|
|
■■■
■■
■ 御手洗(またか)
耳障りな電信音が鼓膜を突き刺して僕の脳に嫌な余波を起こす。 何度目かなるその苛立たしさに、僕はついに叫んだ。 「いい加減にしてくれよ、何度目だと思ってるんだい?」 その電子音を今すぐに消してくれっその言葉まで付け足すには、僕の気力は神経がやられていて及ばなかった。 代わりに心底うんざりという顔をしてみせる。 「ごめんちょっと今手が離せないんだ」 台所から水の音と一緒になって声が返ってきた。 食器を洗っているのだろう。 だがそんなこと、構いはしない。不快なものは不快なのだ。 「全く、こんな耳障りな音を組み合わせることに成功した人間がこの世にいるとはね!」 モーツアルト並みの大快挙だ。 そう毒づいて、僕は石岡君の携帯を手に取った。 テーブルに置きっぱなしにされていたそれは、ちかちか目障りなLEDランプをつけ、相変わらず僕の神経に挑戦してくる。 その自己主張っぷりも、癇に障る。 このまま投げつけて壊してしまおうかとさえ思うほどの衝撃にかられたが、流石にそれは無理だろう。 画面にはこの金属の塊りに電気回路を通じて音を出すよう命じさせたであろう相手の顔が映っている。 女の子だ。見たことがあるぞ、誰だか知らないけど、部類はわかる。石岡君のファンの子だ。 僕はその着信画像を睨みつけながら、石岡君に携帯を投げつけるようにしてよこした。 「わっと、御手洗、投げなくたって……どうしたんだよ?怒ってるのか?」 タオルで手を拭きながら、彼は本当にどうしたんだよと再度聞いてくる。 黙っていると、お腹でも痛いのか?なんてトンチンカンなことまで聞いてきた。 僕は答えてやる気にもならなかった。 全くをもってあの音は気に食わないのだ。 僕のフィーリングにずかずかと土足で踏み入り喚き散らす。 音楽という片鱗を記号の組み合わせによって手に入れたと思い違っている輩に説教するのも馬鹿らしい。 不愉快だ。 全くをもって不愉快だ。
むすっとしたままでいると、石岡君は苦笑して着信音がうるさかっのか?と聞いた。 わかりきったことをいうなよ、我が友よ。 僕は心のうちで呟いていたつもりだったがもしかしたら声に出ていたかもしれない。 とにかく、そのくらい神経が苛々していたのだ。 「ごめんごめん。今度からはバイブにしておくからさ。」 そういうと、石岡君はなにやら携帯をいじっていた。 メールだろうか、またか。 僕は言葉を出す気力もなくて、無言で部屋へ向かった。
石岡君が携帯を購入してからというものひっきりなしに着信音がなる。 おまけに僕と話しているときやそうでなくとも常に携帯の画面と対峙していないことなんて、風呂場とトイレくらいだろう。 メール件数が異様に多いのだ。 放っておけばいいものを律儀に返事を返すからそれが終わることはない。 なにせ相手は彼とメールしたいから送ってるのだ。あちら側からやめる理由なんて存在しない。
だからといって、僕と話しているときや食事中にまで携帯片手にしなければならない理由にはならない。
それから途中だった論文に取り掛かろうかと思ったけれど、どうにも集中力に欠ける。 それならこいつでも聞くか、と僕はリターントゥフォーエヴァーを引っ張り出してお気に入りのチックのピアノに耳をかたむけた。 普段も何かエネルギーが欲しいときにはこうやって手放しで彼のメロディに心をゆだねるのだ。 うん、これはいい、やっぱりいい。 音楽はこうでなくては。 やっと僕の副交感神経が働いてきたかと思ったそのとき、突如として不可解な雑音が入り込んできた。 その不穏なな響きに僕はびくりと背を震わせた。 リビングからだ。 少しヴォリュームを下げてみる。石岡君はいない。きっとトイレだろう。 それよりこれはなんの音だ。 何かが唸るような、まるで神の怒りの怒濤の様な低い振動、大地を揺るがすような…… 僕はドアから顔を出したまま、ゆっくりとリビングを見回した。そしてついに犯人をつきとめ、 それがテーブルの上に乗っかっているヤツのバイブ音だと知ったとき、僕が部屋を締め切りヴォリュームを最大にしたのは言うまでもなかった。
