TOM's Diary
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今年のクリスマスも無事に終わった。 年末に向けて最後の追い込み。
子供の頃であれば、冬休みに突入していて学校には行かなくて良い上、 クリスマスのプレゼントにお正月のお年玉に、嬉しいイベント盛り だくさんな時期だった。 今にして思えば、なかなか欲しいものを得ることは出来なかったが、 それでも一年で一番嬉しい時期であったことは間違いない。
いまでも覚えているのは、おもちゃのラジコン。 欲しかったのは、無線操縦できるものだったが、 それは大人になってから自分で買った。 クリスマスにもらったもので記憶に残っているのは二つ。 戦車とポルシェ。
戦車は、穴の開いたレールを戦車に差し込むと動き出すもの。 レールには、爪のようなものをはめられるようになっていて、 レールを差し込むとゆっくりと吸い込まれていき、爪の部分が 戦車に吸い込まれると左右に曲ったり、砲塔が動いたりする。 つまりレールに戦車の動きをプログラミングするようなものだ。 単純なものだが、これはこれで面白かった。
これは小学校低学年のころのものだったと思う。 思っていたのとは違ったが、ある程度自分の思い通りに動かせる というのはとても嬉しかった。 きっと中身は大した事はないのだろう。レールが挿入されると マイクロスイッチが入ってレールを吸い込むモーターが回り始め、 レールに爪が刺さっていると、その爪でマイクロスイッチが押され モーターが動いたり動かなかったりするだけだと思う。
でも、子供の頃はそれがとても新鮮でとてもよかった。
次に記憶に残っているのは、ポルシェ。 有線のリモコンでコントロールするのだが、ボタンを押すと左 カーブすると言うだけの代物。クルマの基本は走る・停まる・曲る の三つだと思うのだが、このポルシェは曲るのみ。しかも右には 曲らない。左のみ。とにかく本体の電源を入れるとひたすら走り 続け、ぶつかる直前でボタンを押して左に曲げて回避。しかも犬の 散歩よろしくひたすらポルシェに引っ張られて着いていかなくては ならない。
小学校の高学年にもなるとそんなもので満足できるはずが無い。 すぐに飽きて、なんとか右にも曲げられないか、走行用のモーターを リモコン側でオンオフできないか、研究にはいる。 研究というとすごそうだが、単に分解して構造を調べ、元に戻せなく なってお釈迦と言ういつものコースをたどるのだが、今思えば、走る 停まるくらいの機能追加ならすぐに出来たはずだ。 メインスイッチを手元に持ってくればいいだけだ。まずは簡単に出来 そうな、走る停まるだけでも改造してみればよかったのだが、当時は 右にも曲げたいと言う思いのほうが強く、なにもできないまま壊して しまった。
だが、買ってきたおもちゃをそのまま使うのではなく、なにか改良し て、思い通りのものに作り変えてやろうと思った最初のおもちゃが ポルシェであったと言う意味で記憶に残っている。
それにしても、親に買ってもらったおもちゃもあっという間に壊したり 飽きてしまったりして、とても無駄なことしてしまったなぁと思うと 親に申し訳ない気がする。
今は姪っ子や甥っ子におもちゃを買ってあげる立場だが、何年もその おもちゃで遊んでもらっていると、嬉しくなってつい次もおもちゃを 買ってあげたくなる。 自分がなかなかおもちゃを買ってもらえなかったのは、それが無かった からかなぁ〜と、いまさらのように反省してみたりして。
昨夜は仕事が終わらず、家に仕事を持ち帰えった。 もちろん、帰宅はいつもより早め。 いつもどおりでは仕事を持ち帰る意味がない。 と言っても深夜11時。 夕飯を食べて入浴し、12時過ぎから作業開始。 深夜、静まり返った書斎での仕事はとてもはかどる。
しかし・・・ 仕事ははかどるが、だいたい出来たところで 細かいところが気になり始める。 「ここには、このデータを追加したほうがわかりやすいに違いない」 「このデータはこういう風に表現した方が、言いたいことが強調される」 「ここの言い回しはもっときつく言った方がいいだろう」 細かいところを修正し始めるときりがない。 どうせ、明日の会議でその辺は指摘もらえるに違いない。 むしろ下手にこだわりすぎても元に戻すことにもなりかねない。
そんなことを思いつつも、しかし、身体は徹夜モード。 徹夜をするときにはいつもそうだが、気分は妙にハイテンション。
そうは言っても、修正箇所も見つからなくなる。 4時過ぎにいったん寝ることにする。 今からなら3時間は眠れる。 明日もがんばるぞ!
