れてしまう。
先日訪れた、金沢の兼六園は「日本三大庭園」の1つだったし、
その言葉につられて、多くの観光客が訪れるのも事実であろう。
さて、わが町の「柿田川」は、なんとなんと
「国天然記念物」であり「名水百選」であり「日本三大清流」。
こんなにたくさんの「勲章」をいただいているのだから、
これを全国に向けて「情報発信」するところから始めたい。
知られなければ「日本一」「東洋一」だって、意味がないし。(汗)
シティープロモーションの大切さを、再認識させられたなぁ。

P.S.
「日本三大清流」は、日本を代表する3つの清流(河川)のこと。
「四万十川(高知県)」「長良川(岐阜県)」「柿田川(清水町)」
ひとつの町で完結する「一級河川」、この事実がすごいと思う。



2015年10月18日(日)
親を心配させるのは、親を成長させるため

時々「うちの子、いま反抗期で困るんです」という話を耳にし、
ある方から教わった、なるほど・・と思ったことが甦った。
年齢に関係なく、自我の目覚めから親への抵抗は誰も経験があるし、
その対応に困って、親がネットに頻繁に相談しているケースも多い。
子どもの成長のためには、通らなければならない道だから・・と
いくつもの処方が書き込まれ、その内容に頷くことはあるが、
人間には多様なパターンがあり、当てはまらないケースだって多い。
なにか、共通した考え方はないかな、と思っていたところ、
冒頭のフレーズにぶつかった。
反抗期は、その反抗する本人の成長ではなく、
それに一生懸命対処しようとする親を成長させるため・・という
全く違った発想は、とても新鮮ですっと腑に落ちた。
今までの親の知識、考え方では理解できない子どもの行動こそ、
親に、枠を飛び出したところに問題解決の方法があることを教え、
それを乗り越えることによって、親を成長させる手段が「反抗期」。
これならば、性別、年齢関係なく、子の反抗期を受け入れられる。
もしかしたら、この人を成長させようと、親を選んで生まれてきた、
という子どもの記憶さえ信じられる。
あっ、そういう意味では、仕事でスタッフが私を心配させるのは、
私を成長させるためだったのか。(笑)



2015年10月17日(土)
おにいさん、人は簡単に死んじゃうんだよ

映画「まほろ駅前狂騒曲」(大森立嗣監督)から。
鑑賞後のメモを眺めると、意外と「死」に対するメッセージが残った。
その1つが、まだプロローグと言える部分で、松田龍平さんが演じる
「行天春彦」さんが、公園の横の道を歩いていたら、
子どもたちの蹴ったサッカーボールが頭に直撃し倒れるシーン。
ボールが当たったくらいで・・という軽い気持ちで覗き込む、
子どもたちと指導者に向かって、ムクッと起き上がってこう言う。
「おにいさん、人は簡単に死んじゃうんだよ」
なぜか、このフレーズが印象の残った。
人間の一生なんて、誰もわからない。
老衰まで生きる人の方が少なく、病気や交通事故、自然災害など、
本人の意思には関係なく、昨日まで元気だった人が亡くなることはある。
冒頭のシーンでも、打ち所が悪ければ、死ぬことだってあり得るし、
ちょっとしたハプニングやアクシデントだからと、簡単に考えてはいけない。
そんなことをメッセージとして受け取った。
さらに物語ラスト近くに、病院屋上での会話が気になった。
「これが最後の春になるかもしれないな」と呟く老女。
「あの世なんてないよ。でも俺、あんたのこと、
なるべく忘れないようにする。俺が死ぬときまで。。それじゃダメ?」
「そりゃ、いいね」
さらっと流れたシーンであるが、とても印象に残った。
「死」というものをどう捉えるか、考えさせられた作品である。