1歳2ヶ月になった娘は少しずつではあるが社会と関わりを持つ機会が増えてきた。娘はこれから生きていくために人と関わっていく術を身につけなければならない。なので出来るだけ人と関わりが持てる場所に連れ出すようにしている。公園や保育園の園庭解放、育児サークルの集まりなど。
子供がたくさん集まる場所では「業界用語」では無いけれど、それに近しい独特の言葉使いが存在する。子育て1年生の私でも、それらは案外すんなり受け入れることが出来たのだけど「お友達」と言う表現だけは、いまだに慣れることが出来ないでいる。
たとえば公園で遊具の順番を教える時、母親達は「駄目駄目。順番よ。お友達の後ろに並ぼうね」などと自分の子に言い聞かせる訳だが、私にはどうしても不自然な言い回しに思えてならないのだ。
見ず知らずの相手なのに「お友達」とは、これいかに?
私とて、いい歳をした大人なので「お友達」と言っても、本当の意味での友達ではなくて、同じ年頃の子供を指すのだ…ってことは分かっている。まさか人様の子をつえまえて「あの子」と言う訳にもいかないし、だからって「あの方」って言うのもオカシイし。幼児番組のお兄さんも視聴している子供に向かって「テレビの前のお友達」なんて言い方をするくらいだから「お友達」が適切なのだと思う。
もしかすると私は「友達」神聖視し過ぎているのかも知れない。
何某かでお悩み相談(友達間でのトラブル)を見聞きして「それって、そもそも貴方達は友達じゃないのでは?」と思うことが多々ある。私の中で「友達」は「仲間」でも無ければ「知人」でもない。もっともっと大切な、信頼出来る温かな存在だ。しかし、一般的な使われ方で言うなら私基準の「仲間」レベルでも友達と表現しているように思う。
ちなみに私は友達の数は決して多くはない。だけど私が「友達」だと思っている人達は暖かい心を持った魅力的な人間揃いだ。私は財産ってものを持っていないけれど、友達だけは自慢出来る。
娘にはいい友達を持ってもらいたいと思う。軽々しく使う「お友達」ではなくて、本当の友達を。きっと彼らは娘の人生を助けてくれるだろう。そして娘にも彼らの良き友達と思ってもらえる人間になって欲しい。
私もいつしか子育て上で使う「お友達」って言い回しに慣れるのだろうか。しばらくは「なんだかなぁ」と思いながら使っていくような気がするなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
育児サークルのクリスマス会で使う飾り物。今日は夫が忘年会で帰宅が遅いので、せっせと内職で作成した。けっこう大きいので、どうやって折らずに持って行こうかと思案中。
ごくまれな事だけど「どうしようもなくついていない日」ってのが訪れる。今日がその日だった。
ずいぶん髪が伸びてきたし、年末の込み合う前にカットに行こうと、娘を2時間ばかり実家の母にお願いして美容院に行ってきたのだけれど、泣きたくなるほど変な髪型になってしまった。いつも通りで良かったのに、なんだか違う。女性にとって髪型がパッっとしないのは一大事なのだ。「髪なんて2ヶ月もすれば伸びるさ」と自分に言い聞かせてみたものの、鏡やガラスに映る姿を見て憂鬱になることしきり。
娘とお風呂に入っていて、やけに指が痛いと思っていたら、右手の中指がパックリとひび割れて血が出ていた。ひび割れが出来ていたのは知っていたけれど、突然悪化するなんて。痛いといっても日々使う場所なので、そう簡単には治らないだろうなぁ……とまたまた軽く憂鬱に陥る。
入浴後、娘を寝かしつけてホッっとひといき。夫が帰ってくるまでネットでもしながら休憩しよう…なんて思いつつ階段を降りていたら、足を踏み外して7段ばかり落下した。あっちこっち打撲して痛かったなんてものじゃなかった。寝かしつけたばかりの娘が、大きな音で起きなかったのは不幸中の幸い……とは言うものの、ついてない事続きで、なんだか色々と嫌になっちゃったのは言うまでもない。
どれもこれも、よくよく考えてみれば些細なことだ。「ついてない」って言えるのは、ある意味幸せなことなのかも知れない。ものすごく不幸だったり、大変なことが襲ってきた時、人は決して「ついてない」なんて言葉を使わないのだから。
……なんて殊勝なことを思ってみたりしたものの、イマイチ感は最高潮。せめて夕食を美味しく食べたいものだなぁ…と思う。今日のおかずは上手く味付け出来ていたから、それだけは大丈夫のはず。今日はついていない日だったけれど、1日のしめくくりをキチッっとして気持ち良く眠りたいものだなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
ふと我にかえって「あっ、私はどうしてここにいるんだろう?」と思うことがある。