・・・しかし、さすがに学生時代のようにはいかない。 翌朝は1時間の寝坊だった。
朝日がまぶしい 少し肌寒いかと感じながらも軽い服装で家を飛び出す いつもは朝日を背に受けながら会社に向かうが今日は日曜日 朝日に向かって車を進める いつもと逆方向に向かうというだけでも気分がよい
このあたりは渋滞の名所だ しかし渋滞は平日の朝とは逆方向 平日なら夕方に渋滞する側が混んでいる しかし、平日の夕方ならどの道を行っても混んでいるが今日は日曜日 最近出来たばかりの海沿いの道なら空いている 国道に戻るのは渋滞の先頭だ 地元の人間だけの特権 たかが渋滞を避けただけだが、とっても得をした気分
町の中心部を抜けると道は南に下り始める このあたりに来ると信号の数もかなり少なくなる 窓を開けて早朝の綺麗な空気を車内に取り込む のどかな風景とさわやかな風が日ごろのストレスを吹き飛ばす このままどこまでもドライブを続けたくなる
海沿いの道に出た 今日は日曜日 漁船もお休みだ 大小様々な漁船が港にたたずむ クルマを停めて一服入れる 船の手入れをしていた老人がこちらを向いて手招きをする 「悪いがちょっと手伝ってくれ」 エンジンの部品だろうか? 軽トラに積み込むのを手伝う 「せがれに手伝わしていたんだが、電話しに行ったきり戻ってきやしねぇ」 言葉は乱暴だが、とても優しい表情だ 「せがれのだが、あんたにやるよ」 軽トラの運転席から缶コーヒーを取り出して私に差し出す 躊躇すると荒れくれた手で私の手を掴み握らせてくれる こんな日に船で海にでるのは気持ち良いだろうな 「あぁ、今日みたいな日は最高だ」 人なつこいこの老人と話をしていると心が落ち着くような気がする まるで昔からの知り合いのようだ
老人のせがれが戻ってきた どこかの会社の管理職とでも行った感じの中年だ 老人によると漁にはまったく出ず役所の助役かなにかをやっているそうだ 私の顔をみて怪訝な表情を浮かべる その様子を見て老人は怒鳴った 「馬鹿やろう、どこまで電話しにいってたんだ」 事情を聞いた助役は深々と私に頭を下げる 居心地がわるくなってきた 「おやじ、手が必要なら他人に迷惑かけないで家まで呼びに来ればいいじゃないか」 他人という感覚ではなかったし、迷惑とも思っていない 「すまねぇな、こんなせがれで」 老人は助役の言うことは無視して私に言った 助役は助役で「すまないねぇこんなオヤジで」と言う表情を私に向けた 父は子を想い、子は父を想う 良い人たちに出会えた 助役に対して「居心地が悪い」と感じたことを恥じる
進路を東に変える ここからは山道だ 木漏れ日がまぶしい 快調に飛ばしていると前方に軽自動車が現れた 軽自動車に合わせてペースを落とす ハイペースで走るのも楽しいが、 ローペースで丁寧にコーナーをクリアしていくのも楽しい
後方からスポーツカー追いついてきた ちょっと古い型の小型のスポーツカー 金の無い若者が免許を取って最初に乗るタイプのスポーツカーだ 後ろにぴったりと貼りつく 短い直線で強引な追い越しかけようとする カーブの先から対向車が現れて追い越しを断念する 車間距離を取らないからだ 対向車線に出てからでないと加速できないから間に合わないのだ そんなことを何度か繰り返し、ようやく長い直線で追い越していく それでも軽自動車の前には出られない 背後にぴたりと貼りつかれた軽自動車はしばらく我慢をしていたようだが 道幅が広くなったところでハザードを出して道を譲る 窓から手を出して、私にも前に行けと合図がでる スポーツカーは弾けたように加速をしていった やんちゃだなぁ
一旦離れていったスポーツカーだが、しばらくすると追いついてしまった ペースを落としたのかとも思ったがどうやら加速は良いがコーナーが遅いようだ 後ろから見ているとへたくそなのが良く判る コーナーに入る速度が速すぎて途中で急ブレーキを踏んでバランスを崩したり センターラインを超えて走っているものだから対向車に驚いて失速したり とにかくヘタと言うよりセンスが無いと言った方がよい
ついにやってしまった 落ち葉に足をすくわれ、挙句に対向車に驚いてブレーキを踏んだとたんに 左後ろをガードレールにヒット 大した事はないようだ バンパーが少し削れただけだ そう思って見ていると、なんと言うことか そのまま道の真中に停止しやがる 左に寄せろよ、左に・・・ こちらも一旦停止し対向車をやり過ごそうとする 対向車がスポーツカーとすれ違おうとした瞬間 スポーツカーの運転席ドアが開きかける 見ているこっちの方がヒヤっとする まったく、どこまでも迷惑な野郎だ
