ある種の曖昧さ

 学生時代、ちょっとしたプログラムを作りました。 C言語で。
 その時に、"if else"文とか、"switch case"文というのを使います。
 これは、まぁ英訳そのままで、"もし〜なら""〜の場合"みたいな使い方をするのです。
 例を挙げれば、"if x=1 y=1 else y=1"って感じ。
 "もし、xが1ならyは1。xがそれ以外ならyは2"ってことですね。
 これで、いわゆる条件分岐ってのを作っていくわけです。

 最初は、そうややこしくはないんですね。
 大体、シミュレーションした内容を置き換えていくだけです。
 それが、ある瞬間から、作業量が爆発的に増加する。
 いわゆる、「想定外」ってやつです。

 そういうときにどうするか。
 僕の研究内容は、ニューラルネットワークでした。
 簡単に言えば、ある種の人工知能です。しょせん子どもの手遊びレヴェルでしたけど。
 これはどう言うものかというと、自己最適化を行うものです。
 結果をフィードバックして、自ら変数値を変えていく。
 それによって、結果の誤差をどんどん減らしていくのです。
 これは、人間の成長過程とよく似ています。

 何かを作ろうとしたときに、必ず何かしらの問題が発生します。
 それを、きっちりとした原則に基づいて解決出来る事って希です。
 そこで、いかにその問題を解決するか、ということが、才能ってやつだと思っています。
 ニューラルにおいては、ある定数を指定してあげます。
 その定数によって、学習する速度や最終的な誤差の範囲が変化するのです。
 この定数ってやつが、人間でいう才能なんじゃないのかなぁ、と漠然と思っていました。

 プログラミングの話に戻ると、そういうときには、えいやっで括ってしまいました。
 これは、理論もなにもない、直感だけです。
 動くときもあるし、動かないときもある。
 直感というのは、研いでおかないと働きません。
 何が切っ掛けで、脳神経シナプスが繋がるかはその人次第なんですね。
 たぶん、ある種の曖昧さが必要なんだと思います。
 現実世界って、アナログに見えて実はデジタルだから、隙間が絶対ある。
 そこを埋めるのが、ある種の曖昧さなんじゃないかなぁ。
2005年05月30日(月)

人間らしさ

 どんな超人にだって、子ども時代はある。
 いきなり大人になるってことは有り得ない。
 もし、万が一そういう状態があるとしたなら、きっと、その状態が「彼」にとっての子ども時代。
 そうじゃないか?

 ややもすれば、その強大な能力の前に、その前提を忘れがちだ。
 しかし、前提条件は崩れない。それが万物の法則である限りは。

 ま、だからといって何が変わるってわけでもないんだろうけどね?
2005年05月29日(日)

エゴ、というもの

 エゴというものは消すことが出来ない。
 ま、エゴ=自我なわけだから、それは当たり前のことなんだけど。

 それを、出さないようにすることも、おそらく不可能。
 生物が生きていくという事は、つまりはエゴを出す、と言うことと同義だと思う。
 しかし、ほとんどの場合、他人のエゴは不愉快なものだ。
 世界は、たぶん思ったよりも狭いから、誰かのエゴが通ると、自分のエゴが通らなくなるから。
 だから、争いが絶えることはないし、ヒトはどこかでいがみ合う。

 だけど、エゴをしっかりと認識することが出来たら。
 そして、自分の周りを、客観的に見渡すことが出来たなら。
 その時、初めてヒトは、ヒトとして本当の一歩を踏み出せるのだと思う。
2005年05月25日(水)

本よりの引用

 ゼノサイド 下巻(オースン・スコット・カード著、田中一江訳、ハヤカワSF)のP.111末尾より。

 「お互いを所有しようとせずに人は人を愛することができないものなのだろうか。あるいは、それは人類の遺伝子の奥底に刻みつけられて、けっして捨てられないのだろうか。縄張り意識というものだ。"おれの"妻。"おれの"友だち。"おれの"恋人。聞いたこともない惑星に住む、半分頭のおかしいOCDの天才少女の必死の努力で遮断されようとしている"おれの"腹立たしくも口うるさいコンピュータ人格。ジェインがいなくなって、どうやって生きていけばいいのだろう。」