夕方になる頃には腹の虫も手伝って僕の苛々は絶頂だったことだと思う。 もしこのまま溜め込んでいたらきっとまた鬱だ。いや、発狂するかもしれない。 今だって実際大声で笑いながら走り回りたいくらいなのだ。 電子機器なんかに負けるなぞ不本意だが。 そんなことをぶつぶつと呟く。 「石岡君、ご飯」 だから僕がそう言いながらリビングに出て、てっきりそこにあると思っていたはずのものが存在していなかったとき、 こいつはヤバイと感じたのだ。 「あ、ごめん。今するからっ」 彼ははっとしたように携帯をしまうと、慌ててて台所へと向かう。 「今から支度なのかい!?」 冷蔵庫を慌てて開けている彼の後姿を見て、僕はすかさずそのポケットにおさまる金属の塊りにも睨みをきかせた。 壁にかかる時計の針はもはや九時だ。 自分が食事に頓着する奴じゃないのはわかっている、けどこれはあんまりだ。 こんなのってあるだろうか。 ふつふつと沸き立ってきた感情は潔く吐露すべきだ。 「だいたい…」 そう僕が口を開きかけたときに、 「あ、ごめん。」 そう言って彼はまた携帯を取り出した。メールだ。
これがいけなかった。
「君にとっては僕の食事なんかよりその電子文字相手にしてるほうがよっぽどお好みらしいね」 わざとニヤニヤ笑いながら言う。完全に頭にきていた。 これには流石に相手もかちんときたらしく、言い返してきた。 「なんだよ、その言い方。ごめんって言ってるじゃないか。」 「ごめんもなにも、それで済むならなんとやらさ。大方支度のことなんか頭から抜けおちてその金属と戯れてたんだろう?」 「だからちょっと忘れてただけだって。すぐ終わるよ。」 「いいよ別に、僕は構わないさ。例え飢え死にしたって君の枕元に夜な夜な立つほど湿ったやつでもない。 いや、本当さ。安心してそいつとリレーションシップをはかってくれたまえ!」 「そう言うなよ、」 石岡君は困ったように呆れたように、僕がまた変なことを言い出したか程度の顔で答えた。 それはそれで業腹だった。 「残念ながらどこをどうみて僕にはそんなものに魅力を感じのか分からないし分かろうとも微塵にも感じないね。 そいつは僕の琴線にこれっぽっちも働きかけない、ただの鉄クズさ。」 大きな溜息とともに、少々神経質に聞こえる声が吐き出された。 「御手洗も持ってみれば?案外気にい…」 「はっ!」 そこで彼が言い終わらないうちに僕は大げさに嘆いてみせる。 ノストラダムスから世界の終わりを告げられた人類みたいに悲愴な顔だって、今の僕にはできる気がした。 「大体僕は腕を時計に縛られることすら忌嫌っているというのに、君はそれを知っていて僕の存在自体を支配し洗脳しようとするであろう あの電子媒体に自らこの身をささげろといっているのかい?そうなんだね。酷いな君は、ああきっと僕は明日にでも窒息死だ。 大体あの低俗な意思疎通の仕方を見ろよ。人と話すときっていうのはもともとフェイストゥーフェイスが基本だぜ。 それにメールだ?人の顔を見て話せもしないやつが、よくもまぁ活字だけであんなにもぺらぺらと喋りまくるものだ。 まったく脱帽だね!あれこそ日本語の劣悪化、現代社会の個人の孤立の具現化さ。 そんな塊りが先端技術を背負ってほっつき歩いてるようなもんだ。君は僕にその転落への加担をしろっていうの?」 