降りてきたのはやはり学生と思しき若者だった 私の方を見て慌てて車に戻る ん? スポーツカーは左にゆっくりと寄って停まった どうやら後ろにクルマがいることさえ気がついていなかったようだ 気がついて左に避けるだけでも、まだ救いようがある 抜かし際に声をかける「大丈夫か」 「すみません、大丈夫です」 運転席で照れくさそうにペコリと頭を下げる 根は良い奴のようだ 早く運転上手くなれよ 「ありがとうございます」 クルマだけでは判らないものだ
峠の頂上に着くと目の前に海が広がる 坂を下り始めると海はまた見えなくなるが その前に脇道にそれる 狭い道をゆっくり登って行くと広くはないが見晴台のような場所がある ここから見る海は最高だ 今日の目的地はここだ 波頭が太陽の光にキラキラと輝き 遠くには大型の汽船がゆっくりと航行する姿が見える 手前の山は紅葉が映え、真っ青な海と秋晴れの空とのコントラストをなしている 撮影にはもってこいの状況だ やはり今日来てよかった さっそくカメラを取りだし、撮影をしたあと じっくりと景色を目に焼き付ける 写真を撮るのが目的だったがあまりの素晴らしさに写真を撮るのを忘れるほどだ 私の腕を越えた風景だ 気分は最高だ
どのくらい景色を眺めていただろう 別のクルマがやってきた カメラを抱えた人たちがぞろぞろと降りてきた それをきっかけにしてクルマに戻る 峠を下ると行きつけの食堂がある 漁港のそばにあり新鮮な刺身などがやけに美味い 昼飯の想像をしながら坂を下る
昨夜のことだが、爆笑問題の二人がラジオで語っているのを聞いた。 以下は爆笑問題の話の中から私が聞き取ったことである。 (爆笑問題が話したことそのままではない。彼らは2時間に渡り話を していたので、とてもすべて書ききれない。私が聞き取った内容であ って私の受け取り方で彼らが話した内容と弱冠違うかもしれないので ご了承願いたい)
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9・11は確かに衝撃的であった。 目の前で飛行機がビルにぶつかり、そしてその中にいる人たちはどう なっているのだろう?と想像しているところに、そのビルが突然崩れ 始めた。衝撃的でないはずがない。テレビのこちら側にいても背筋が 凍りつく思いをした。 こんなことをした人に対して報復を行いたくなる気持ちも良く判る。
10数年前、湾岸戦争をやはりテレビで見ていた我々は、遠くの方 で、ロケット弾や対空砲火の曳航弾の光をまるで花火のように綺麗な 光景として眺めていた。ミサイルに搭載されたカメラからの画像など はまるでビデオゲームのように目に映った。 その下でなにが起こっていたのかなど、とても想像できなかった。
しかし、当時あの花火のような光景の下にいた人たちは、9・11 に匹敵する、あるいはそれ以上の悲惨な光景を目の当たりにし、大き な衝撃を受けていた。
当時米軍は劣化ウラン弾を大量に使用した。 劣化ウラン弾と言うと、あたかも原子爆弾を作った廃材を利用した爆 弾のように聞こえるが、放射能を大量に含んだ、原子爆弾に変わりな い。確かに爆発力は広島・長崎に投下されたものとは比べ物にならな いが、放射性物質をそこら中にぶちまけることには変わりない。これ は、まさに原子爆弾の一種と考えてもよいのではないか? (事実私が子供のころに読んだ本では核兵器の一種として劣化ウラン 弾が紹介されていた。当時は違う名前だったと思うが、効果としては 劣化ウラン弾と同じであり、明らかに通常兵器とは別の扱いだった) 放射能の恐さは、その場ではなんともなくても後から白血病などの被 害が出てくることだ。湾岸戦争も終わり、平和な日々が戻って来たと 思った矢先に、子供や親がバタバタと倒れていくのだ。
こうした被害を受けた衝撃的な光景を目の当たりに人たちの立場に なって見よう。あれから、10数年後、9・11に衝撃を受けた人々 がまたもや攻撃を仕掛けてくる。最初はビンラディンを、そこまでは 良かったかもしれない。勢いづいた軍隊は矛先をイラクに向けてきた のだ。自分たちはもっとひどい惨状を目にしてきた。そして、いまだ に劣化ウラン弾の後遺症に悩まされつづけている。そんな我々から、 またもや、平和な生活を奪おうというのか・・・
イラクで拉致された香田さんがクビを切られて死亡した。 国内では「自己責任」「自業自得」と言う声が多数あった。「自業自 得」と言えばそうかもしれない。政府が渡航を自粛するよう勧告を出 していたのみ関わらず、渡航したのだ。 だが、クビを切られなければならないほどのことを彼はしたのだろう か?国内を見たときに、もっと重大な犯罪を犯した人たちでさえ、多 くは死刑になんてならない。政府の勧告を無視したことは重大な過ち かもしれないが、その程度で死刑にはならないだろう。 まして、リンチや見せしめのために殺されるようなことは一切してい ないと思われるが、どうだろうか? 爆笑問題の二人や、私だけがそのように感じるのだろうか?