 人類が引き起こすあらゆる諍いの原因は、ただ所有欲のみにあるのでしょう。
 すべてがすべてを、ありのままに受け入れ、ありのままに感じることが出来るのなら、この世の争いはすべて綺麗に消え去るんでしょう。それは、あるいは人の文化における終焉となるのかもしれないですが。
 つまり、「熱力学の第二法則」の先にある、すべてが平衡状態となる『閑かな世界』ですね。

 「すべては神の所有物である」なんていう宗教家の戯言が、もしも真実のものだとしたなら、僕らはもっと生きやすく、平穏で、和やかに暮らせるのかもしれません。
 それを信じられるほど、世界は友好的ではないのですけれど。
2005年05月21日(土)

新煙草

 ちょっと古いですが、JTの新製品が全国発売になりました。
 僕はピース愛好家で、ずっとミディアムを吸っています。
 今回の新製品で、ピース アロマメンソールがお目見えしたので、早速吸ってみました。

 アロマの部分はちょっとよく分からないのですが、とても吸いやすいメンソールです。
 きっちりとハッカで、吸い心地も悪くないです。
 軽く、ふわっとしてしまう煙草ではなく、あくまでピースを貫いている感じ。

 ミディアムから乗り換える気はないですが、二つとも好きです。
 特に、ミディアムはあまり売っていないことが多いので、そういうときには助かります。
 アロマメンソールも、自販機から消えていったら嫌だな〜。
2005年05月20日(金)

急ぎすぎ

 乗り換えのときに、走っていく人がいる。
 とても混んでいる駅のホームを、駆けていく人がいる。
 クルマを運転しているときに、煽っている人がいる。
 ずっと渋滞が続いているのにもかかわらず、べったりと後ろにくっついて。

 なんだか、みんな急ぎすぎなんじゃないのかな、と思うのです。
 確かに、時間は貴重なものです。
 過ぎ去った時間を取り戻すことは出来ません。
 だけどね、駆けている時間こそ、無駄にしている時間だとは思わないのかな。
 豊かな時間の使い方というものを、再考してみるべき時期なのではないかな。

 スローライフという言葉が、ちょっとだけ流行ったけど、あんな大層なものである必要はない。
 息を、一つだけ、ゆっくりと吐いてみればいい。
 そして、周りをゆっくりと眺めてみるだけで良い。
 自分が、どんなに醜い姿をしているのかが分かるはずだから。

 常に余裕を持っている人を、僕は憧れます。
 はたから見ていて辛そうなのに、それを笑い飛ばしている状況に、僕は感動します。
 急いでいるときだからこそ、道を譲ってあげる。
 そういう、ワンテンポを行動の前に置いて過ごそうと思います。
2005年05月18日(水)

人間関係についての考察

 友人とか、そういうものについてつらつらと考えてみた。

 まず、人が集団を作るという行動は、動物的本能によるものであろう。
 単独では勝てない相手を狩るためのものであると想像できる。
 または、狩られないための予防行動。
 単体が強い動物であれば、群れを作ることによるメリットがあまり無い。

 ヒトという種における集団も、大きな視点で考えれば同じことが言える。
 一人では通らない意見も、集団の力を持てば通ることが多い。
 つまり、戦うべき相手は、自らと同じ種であるということになる。

 で、本題に移る。
 友人という関係が、いまいち分からない。
 共通の目的を持って、それに向かって邁進する、という集団は、友人と呼ぶのか?
 まあ、定義の話は結論付きようがないので、取りあえず棚上げするとしても、端から見ているに、ただの隷従関係になっている「友情」が多い気がする。メリットデメリットを言い出したらきりがない上にナンセンスなのかも、とは思うのだけど、じゃあ、何故に徒党を組もうとするのだろうかというのが、本当に不思議に思うことがままあるわけだ。
 自身が、あまり人間関係を築きたくないと思う性向なので、余計にそう思うのかも知れない。