「演説はまにあってるよ!」 彼もとうとう苛々したように僕を睨みつける。 「ならば僕の言わんとしていることがわかって頂けたんでしょうな、石岡先生?」 「君はいつだって言いたいことはうまく蓑に隠して僕に見せてくれないじゃないか」 「やれやれ。では単刀直入に。メールを僕といるときは、しないでくれたまえ。はっきり言ってかなりの迷惑行為だよ」 本当にずばりと言われて、石岡君は少し逡巡しているようだった。でもだからといって怒りが治まっているわけではないだろう。 「そんなこと言ったって…じゃぁ君は来たメールを放っておけっていうのか?」 「どうせまた君のことだから、ファンの子に聞かれて気安く答えでもしたんだろう?全く、情に棹されて行動してしまうのが君の悪い癖だ」 僕はわざとらしく肩をすくめて、溜息をついた。 彼は少し黙ったが、すぐにまた口を開いた。 「だって、なら……、だからってどうしれと言うんだ。僕は君と違って人の好意をないがしろにできないんだ」 「そのせいで僕の夕食が遅れる筋合いはない。」 流石にそこをつかれると、石岡君は決まり悪そうに黙り込んだ。 自分がした悪いことは自分が悪い。その分別はしっかりと、ときには必要以上に感じてしまうのが彼であることは重々承知だ。 僕はそれを知っていながらあんな発言をしたのだから、少々卑怯だったのかもしれない。 「君、サービス旺盛もいいけどさ、それじゃぁへいこら御機嫌とりしてるどっかの親父と同じだぜ。」 「……」 しばらくの沈黙があって、石岡君が口を開いた。 「なら勝手にしろよ、携帯が気にいらないんだったらその範囲外で生活すればいいじゃないかっ」 「お生憎様、朝から晩まで携帯と懇ろな君という人間が同じ屋根の下に住んでるんだ。それは無理な相談。お門違いだ」 「なら自分で飯くらい作ったらどうだ、洗濯も、掃除も、誰がやってると思ってるんだ。そうでなければ今頃ここは団地のゴミ捨て場にでもなってるさ」 「別に僕が頼んでるわけじゃない。君が勝手にやってるんだ」 しらっと言うと、我ながら冷たい声だと思った。 石岡君の目つきは不穏な光に包まれていて物凄く忌々しいという風に僕を睨みつけている。 一発触発。けど僕だってそんなに心中穏やかではないのだ。 「君なんか、君なんか海に落ちたって車にひかれたって雨の中濡れねずみになったって…僕の知ったところじゃないからなッ」 「誰も探しにきてくれなんて言ってないじゃないか。ありがた迷惑だね。なに、感謝されたいの。折角だけど思考の邪魔だよ」 売り言葉に買い言葉ではあった。けれど流石に言い過ぎたかななどと考えてる暇もなく、次に僕が口を開きかけたときには 目の前で固く閉ざされたドアが憤然と立ちふさがっているのみだった。
謝らなければ。
思えば僕の一生でこんなにもこの言葉を真摯に生み出したことはなかったかもしれない。 けれど僕はその時これは使命だ、ジャンヌダルクが百年戦争に加わるべくして加わったのと同じくらいの使命感が僕を突き動かしていた。 何がそこまで僕の内で湧き出ていたのかは知らないが、もしかしたら僕は友情というものを失うかもしれないという恐怖と その先にちらりと見えた闇への怯えを本能的に感じ取ったのかもしれなかった。 電話台の棚をひっくり返して控えていたメモを探し出す。自分で覚えられないといって彼がメモっていたのを知っていた。 受話器をとって深呼吸をし、行けといわれたらこれからマンモス狩りにだっていけるくらいの自信が出てくるほど自分を落ち着かせた。 細胞内をオキシヘモグロビンが徐々に埋めていくイメージが湧く。 落ち着いていたと思う。しかしそれでいてなんだか脳の芯がしびれているような、そんな錯覚に陥っていた。