たとえば夫とテレビを見ていて「どうして、この人と一緒に暮らしているんだろう?」と思ったり、娘の寝顔を見ていて「そうだ。私はこの子のお母さんだったんだっけか?」と思ったり。
今の状況に不満があるとか、逃げ出したいと思っているとか、そういう訳ではない。夫との生活に感謝しているし、娘のことだって愛している。なんと説明したら良いのかなぁ。「妻」である自分や「母」である自分に、いまだ慣れていないのだと思う。
夫にそんな話をすると「ちょっと分かるような気がするなぁ」と夫。夫は「白蓮さんは一生1人で生きるって本気で思ってた人だから、ふと今の状況が不思議に思えたりするんじゃないかな」とも言った。そうかも知れないなぁ…とも思う。
「妻」あるいは「母」の立場にある世の中の女性達は、自分の立場をどんな風に受け止めているのだろうか。巷で見かける彼女達は、みな立派に自分のことをこなしているように見えるけれど、もしかしたら私のように「どうしてここにいるんだろう?」なんてことを、ふと思っちゃったりする人もいるのだろうか。
いつか私にも「妻」とか「母」という立場がしっくりくるようになる日が来るかも知れないけれど、妻になって3年弱。母になって1年ちょっと。お尻の青いひよっこでは、まだまだ無理なのだろうか。
今日は友人から1番乗りのクリスマスカードが届いた。ここ数年は、その友人のクリスマスカードを追いかけるようにして、自分もクリスマスカード書きの追い込みに入る。そう言えば私は友人を追いかけてばかりいる。HPはその友人を追いかけるようにして作ったのだ。何年も経つのに進歩が無いなぁ…と思ったり。これはこれで良いのかも知れないと思ったり。
今日はHPのTOPをクリスマス仕様に変えてみた。期間限定。実生活でもクリスマスや年末に向けて準備をはじめなくちゃなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
悪意のひとかけらもなく、寒空の下、夫をベランダに締め出してしまった。土曜日の朝のことだ。
土曜日の朝、急に寒くなったせいか腰痛が酷くて、朝イチで整骨院へ行かせてもらうことになった。私が出掛る時、娘は2階の寝室で遊んでいて、夫がベランダで洗濯物を干していた。ベランダの夫に娘のことをお願いしたりして出掛けたのだけど、その時私はいつもの癖でベランダの扉に鍵をかけてしまったのだ。夫がベランダで洗濯物を干していたにも関わらず。
夫が吃驚したのは言うまでもない。寒い中、洗濯物を干し終えて、部屋に戻ろうとしたら鍵がかかっているのだもの。娘は寝室で1人ご機嫌。部屋着で外に出ていたので携帯を持っているはずもなく、娘は中から開けられないようにした寝室で1人遊んでいる。
夫。絶体絶命。
「娘を1人で家に放っておく訳にはいかない」と、夫は意を決してベランダから脱出。悪いことをして家を締め出された男子中学生のように、ベランダの作を乗り越え、壁伝いに地上へ降りたらしい。その際、足場代わりにした電気メーターのカバーを破壊した。
夫はなんとか無事に地上へ降り、壊れた電気メーターのカバーを見ていたら、タイミングの悪いことに、実家の母が通りかかったそうな。締め出されたことを話すと「あらあら。白蓮と喧嘩でもしたの?」と笑われたのだとか。夫は締め出されたこともショックだったが、義母に「喧嘩して締め出された」と思われたこともショックだったそうな。
夫曰く。「結婚して1、2を争うくらいのピンチだった」
いやはや。妻を整骨院に送り出し、洗濯物を干してくれる優しい夫を寒空の下に締め出すだなんて、本当に申し訳ない限り。お詫びのしようもない話だが、夫は怒っている風でもなく、むしろ「面白くなっちゃってねぇ」と笑っていた。
壊れた電気メーターのカバーは、けっこう修理費がかかってしまいそうだが、夫に怪我が無くて良かった。私が海よりも深く反省したのは言うまでもない。もう少し慎重に行動しなければ。ちなみに、無意識にベランダの鍵を閉めてしまった私だが、玄関の鍵は開けたままだった。
色々と駄目過ぎる。夫には申し訳ないことをしてしまったなぁ…と思うと同時に、自分のうっかりさ加減を反省しつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。
2008年12月05日(金) |
冷たい雨と子供プリン |
今朝はやけに暖かいなぁ…と思っていたら冷たい雨が降ってきた。季節的には当たり前とは言うものの、なんとなく気が滅入る。春先に降るあたたかい雨は家の中にいて雨音を聞いていても、ほんのり幸せな気分になれるけれど、冬場の雨の冷たさはどうしても好きになれない。
娘と2人、自宅に引き籠り。