 例えば、仕事上の人間関係というのは、全然不思議に思わない。
 むしろ、進んで良好な人間関係を築いていこうとする自分がいる。
 しかし、その築く相手は、結構シビアに選別している。
 性格的な部分が大きいが、能力的なものを期待しての場合もある。
 確実に言えるのは、「一緒に仕事をしていて楽であること」を常に最重要項目として、無意識的に行動しているということである。それは、客観的に考えるに、当たり前の帰結だ。能力的に優れている人が集団にいるなら目的の遂行は容易になるし、場の雰囲気を和やかに保てる人がいれば、険悪なムードに陥ることもなくなる。

 それを、ごく私的な場に持ち込んでみた場合に、とたんに分からなくなる。
 普通に集団を組んで生活している人に、じっくり聞いてみたい。

 思うに、不安なのかな、と。
 常に、誰か他人からの視点で自分を認識してもらわないと、自分自身の存在そのものが揺らいでしまうのかも知れない。しかし、それはあくまで、自分に好意的なものでなければならない。何故なら、そこで否定されると言うことは、自らの存在そのものを否定されることだから。
 最初にも述べた自己防衛の一つなのかもしれないな。

 価値観を共有することに喜びを見いだすのは、動物的な本能なのかな?
2005年05月16日(月)

タイトル

 好きになる作家さんには、タイトル付けが巧い人が多い。

 例えば、恩田陸さん。
 「三月は深い紅の縁を」とか、ぞくぞく来ます。

 例えば、森博嗣さん。
 「笑わない数学者」のセンスには、もう圧巻です。
 英題のセンスも素晴らしいですね。「封印再度 - Who Inside」の掛け合いとか。

 例えば、村上春樹さん。
 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の響き。

 例えば、樋口祐介さん。
 「彼女はたぶん魔法を使う」なんて、小洒落かたが半端ないです。

 いちいち挙げたらキリがないのですけど、改めて眺めると、本当に素敵なタイトルばかりです。
 やはり、本の顔となるべきものだから、ここの力が抜けている作品は、内容もいまいちなのかもしれないな、と思う次第です。もっとも、タイトル「だけ」で終わる作品も、実は相当数あるのですけどね…。
2005年05月12日(木)

東京で思うこと

 昨日一昨日と、東京出張でした。
 何回か行ってるのですけど、行くたびに実感して帰ってきます。
 東京には、住めないなぁ。

 もともと、東北の片田舎出身なので、とにかく人混みというものが苦手です。
 ビルに囲まれた生活、と言うのも、気分的に息が詰まるのです。
 東京の人に言わせれば、「慣れる」ということなのですけれども、
 それに慣れたいと思わない自分もいるわけです。

 人と人との距離感、というものがあると思います。
 べったりくっついて過ごすのが好きな人もいるでしょうけど、僕は苦手です。
 むしろ、孤独な時間の方がよっぽど落ち着くのですね。
 これは、今まで歩んできた生活習慣によるものも、多分にあるのだとは思います。
 人と過ごす時間も悪くはないですが、それが四六時中だと息が詰まって仕方ない。
 趣味に関しても、独りで楽しむものが多い傾向にあるようです。

 誰かと繋がっていなければ不安になる、という人がいます。
 独りでいることは罪悪のように書き立てるマスコミも多いです。
 しかし、一方では、僕のような人もいるわけです。
 適度な距離感、というものを、もう一度考えてみるのも良いかもしれませんね。
2005年05月11日(水)

表現について

 自分の思っていることを、100%表現することは不可能ではない。
 しかし、それが100%伝わるかと言えば、それはほぼ不可能だと思う。
 生まれ育った環境、蓄えてきた知識、感受性、思想、その他様々な要因。
 そういったものが複雑に絡み合って、一つの個がある以上、仕方のないことかもしれない。