もし、これがアメリカなら「同胞が殺された!報復だ!」となるの かもしれないが、日本ではそうならず「自己責任」「自業自得」とな るのは、悪いことではないと思われる。日本は50年前に戦争は終わ らせたのだ。
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戦争回避のためにはなんでも相手のせいにせず、まずは自分たちに 非がないか省みると言う事が大事なのかもしれない。これはなにも戦 争に限ったことではない。日常の生活の中でも言えることだ。無用な トラブルを避けるためにも必要なことだと思う。
明日12月15日はドヴォルザークの交響曲第九番が発表された日だ。 「新世界より」と言った方が判りやすいだろう。 1893年のことだった。
ここで言う「新世界」とはアメリカのことである。 他にもドヴォルザークは弦楽四重奏曲「アメリカ」などを 作曲している(個人的に「アメリカ」はそれほどの名曲とは 思わないが・・・)。
チェコ出身のドヴォルザークは、弱冠16歳でプラハに留学し 貧困とたたかいながら作曲活動を続けたそうだ。 その後、ブラームスに見出されたドヴォルザークは「スラブ舞曲 (スラブダンス)」で名声を得ることになる。このときドヴォル ザークは46歳。おそらく作曲家として一番脂の乗った時期だった と思われる。その後も作曲活動を続け、50でプラハ音楽院教授、 そして、翌年、アメリカはニューヨークの国際音楽院の院長に迎 えられることになる。
ドヴォルザークにとってアメリカはまさに新天地、新しい世界で あったのだろう。どのような気持ちでアメリカを見ていたので あろうか? 古い歴史に包まれたヨーロッパから、すべてが新しいアメリカに 渡ったドヴォルザークにとって、とても刺激的で夢のような世界 だったに違いない。作曲家としての創作意欲を大きくそそられた のだろう。ドヴォルザークの一番の名曲とも思われる、「新世界 より」はこの時期に作曲されたものだ。アメリカの大自然に魅せ られてこの曲を作曲したと言う気持ちが、わかるような気もする。 曲からもアメリカの大自然の様子がよく伝わってくると思う。
ところで、ドヴォルザークを検索していてこんなものを見つけた。 「土・掘・削(ドヴォルザーク)」 まぁ、悪くないネーミングだとは思うけど・・・
東京の臨海地区で予定されていた都市博は 当時都知事になった青島氏の公約通り中止 になった。
理由は良く覚えていないが、確か税金の無 駄遣いを無くすことだったと思う。当時は 都民ではなかったため、あまり正確なとこ ろは覚えていないが、確かそんな理由だっ たと思う。
今日のニュースを見ると、都市博中止に伴 なう、都の融資が20億円も焦げ付いてい るとのこと。そのうち5億近くは融資先が 倒産などで回収不能と言うことになってい るらしい。これらは我々都民の税金で穴埋 めされるのだろうか?当時は都民ではなか ったので、対岸の火事だったが、現都民と しては、かなり気になる。
青島氏の責任もあるだろうが、青島氏の公 約を支持して投票した都民にも責任はある だろうし、彼らの税金を使って穴埋めする ことは構わないのだが・・
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今調べたところによると、青島氏は当選後 はじめてお台場を訪れ、都市博の準備がか なり進んでいることに驚いたそうだ。青島 氏も驚いただろうが、現状の確認もせずに 公約に掲げていたことの方が驚きだ。
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