何か楽しいことでもしなければなぁ……とは思うものの、咳がおさまらず体調はいまひとつ。あまり大がかりなことはしたくなかったので、簡単なおやつを作ることに。家にある物で作れて、娘も食べられる物を…ってことでプリンを作ることに。
娘はもうすぐ1歳2ヶ月。市販品のプリンを食べさせる気にはなれないけれど、家で作るプリンならお砂糖も控え目に出来るし大丈夫だろう。卵・お砂糖は控えめで、やわらかいプリンを作った。大人には少し物足りないが優しい味の子供プリン。3時のおやつまで冷蔵庫で冷やす。
張り切ってプリンを作ってみたものの、娘は納豆と味噌汁をこよなく愛する硬派な女。カボチャやサツマイモと言った甘い食べ物は好きじゃないし、果物も食べなくはないけれどイマイチお気に召さないらしい。要するに娘は辛党なのだ。そんな彼女がプリンを食べてくれるのか? そんなことを心配していたのだけれど、以外にも娘は喜んでプリンを食べてくれた。子供の味覚って分からないものだ。「つるん」とした口触りが気に入ったのだろうか。それにしても嬉しい。
咳がちっともおさまらないので、夕方、雨が上がっていたので娘を抱いて近所の病院へ。おじいちゃん先生が診療している個人病院。風邪薬と一緒に濃い小豆色をした咳止めシロップを出してくれた。咳止めシロップは子供が飲むものだと思っていたのだけど、大人が飲んでもいいんだ…なんてことを思ったりする。ちょっと懐かしい。
取り立てて事件もなければ、大したこともしなかった1日だった。しかし、それはそれで良かったのかも。今日も無事に過ごせて良かったなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
本格的に喉が痛いので押入れから加湿器を出してきた。昨年は加湿器を床に置いて、今年も同じようにしたら娘がパーツを取り外して運んでしまうので整理棚の上に置くことにした。効果を考えると床に置いた方がいいのだけれど、つけないよりもマシだろう。実際、加湿器を置いて、喉の痛みが少しマシになった気がする。
今日は保育園の園庭開放の日だったので、娘を連れて行こうと思っていたのだけれど、喉は痛むし身体はダルイし…って事で断念。娘には筋向こうの公園で我慢してもらった。
公園の木々はすっかり葉を落として寒々しいことになっている。ここ数日、落ち葉が凄いことになっているのだけれど、昨日と今日の晴天で落ち葉が乾燥してきたらしく「落ち葉」が「枯葉」に変化していた。娘は風の吹きだまりに集まった枯葉を踏んで、枯葉がカサカサ言うのを楽しんでいた。
ふと森茉莉の『枯葉の寝床』という作品を思い出してしまった。作品の内容云々よりも題名がとても気に入っている。大量の枯葉を見て「枯葉でベッドを作ったらどうなるだろう」と夢想したことのある人は多いんじゃないかと思う。確か『ちびまる子ちゃん』にもそういう話があったと思う。枯葉の寝床は『アルプスの少女ハイジ』に出てきた干し草のベッドと肩を並べることが出来るロマンだと思う。
落ち葉が枯葉になると流石に秋も終わりだなぁ…と思う。秋の終わりどころか、そろそろ1年の終わりだって近づいている訳だけど。暢気に風邪なんて引いている場合じゃないなぁ…って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
枯葉の寝床。携帯で撮影してみたもののイマイチ。「うわぁ」って感じをお届できないのが残念です。
今日は夢見が悪かった。
明け方、縁起でもない夢を見た。そんな夢を見た理由は自分でもなんとなくわかるような気がする。要するに私は娘のことに関しては心配症なのだ。心配が形になって表れたのだろう。嫌な夢ではあったけれど、滅多に夢に出てこない亡父が登場していて懐しかった。元気だった頃の父だった。あの頃の状態で長生きしてくれるなら嬉しかったんだけどなぁ……などと、自分勝手な事を思ったりした。
喉がいがらっぽくて体調がいまひとつな感じ。先週、熱を出したばかりだし「またしても」なんて事にならないように自重しようと、娘を連れて公園へ行く際も、暖かかったにも関わらずガッツリ着こんで出掛けた。素晴らしいお天気で娘はご機嫌だったが、イマイチ感がぬぐい切れずに帰宅した。
どうにもこうにも、パッっとしないので玄関先にクリスマスリースを飾ることにした。クリスマスリースは2年前のクリスマスの際、手作りしたもの。たしか400円くらいで作ったように記憶している。いつか、しっかり手をかけて、ちゃんとした物を作りたいなぁ…と思いつつ、3回目のクリスマスを迎えてしまった。
体調の方は相変わらずだけど、クリスマスリースを飾って少し気持ちが晴れたように思う。