 しかし、だからこそ、通じ合ったときの感動は素晴らしいものがある。
 昔読んだ、なにかの作品に、こんなフレーズがある。
 「たとえ、10年間が真っ暗闇の暗黒を進むようなものだとしても、その中で、たった一度でも、至福の喜び、感動を味わうことが出来たとしたなら、その10年間は、その一つの記憶だけを頼りに生きていくことが出来るに違いない。それを可能にする、それこそが人という生物の持つ、最大の可能性なんだ。」
 このたった一度、心底から沸き上がる喜びを受け取らせてくれるもの。
 それこそが、気持ちの通じ合うという瞬間に他ならないのではないか。

 表現とは、片一方のものではない。
 発信するものと同時に、受信するものが必要だ。
 価値とは、必ず「受け手によって決められる」ものである。
 それを忘れた表現は、ただの独りよがりに過ぎないと思う。

 何かを発信する、そのこと自体はそれほど難しいことではない。
 しかし、誰かに伝えるという指向性を持ったときに、難易度は格段に跳ね上がる。
 不特定多数に伝えるのは無理でも、伝えたい人にしっかりと伝えられる表現。
 そういうものを、きちんと身につけていたいものだなぁ、と願う。
2005年05月08日(日)

多重人格

 誰でも、自分の中にいくつかの人格を持っていると思います。
 よく言う、うわべと本音、みたいな感じとか、天使と悪魔とか。

 これを、まったくの独立した人格としてうちに持つことが出来ないか、と思っています。
 本質的な客観性を確立させる手段として、有効なんじゃないかな、と。
 言ってみれば、複数の価値観が、ひとつの身体の中に共存している状態。
 精神的なバランスを保つのが、ちょっと困難になりそうな気もしないではないですが…。

 いくつか、融合しつつ朧気に別れてきているかな、と言う認識はあるのですけど、別個のものとして、それぞれが独立して動くと言うところまではまだいっていません。もし、完全にそれぞれを独立して持つことが出来るとすれば、思考そのものをマルチタスク化出来るという利点も出てくるのではないかな、という期待もあります。
 制御さえきちんと出来れば、まぁ、見た目だけで終わるかもしれませんけど、いわゆる「天才」と呼ばれる領域が覗けたりするんじゃないか、というあまりに無謀な試みです。

 かなり夢物語入ってるんですが、人の可能性には、そのくらいの余地はまだまだありそう。
 悟りを開く、と言うのも、ある種これに近いのかもなぁ、とか思ったりしています。
2005年05月07日(土)

休息も終わり

 今日から仕事に復帰です。

 いきなり、障害2連チャンってどういうことですか。
 しかも、両方、結構ヘヴィな内容だった…。
 ま、一気に仕事モードに戻れたのはよかったのかもしれないですが、草臥れ侍です。

 なんか暑いので、今日から半袖モード。
 夏になったら、とかあまり考えないことにします…。
 汗かきなので、暑いと汗だくになって、あまり見た目が良いものじゃないんですよねぇ…。
2005年05月06日(金)

ゴールデン

 かねてより予定していた、但東シルク温泉へと行ってきました。

 まず、R176をがーっと北上し、途中からR175へと乗り継ぎ。
 地図で見ると、但東町までいけば、丹後半島はすぐ先に見えたので、折角だから、日本海まで行っとく?と安易に思いつき、そのままR9に乗らずに、R175を北上しました。
 この時点で、僕はゴールデンウィークをなめておりました。
 なんと言っても大型連休。黄金週間。

 走っているうちに、「天橋立」の文字が行き先表示板に出てきました。
 日本三景です。まだ見たこともありません。
 よし、折角だから行ってみよう!
 何この混雑ー。駐車場から歩くとかだるいー。道路べたべたで動かないー。
 さすがゴールデン!一筋縄ではいかない!
 ということで、見ずにそのままUターン。