そうしてそのまま変な緊張感を感じながら僕はメモされた番号を押していった。 なんていうか、形容し難い、奇妙な感じだ。 初対面の人と狭い部屋に押し込められて二人っきりにされたような、照れくさいような… コール音がやけに耳元で響く。 長い。 少なくとも僕には長く感じられた。 とらない。 家の番号くらい登録してるだろうから、きっと意図的だ。 未だに通信音は僕の鼓膜を揺らしている。 なんてことだ、僕らの友情なんてものは、今現在この断続的な電子音になってようやく皮一枚でつながっているのだ。 一向に応える気配がないので、僕は諦めて受話器を置いた。 きっとそれと同時だった。 ドアの開く音に気づいて、僕が後ろを振り向いたのは。
背後に石岡君が立っていた。 そのとき咄嗟にもしかしてまだ自分に言い残した罵倒があるのかもしれないと思った。和解のわりに彼の表情は芳しくなかったからだ。 まぁ当然といえば当然なのだけれど… だから僕がそう身構えたとき、彼が口を開いた。 「なにしてるんだい君。そんなことして、電話代がもったいないじゃないか。」 目を丸くした。なんていう普遍的な表現が当てはまる人間がいたとしたら恐らくそれは僕だっただろう。 全くをもって石岡君は普段と変わらない様子で喋ったのだ。 きっと未だ彼は怒っているに違いなくて、今日の夕飯どころかそれから一週間はインスタントラーメンをゆでるはめになるのだと 鍋を持つ惨めな自分の姿を思い描いていた僕には、彗星落下より大ショックなように思えた。 全く世の中には不可思議が一杯だ。 「どうしたんだい…?」 この場において、なんて間抜けな質問だと思った。 謝るべき相手に質問とかしてる場合だっただろうか。 けれど予想外な方向で彼は反応を返してきた。 「これだよ…」 溜息混じりで、−それは決してうんざりした風ではなかった−石岡君は携帯の画面を僕に向けた。 「着信画像になんかするんじゃなかったかな。なかなかのスマイルじゃないか、御手洗君」 これならファストフードも採用だよと付け足されたその液晶画面には、いつしか散歩道で撮った写真が映っていた。 桜… 桃色を背景に僕が微笑んでいた。 その画像を見たとき、不意に自分の鼻先に桜の芳香がやんわりと押し当てられた錯覚を覚えた。 笑い声も。桜の下の笑い声も微かに鳴り響く。 こんなもん見たら、怒る気も失せたさ。 と石岡君は忌々しそうに呟いた。 もし僕が今彼の脳内を透視することができたなら、恐らくそこには僕と同じものが映っているに違いない。 推理という名の確信だ。
「ははあ君、僕に惚れたね?」 「……キチガイも休み休みでないと、新鮮味もなくなるな」 「…酷いな。なんだ……君と僕って案外仲がいいんじゃないか」 「なんだよ気持ち悪いな」 「ははっ気持ち悪いね、石岡君!僕らは気持ち悪いね!」 「…まぁ君は気持ち悪いにプラスアルファだけれどね」
その画像を見て。 瞬間に桜のにおいと僕らの笑顔が脳裏をかすめた。 きっと君の視覚にも嗅覚にも、五感全てにそれは働きかけたんだろう?そうしてきっと一番は、気持ちに。
「だいたいメールの大半が御手洗さんは?御手洗さんは?っていう内容なんだぜ。全くをもって心外の至りだよ」 「は?」 「御手洗さんって普段どうしてるんですか?好きな食事は?本は?音楽は?そんなに知りたいのならトイレへ御自由にってくらいだ」 「まぁこの際いささかの暴言は目を瞑っておいてあげるよ…。じゃぁ、なおさら君にはどうでもいいことじゃないか。」 彼は少しの間口を閉ざしたが、やがて吐き捨てるように言った。 「…無二の友人のこと聞かれてるんだ。僕のことならともかくね。ないがしろにするのは…気分悪いだろ?」
2005年02月27日(日)
|
|
|