娘もクリスマスリースを指さして、はしゃいでいた。娘はまだクリスマスをよく分かっていないし、喜ぶって感じではないけれどキラキラした物は好きみたいだ。何某かを「飾る」って事は人を楽しませる力があるのだなぁ。大人も子供も、なんとなく浮足立つ感じ。
クリスマスリースを飾って少し浮足立っているのだけれど、今夜は早めに休もうと思う。風邪を寄せ付けないよう気をつけねば……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
3年目のクリスマスリース。飾っているのが「扉」ではなく和風の「引き戸」なのはご愛敬。煙突の無い日本家屋にもサンタさんは来てくれる…はずです。
先の日曜日は義祖母の百寿のお祝へ行ったのだけど、その時に「100歳まで生きられる人って、ドラクエとかFFで言うなら選ばれし勇者のような存在だなぁ」ってことを思った。
義祖母は息子の世話になっているとは言うものの、母屋とは別の建物で暮らしているので半1人暮らし状態。足腰が弱ってきているとの事だけど、いまだに畑に出ているし、自分の食べる物は自分で作るらしい。お肉が好きとのこと。義祖母が望めば、3食昼寝付きの生活が可能な訳だが「自分の好きな物を、自分の好きなように作って食べる」のが良いらしい。
自分1人のためだけに食事を作るって素晴らしいことだと思う。
私は現在専業主婦なので毎日夫や娘の食事の世話を一手に引き受けているのだけれど、自分1人のためだったら作れないなぁ…と思う。実際、独身時代は経済的な理由から毎日お弁当を作ってはいたもものの、味よりも「とりあえず体裁が整っていてお腹が膨れたらいいや」という低レベルな意識で作っていて「自分の好きな物を作って食べる」と言えるような状態では無かった。
実家の母や、義母は2人とも夫に先立たれていて「自分のために食事の支度なんて真っ平」というタイプ。まったく台所に立たない訳では無いけれど、お惣菜をガンガン利用していて、食事に招待したり、私が作った物を持っていくと「自分で作るのは面倒でねぇ」と喜んでくれる。
義祖母は、実家の母や義母と比べててみても、食べること、生きることに貪欲だ。独立独歩と言うのだろうか。人が生きるためにしなければならないことを、ちゃんとこなしている印象がある。
生きるって当たり前のことだけど「ちゃんと生きる」って案外難しい。当たり前のことを、当たり前に出来るのが100歳まで生きることを許された選ばれし勇者なのだと思う。
義祖母を見ていると見習わなければならないことがとても多い。人生の良き先輩として学ばせてもらいたいなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
日記の内容とは何ら関係はないけれど公園の楠。秋と言えば紅葉だけど常緑樹もいいなぁ…と思う。いつも、そこにある緑にホッっとしたりして。今日は晴天で余計にそう思った。
昨日は夫の祖母の百寿のお祝いに行ってきた。
和歌山に住む祖母は来年の年明け早々に100歳を迎える。年末年始は何かとばたばたするので、100歳のお誕生日には少し早いけれど…と百寿のお祝い会が開かれた。参加したのは30余名の子、孫、曾孫。祖母の家は田舎の農家で豪邸って訳ではないのだけれど、続き和室の襖を外すと広い空間が出来る。3つ続きの和室の襖を取り払うと、30余名分のお膳を並べるのには十分だった。
私の方親戚は、みな大阪に住んでいて、私は「田舎の集まり」というものを結婚するまで知らなかった。それだけに、こういう集まりに参加できるのはとても嬉しい。
みなで用意してもらったお膳を食べて、ハッピーパースデーの歌を歌って、大きなケーキを食べた。1歳の娘は一族最年少だった。お祝いに合わせて特訓(?)した「万歳!」をご披露したりして、すっかりモテモテだった。何かあると主役のである曾お婆ちゃんの横に陣取って、主役の次にチヤホヤ構ってもらっていたので、娘はすっかりご満悦だった。
お祝会に参加できたのは30余名だったけれど、遠くに住んでいたりして駆けつけられなかった人も多くいる。祖母と亡き祖父の2人から、たくさんの子供が生まれ、その子供からまた子供が生まれ……100年のうちに人が増えていった様を目の当たりにして「100年生きる」ってことの凄さを実感させられた。
100年生きるって、どんな感じがするのだろう。36年しか生きていない私には想像もつかない世界だ。祖母の命はその子や孫達に脈々と繋がっている。祖母の血を受けた夫と娘が、祖母にあやかって元気で長生きしてくれたらなぁ……と思う。
用意してくれたお膳もケーキも美味しく、賑やかで楽しい集まりだった。祖母にはこれからも元気で長生きしてもらいたいなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。