 来る途中で、「滝の千年ツバキ公園」という看板を見つけていました。
 なんて心そそられるネーミング!
 と言うわけで、めげずにこちらへ向かいました。
 途中の道はがらがらで、ゴールデンと言ってもこんなものかふふん、ってな感じで走ります。
 ツバキ博物館が見え、この先にあるはずだー、と通り過ぎようとしたときに、目に入りました。
 「ただいま、この先は通行止めとなっております。
  ツバキの花は、残り僅かです。」
 なんだとー!!
 やるなぁ、ゴールデン(あまり関係ない)。
 あ、看板の写真撮ってくれば良かった。

 この時点で、時計はすでに15時を指してます。
 家を出たのが11時くらいだから、4時間近く運転して、まだ何も見ていません。
 しかも、このままだと帰りが遅くなりそう!
 ということで、当初の予定通り、そのまま但東町へと向かいます。

 R9から横にそれ、R426へと入ります。
 すると、道の片側が崩落していて、片道通行の場所がかなり多い。
 行きはそれほどでもないけど、帰り道になるであろう対向車線がベタ混み。
 一抹の不安を抱えつつ、そのままシルク温泉へ。

 ここも凄え人だよ!
 ここまで来たんだから、と言い聞かせつつ、内湯と露天に浸かってきました。
 泉質はアルカリ系。肌がしっとりスベスベになります。
 結構上等な泉質でした。お湯がぬるめなので、長湯しても大丈夫。
 でも、あまりの人の多さに、1時間と入らずに上がりました。勿体ない。さすがゴールデン。

 同じ敷地に立っている食事どころで、赤花ソバというものがあると前知識を仕入れていたので、これを賞味すべく、湯上がりの火照った身体でのれんをくぐります。時間帯は17時。まだ、それほど混んでもいないです。ふふん、時間差には弱いようだな、ゴールデン!
 注文したら、「ソバは終わっちゃったんですよ〜」。
 油断大敵!
 牛肉コロッケ定食を食べました。美味しかったから良いですけど。

 で、お腹もふくれたことだし、帰ることに致しましょう。
 予想が嫌な感じに的中だよー。
 R9に出るまで、1時間半くらいかかりました。

 R9に出てからもベタ混み。
 来るときは、違うルートから来たよな?あっちは空いてそうだったよな?
 と、またもや安易な考えを浮かべ、一路裏道へ。
 気付いたら、「綾部市」とか看板でてるよ〜。ぜんぜん違うよ方向〜。
 むむ〜、こんなところまでもゴールデンか!(絶対違います)。

 しかも、帰り道の途中でリザーブ点灯したし。
 すぐスタンドがあったから良かったけど。

 結局帰り着いたのは、21時ちょい過ぎでした。
 総行程、約400km。時間にして、10時間。
 温泉行ってきたはずなのに、疲れてるのはなんでだろ〜(笑)。

 ま、大体のことは掴めたので、ゴールデンじゃないときにまた行こうと思います。
 滝の千年ツバキ公園は、是非行ってみたい。
2005年05月04日(水)

連休中日

 起きたら昼でびっくり。

 当初の予定通り、本日は部屋の掃除を実行。
 片づけしていて気付いたのだけど、散らかり方には法則があるらしい。

 1.読み終わった本をその辺に放置
 2.その本の上にさらに別の本が放置
 3.CDとかもその周辺に
 4.紙切れだのダイレクトメールだのがさらにその周辺に
 5.ペットボトルとかが乱立
 6.阿鼻叫喚

 みたいな感じ。

 本は本棚へ、CDはCDラックへ、カエサルのものはカエサルのもとへ。
 そろそろ棚もパンパンになりつつあるから、整理するか買い足すか悩ましいところ。

 BGMにadvantage Lucyをかけながら掃除してました。
 今日は天気も良かったし、窓を開けながら、適時休憩取りながら。

 明日は、ちょっと遠方までドライヴ&温泉の予定。
 朝、きちんと起きなきゃな〜。
2005年05月03日(火)

日々 / いけだ